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  透明の向こう側 作者:
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 有薗は翌日、朝食や問診を済ませると詰め所に断りを入れてさっそく文庫本を持って中庭に行ってみた。時刻は外来で込んでいる頃であったが、中庭のベンチには一人の患者がいるのみで、ゆったりとした時間の流れを感じた。ベンチに腰を下ろしてどれほど時間が経ったか、文庫本を手にしているものの、有薗は考え事に没頭した。仕事に穴を開けてしまったことも気になるが、もう取り返しのつかない事実として入院をする羽目になって昼間からパジャマでうろうろしている自分に、ある程度さっぱりと諦めもついている。目下最大の問題はここを明日退院して、その後東京でどの病院にかかるかということだった。毎年健康診断に行っているのは小さなクリニックで、整形外科を標榜していないことは藤原に確認した。となると他の病院を探さねばならない。しかし普段病気も怪我も縁がなかったことがかえって有薗の問題を深刻にしていた。藤原は「たいした怪我でもないし、自宅かもしくはスタジオの近くとか、とにかく便利の良いところを優先して探しましょう」と言っていたが、有薗には別の思いがあった。自分の身勝手な思いと藤原の言葉と自分の置かれている状況を客観的に見て、逡巡したあげく、正直に真由に相談しようと意を決したのは昼前であった。結局手にした本は一文字も読むことなく、そのまま病室へ戻った。途中詰め所で「渡部先生にご相談したいことがあるんですが、時間をいただけますか?」と訊いたところ、対応に出た看護師はすぐに内線で真由を呼び出した。真由はどういった用件か訊ねているようで、そのまま有薗に「どういったご相談ですか?」と看護師から伝えられた。「退院後の病院のことで」と答えると、看護師はその言葉を真由に伝え、何か返答を聞いたあと電話を置くと「あとで病室に伺いますとのことです」と有薗に伝えた。礼を言って病室へ戻ると文庫本に熱中していた水川が有薗が部屋に戻ったことに気づいて顔を上げ「有薗さんはいいな、自由に歩きまわれて。僕は足がこれだから、一人じゃどこにも行けない」と右足を指して苦笑した。車椅子が必要なほどではないが、あまり歩いてはならないという指示が出ているのであった。「治ったらまたラグビー?若いっていいな」と有薗が正直に言うと「若いっても一番先輩ですよ。もう引退戦は出場無理なんですよ」と少し寂しそうな苦笑を浮かべた。「でも退院はできるから、観戦しますけどね。来年の引退戦のために留年したいくらいですよ」と自ら努めて明るく振舞う水川に有薗は素直に好感を抱いた。無聊な有薗のために本を貸してくれる一方で、水川はそんなにくどくどと自分の話をするほど話しかけてもこないし、気持ちのいい青年だった。有薗についても根掘り葉掘り聞いてくるような真似はしなかった。ほどよい距離感を保ちつつ適度に親しくもある。たった二日間のつきあいだが、彼が同室でよかったと有薗は心底思った。「さっき新しい本読み始めたところなんですよ。ニーチェ。知ってます、哲学者?もう何がなんだかわからないんだけど惹きこまれるんですよ」と文庫本を顔の前にかざして有薗に見せた。有薗は苦笑して「名前くらいは知ってるけど。哲学は無縁だなあ。僕は無学だから」と感心した。有薗に貸したのは純文学、昨日は確か推理小説を読んでいた。幅広い興味を持つ青年だということにも感心した。自分の無知を恥じ、不勉強を後悔しながら歳を重ねつつある有薗は心底、若いうちにいろんなことを吸収するがいい、と思った。
 そこへドアをノックする音があり、そっとドアを開いて真由が顔を覗かせた。「あれ、水川さん、昨日の本と表紙が違いますね」と真由は目ざとく気づいた。「今日は哲学です。ニーチェ」と水川は有薗へのものと同じ返事をすると、真由は「『この人を見よ』でしたっけ?」と本のタイトルを挙げた。「残念。『道徳の系譜』です」と表紙を真由に見せながら「渡部先生はこれ読みました?」と訊ねた。「読みましたけど、理解できたのかどうか。ニーチェが難しいのか哲学が奥深いのか、私が馬鹿なのか」と照れくさそうに肩をすくめつつ苦笑した。そう言いつつも「ニーチェに興味があるなら、ドゥルーズの『ニーチェと哲学』も読んでみるといいですよ」などと指南までしてやる。水川も素直に真由に言われた著者とタイトルをメモにとって関心の高さをうかがわせた。そしてようやく有薗に顔を向けると「ご相談と伺いましたが?」とうって変わって心配そうな表情を見せた。「ああ、退院後の病院のことをね、考えてたんです」「どこか心当たりありました?」「それがね、なくって」と有薗は困った顔をし、外国人のような困り果てたゼスチャーを見せた。真由もそれにはうーむ正直に難しい顔をし、しばらく考えて「夕食後に、時間を設けましょう。この後の検査結果の報告もあるし、高遠先生にも同席していただいて、一緒に考えましょう」と答えた。
 夕食後、昨日と同じ小さく簡素な面談室に、高遠と真由、有薗がいた。有薗は正直に自分の思いを述べた。それは、退院後、再度この病院を受診したいということだった。「知らない先生にかかるより、最初から僕を見てくれている先生方の方が安心できますから」とのことだった。高遠はしばらく考え込んでいたが「怪我はたいしたもんじゃないです。今日の検査結果も問題なかったしたぶん、予測ですが、一週間後くらいに確認の意味で受診して、問題なければその後は放免です。一度、多くても二度受診する程度で済むでしょう」と答えながら真由に向かって少し首をかしげ「君はどう思う?」と言う風に目で訴えた。真由もしばし考え込んだが「東京から神戸までわざわざ来るというのが現実的かどうか・・・」と困った風に返事をした。有薗は慌てて付け加えるように「一週間後くらいなら、ちょうど仕事で九州に行きます。その途中でここへ寄ります」とぐっと身を乗り出した。真由はすかさず「仕事?」と眉間にしわを寄せて訊き返した。「まだ、無理ですか?」有薗は意気消沈という感じで細い声で問い返した。「音楽をされてるんですよね。事務仕事ならともかく、楽器は片腕じゃ無理でしょう。たいした怪我じゃないとは言っても右腕に負担はかけられないですよ」と高遠がやんわりとしかしきっぱりと仕事を禁じた。「休養だと思ってしばらくは諦めてくださる方が賢明ですね」しばらく部屋には無言が流れた。「有薗さんね、ここは有薗さんほどじゃないものの、ご自宅からずいぶん離れて救急搬送されてくる患者さんもあります。その後も引き続きこの病院での治療を希望される方も多いです。それは医者冥利に尽きますよ。ただ、東京は遠すぎます。怪我以外の心身への負担を考えると容易にはうなずけないですねえ」と高遠が言うと、有薗はまた黙り込んだ。そしてまた部屋には無言の時間が流れた。うつむき加減だった有薗がはっとしたように顔をあげるとにこやかに「神戸は観光都市としても有名ですよね。怪我の功名じゃないですが、せっかくの休暇を楽しむつもりで神戸の観光でもしたいな。それならいいでしょう?」
 結局、本人の意思が第一に尊重されるべきということで、有薗は明日の退院後、一週間おいて高遠が外来担当の日に再診に来ることになった。その場では診察の予約ができないため、日付だけ確定させてその場は終わった。部屋を出る際、高遠が「しつこいようですが、まだまだ腕は本来の働きをできません、仕事に焦る気持ちはわかりますが、急がば廻れですよ」と有薗に声をかけると、有薗はにっこり笑って一礼して病室へ戻っていった。
しばらく高遠と真由は面談室に二人になった。「東京の方が病院なんてたくさんあるのに、なんでここがいいのかねえ?」と高遠が不思議そうに呟いた。「それはそうと、明日の退院は彼一人で?誰かお迎えの方は来るの?」と真由に訊ねてきた。「ああ、なんか恋人が来るとか聞いてますけど」と真由が何事もないように答えると高遠はふっと笑って「四十過ぎて独身だけど、ちゃんと恋人ってのはいるんだね。なんか信条があって独身貴族なのかな」とひとりごちた。真由にはそういうことはまったく興味がなかった。
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