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「ねえ、本当に私、ここ数日すごく満たされてるんです。指導に当たってくれた先生方も病院のスタッフもみんなすごく厳しくかつ優しかったし、ソノさんは素敵なピアノ聴かせてくれるし、明日はソノさんと東京タワーでデートでしょ。こんなに幸せでいいのかな。これは本当に現実なのかな」そう言うとくるっとソファに座っている有薗の方を振り向き、身を乗り出して彼の耳をきゅーっと引っ張った。「いたたたっ。なんで僕なんだ」そう言うと有薗もすかさず左手を伸ばして真由の頬をごく軽くつねった。「夢じゃないんだ」「現実だと思うよ。僕、痛いもん」「ごめんなさい」そう言うとこてん、と頭を有薗のひざに預けた。「別に怒ってないよ?」「うん」「僕の方こそ、こうして真由さんと東京でのんびり会えるなんて思ってもなかったから嬉しいと思うよ」しばらく真由は無言だった。そして、かつて有薗が感じたことのある、どこかヒヤリと醒めた口調になり「ソノさんはなんで私なんかをいつまでも構ってくれるんですか?私にはわからない」と彼からは見えないが、伏目がちになって床を見つめながら問うた。一瞬、この膝に感じているのは確かに彼女の頭の重みなのかと、真由が遥か遠くにいるような眩暈に似た錯覚を感じた。「理由なんてないよ。ただ、入院してたときからずっと、とにかくいい人だなって思ってたし、面白いし飲みっぷりは気持ちいいし、僕らの音楽を心から愛してくれてるのがすごく嬉しいし、なんだろうな、とにかく気になる存在なんだよ」「私と話してて楽しいですか?私ってものすごくつまらない人間だと思うんですけど」「そんなことない。面白いというか、味わい深いというか。独特の感じだね」「ふーん」真由はたいして興味もなさそうにそっけなく返事をするのみであった。有薗は表裏なく、人柄のいい男だと思う。そして情が厚いと思う。そしてなにより、ときおり真由の心の闇を見透かすような発言で真由を驚かせ慌てさせる、ふっと警戒してしまう程に。決して誰にも覗き込むことを許さぬ心の深部を、彼は透かし見ているような気がする。頭を上げ、体を有薗の方に向け、彼の両足に挟まれる格好になってまっすぐに彼を見つめた。その目にはいつか有薗が感じた、憂いとも哀しみとも思えるせつない色が浮かんでいた。有薗はドキリとした。
「私、ソノさんが怖いです」
そう言うとしばらく有薗を黙って見つめ続けたが、はなから返事を期待していたわけではないらしく再びぷいと彼に背を向けるとテーブルの上のタバコに手を伸ばし、火をつけた。今までよりさらに有薗に密着するくらいそばに座り込んでいたから、有薗がやはりテーブルのタバコに手を伸ばしたとき、まるで真由に覆いかぶさるような形になった。ふわりと有薗に包み込まれたような感じが一瞬して、それはそれはほんとうに一瞬のことだったが、ふうわりと暖かいものに包まれたようで、その心地に酔いそうなくらいだった。真由のすぐ後ろから、いつもの艶を含んだ声が優しく響く。「真由さん、ほんとに何も食べてないでしょ。そんな飲み方って大丈夫なの?」「医者には止められてるんだけど」「医者?」「ああ、知り合いの医者ね。あなたの飲み方は依存症になりやすい飲み方だって」「なんか作ろうか?と言ってもソーセージをボイルするとか卵焼きとか、そんなのだけど」「あ、卵焼き食べたいな。ふわっと柔らかいの」「また難しい注文をする」そう言いながらも有薗はそっと真由の頭を横へ押しのけて立ち上がると、キッチンでさっさと料理に取り掛かった。真由も立ち上がって、またカウンター越しに有薗の手元を見るともなしに見ていた。カシャカシャカシャとやや乱暴な調子で卵を溶き、ざばっざばっと大胆に調味料を振りかける。かと思えばそこへ冷蔵庫から取り出した牛乳をほんの少し、たらす程度に足している。「そんなに見ないでよ。照れるじゃない」「ダイナミックな作り方なわりに牛乳を足してみるあたり、心憎いね」「なんじゃそりゃ」そしてフライパンにバターを溶かすと溶き卵をざばっと投入し、しばらくかき混ぜて、徐々に形を整えてオムレツにしていった。白い角皿にぽんとフライパンからオムレツをひっくり返し、それをカウンターに置くと「はい、持って行って」と言い、自分はフォークを二本持ってリビングに来た。「ソノさん、結構料理上手なんじゃない?ものすごく手際良かった」「あちこち省略した手抜き料理だよ。でも全然料理しないわけじゃないよ」さくっとフォークを指してオムレツを一口大切り出して口に入れると、それは真由のお願いしたとおり、ふわっとした口解けのほどよく半熟の絶妙なオムレツで思わず「おいしいーっ」とうなった。「そんな大げさな」「ほんととろりとしてて最高。私こういうとろーり半熟卵って大好き」「どんどん食べな」そう言いながら有薗も一口食べてみて「お、我ながらこりゃいける」と自画自賛した。「でしょ?ほんとにおいしい。なんであんな作り方でこんなのができるのか不思議」「それが男の料理ってもんです」ふふん、と偉そうに有薗が鼻で笑い、その威張りくさった様子に真由もふふと笑みがこぼれた。「私思うんですけど、絶対お料理は男の人のほうが上手ですよ」「それは今までお付き合いした人とかの経験から?」「まあそうなるのかな。大抵私が作るより相手が作る方がおいしいの。悔しいから私は滅多に人に、特に男性にはご飯作らなくなっちゃった」最後に男に料理を振舞ったのは一体何年前だろう、などと真由は振り返っても仕方のないことを一瞬考え、少なくとも神戸に戻ってきてからは一度もない、それくらい昔のことだ、と納得した。
当分酒を飲み、合間に皿と口との間でフォークを往復させ、しばらくすると真由が思い出話を始めた。「昔付き合ってた人がすごく料理上手で、お互い一人暮らしだからどっちかの家で一緒に料理することが何度かあったのね。そのたびに『こうして二人で料理するって幸せだよね、結婚したらこういう家庭にしたいよね』って言うの。それがもう鬱陶しくて。何かの料理を半分こしたりするとまた『こういうのいいよね、結婚したら・・・』ってええい、もううぜえ!って思ったことがある。男の料理には嫌な思い出もあるかも」「それってもしかして引っ越して逃げ出したって男?」「まさにそれです。私は結婚する気なんてさらさらないから、結婚願望を押し付けられるのは非常に辛かった」「結婚願望ないの?」「ない。結婚なんて絶対しない」「真由さんほどの人が彼氏もなく、今後結婚する予定もなく、って寂しいというかもったいないね」「ほどの人、って言うほどの人間じゃないです。それに結婚には向いてません。あかの他人と四六時中同じところで暮らして同じものを食べるなんて生活、息苦しくって長続きしないに決まってるもの。私には無理」「本当に好きな人となら一緒にいたいって思うかもしれないじゃない」「学生時代、すごくすごく好きな人がいて。でもその人とも一緒にいるのはそうだな、二日が限界だったかな。泊まって三日目くらいに、その人がトイレかお風呂に入ってる隙に逃げ出したことがある。自宅に帰って心底ほーっとため息ついて安心した」「なんというか、凄くおもしろい体験を持ってるよね」「おもしろいっていうか、変人なんでしょ」「変人じゃなくて、すごく自分の信念みたいなのがぴしっとこう、一本通ってるんだと思うよ。それに合わない人に対しては多少攻撃的に見える面もあるかもしれないけど、決して悪気があってそうしてるわけじゃないでしょ」「悪気・・・少々の悪意はあったと思うな」「でもそんな自分を責めちゃだめだよ。たまたま真由さんとは相容れない人だった、それだけなんだから。僕も四六時中人といたいってタイプじゃないから、わかる気がするな」有薗の言葉が真由の胸に沁みた。彼は確かに、自分の心境や、言葉には言い表せない感情を、的確に掴んでいそうな気がする。一を言わなくとも十をわかるかのように先取る発言でさっきも驚かされたばかりだ。と言って、似た感性の人間だとも思えない。とてもそんなことはおこがましくて思えない。強いて言うならば、彼には筋の通った美学が、音楽だけでなく生き方にも、この無駄のない部屋に住む生活にも感じられる。自分は、筋の通った憎悪を抱え、それを中心に生きている。互いに、生きる上で外せない一本の背骨のようなものがあることが似ているかもしれないが、美学と憎悪。あまりに似ても似付かぬものだ。
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不透明人間
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