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  透明の向こう側 作者:
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 不慣れな東京での研修生活に疲れている筈なのに、いやというほど酒を飲んだと言っていたくせに、あくびひとつ漏らさない真由に内心驚き、一体こいつは、このまま飲み続ければ平気で付き合ってグラスを傾けるんだろうか試してやりたいという悪魔的な好奇心と、人に見せないだけで彼女は疲れている、知っているだろう、彼女はそう簡単に人に弱音を吐いたりしない、休ませてやれという優しさが有薗の胸の内で火花を散らし、優しさに軍配が上がった。「そろそろ休もう。ここ片付けるから手伝って」と声をかけると、調子よく「了解です」と微塵も酔いを感じさせない声が返ってきた。真由が洗い物をし、固く絞った布巾でテーブルとカウンターを拭き、その布巾をもう一度洗って固く絞って干す。その間に有薗はウイスキーボトルを棚にしまい、空き瓶と空き缶は分けてゴミ袋に捨て、食器を拭いてどんどんしまっていく。酔っ払い同士の初の共同作業と思えぬ上々の連携プレーぶりである。
「じゃあ真由さんはこっち」有薗が先に立ってリビングを抜け、廊下を挟んで洗面所と向かい合うドアを開けると、そこはゆったりと広い洋室で、たぶんダブルサイズと思われる大きめのベッドがあった。「ここで寝て」そう言って有薗はクローゼットを開けると着替え一式と毛布を取り出した。「僕はあっちのソファで寝るから」と先ほどまでいたリビングを示す有薗にさすがに真由は「え、そんな」と大いに戸惑って立ちつくした。「うち、人が泊まることを前提にしてないから余分の布団ないんだよね。リビングなら暖房つけっぱなしにしとけば毛布でも平気だから。気にしないで。疲れてるでしょう?ゆっくり寝て。じゃあおやすみ」と有薗はパタンとドアを閉じて部屋を出て行ってしまった。
 ベッドの端っこに腰掛けて、真由はしばし焦点の合わぬ目でうつむいて床を見つめていた。自分が東京にいると知ったら迷わず「会いたい」と言ってくれた有薗。素敵なピアノを聴かせてくれる有薗。フワフワオムレツを作ってくれる有薗。ほんのこの数日、数時間の有薗との会話や行動を思い出しただけでも、やはり、彼はとても魅力的な人間だった。優しい、などという安易な言葉で表現しきれる人物ではない。だからこそ、このおもしろみもない自分にこうも良くしてくれることがわからなくて、怖いのだ。
「ソノさんが怖い」と言ったとき、彼は返事をしなかった。彼はこの言葉をどう受け止めたのだろう。今日も「頑張りすぎるな」「過去の自分を責めるな」と彼らしい柔らかい言葉で、真由の心にストレートパンチを浴びせてきた。
 彼の目に、私はどういう風に映っているのだろうか。
 そんなことを考えていると、彼が洗面所から出てくる気配がした。まっすぐリビングに行ったようである。一度思い切ってベッドの布団にふわっと包まれてみた。真由の家の安物の布団などよりずっと軽くて肌触りもよくて気持ちいい。それにベッドの広さが気持ちいい。寝室にはテレビもDVDデッキもあったから、彼はきっとここでごろんとなってくつろいで映画でも見るんだろうな。そんなことを考えながらしばらく布団の中にいたが、まったく睡魔は彼女を訪れなかった。どれほどの時間か、布団の中で丸まっていたが、意を決してそっとドアを開けて廊下に顔を突き出してリビングの様子を覗いてみた。リビングへ行くドアのガラス越しに見える有薗は、まだ起きているようであった。ソファに腰掛けているらしい人影が動いているのがすりガラスを通してぼんやりと見える。
「ソノさん、やっぱり私がベッドでソノさんがソファだなんて、申し訳なくて眠れない」思い切ってリビングに行くなりそう言ってみた。有薗は手にしていたミネラルウォーターのペットボトルをテーブルに置くと、立ち上がって真由の両腕を優しく掴み諭すように言った。「僕が勝手にうちへ連れてきたんでしょ、何を遠慮することがあるの?」「それ、お水?」「飲む?」「うん」ペットボトルを手渡されると、真由はごくごくっとよく冷えた水を飲んだ。きゅっと目を閉じてその冷たさと喉越しを存分に味わう。「おいしい。酔いが飛ぶ」「さ、体が冷えるから、布団に入りなさい」「私がソファで寝ます。当直のときは寝返りも打てないような狭いベッドで寝たりして慣れてます」「ダーメ」「じゃあ一緒に寝ましょうよ。私寝返りとか寝言とか激しくって、睡眠妨害になっちゃうかもだけど」「それも駄目でしょう」「だって、ソノさんがソファで寝るなんて、私だって気になって眠れないもの。いやだ」「駄々っ子みたいなこと言うんじゃないの」「じゃあ私もこっちで寝る。毛布がないならベッドからお布団持ってくる」とすとんとその場に腰をおろしてしまった。互いに頑ななまでに無言を続けたが、いつまでもこんな冷たい床に座っていては体が冷えるだろう、と心配した瞬間に有薗の負けが確定した。利かん気の強そうな表情で動こうとしない真由に「困った人だな」と呟き、なおしばらく立ち尽くして有薗は彼女を眺めていたが、ようやく逡巡を断ち切り「負けました」と降参した。ほら、と手を差し伸べて真由の両手を取って立ち上がらせると、真由はぱあっと明るい笑顔をはじけさせた。その笑顔を見て有薗は、自分には最初から勝ち目などなかったのだと悟った。寝室に入ると真由がトンと軽く突き放すように背中を押し、ご丁寧に布団をちろっとまくって「どうぞ」と言うので有薗は渋々という感じでベッドに入った。しかし、もはや勝負にすらならないと諦めのついた有薗は体をも少し奧に詰めただけで、真由に向かって横向きになると片手は掛布団を持ち上げて、そこに真由が入るだけの空間をわずかに作り出して真由を迎え入れた。まさか真由を一人リビングに寝かせるわけにはいかない。「じゃあお邪魔しまーす」と無邪気にそこに身を横たえると、彼女の体はふわっと布団をかけられると同時に、有薗の腕の中になった。さらに意を決したように、有薗は真由の体を引き寄せ、きゅっと抱きしめた。「君は体も大きいし、立派な仕事を頑張ってるし、強い人だけど、なんかほっとけないんだよなあ」それは有薗の独り言のようだったが、真由は心臓の音が彼に聞こえるのではないかと心配になるくらいどきりとした。ますます有薗が怖いと感じた。この人には一体何が見えているのか。これが、おもしろくもない自分をなぜ構うのかと問うた真由への答えなのか。それとももしかして「ソノさんが怖い」と言ったことへの彼なりの答えなのか。
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