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  透明の向こう側 作者:
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 一時間もすれば、テーブルの下には有薗がフランスで買ってきたビールの空き瓶に加えて、国産のビールの空き缶が数本転がっていた。送別会で散々飲んだと言いつつ、真由も有薗につられるようにグラスを空けていた。ビールのストックがなくなったと有薗が立ち上がって空き瓶たちを両手いっぱいに抱えてキッチンへ片付け、お茶を飲んだマグカップとビールを飲んだグラスを洗い始めた。「ソノさんて綺麗好き?」とことことカウンターへ歩み寄り、洗い物をしている有薗の手元をカウンター越しに覗き込みながら真由がそう訊ねると「結構几帳面。自分で言うのもなんだけど」と手元を一旦休め「座ってていいよ。僕がこんなことしてると落ち着かない?」と真正面から真由の顔を見た。「ううん、全然平気。ただきっちりした人なんだなーって感心してるだけ。どうぞ続けて」有薗は洗い物を再開し、真由はリビングに戻ると有薗が持ちきれなかった空き缶を持ってキッチンに行き「ここに置いとけばいいかな」と空き瓶のそばに置いた。「うん、ありがとう。ウイスキーは飲める?って愚問かな」「普段は飲まないけど。いただきます」「じゃこれテーブルに持って行って」と新しいグラスを渡され、それを持って真由はリビングに戻ると床にぺたりと座った。有薗はリビングボードからウイスキーのボトルを一本選び出してソファに座ると二つのグラスにウイスキーを注いだ。有薗の手からグラスを受け取ると、真由はその芳香をふと嗅いだ。「何してるの?」「あ、クセです。食べ物でも飲み物でも、香りのあるものってつい嗅いじゃう。上品じゃないですね」「別に下品だとも思わないよ。スパイスとかは香りも味わってこそおいしいと思うし、気にしなくていいんじゃないの」「ソノさんは家でいつも何飲んでるんですか?」「だいたいビールとウイスキー。たまにチューハイとか飲むことあるけどやっぱりビールが一番うまいな」「最近って、純粋なビールじゃなくて、発泡酒が色々あるでしょ。安いからついそっちを買っちゃうんだけど、たまにちゃんとしたビールを飲むとやっぱりおいしいなって思う」「違いがわかるんだ」「わからない?」「そりゃビールの方が断然うまい」「そうでしょう?でも発泡酒とビールは味が違うって言ってもあんまり理解されない」「女の子だと特にそうなんじゃない?」「そっか。私の友達も、女の子はたいていチューハイとかワインとか。ビールがぶがぶ飲むのっていないな。あ、そうだ。病院で忘年会とか歓送迎会みたいに当直夜勤組残してみんな盛大に飲んだくれる日が年に何度かあるんですけどね、たいていホテルの宴会場で飲み放題なんですけど、女性はカクテルとかで、男性陣はビールか水割り。グラスの中の色が、女性の方が断然カラフルなんです。病院だと看護師さんに女性が多いから、病院の宴会って女性の方が圧倒的に多いんですけど、それはもうにぎやかですよ」「そんな中真由さんは男性陣に混じって飲んだくれるんだ?」「飲んだくれるなんてひどい」ペチンと膝を叩いて抗議すると「ごめんごめん」と全然気のこもっていない謝罪の言葉が有薗の口からこぼれた。「まあ半分事実だけど。宴会が進むと、女性陣だけの固まりと、女性陣に人気の医者の周りにファンクラブ状態の固まりと、残されたおっさんたちと、って感じに分かれるんです。私はいつもオッサン組。まあお互い手酌で気楽に行きましょうや、って感じで。グラスの中はビールか水割りだから、みんな薄茶色系の地味な色で」「なんか想像つくな」白布をかけられた円卓で、中年の男どもと地味なグラスを傾けつつ談笑しているであろう真由を想像して有薗がくくっと笑うと、真由もつられてくすっと笑って「私、溶け込んでいそうでしょう?」とどこか誇らしげにさえ言った。「お医者さんにファンクラブなんてあるの?」「まあファンクラブは大げさだけど、人気のある人っていますよ。あ、高遠先生も意外に人気者です。いつも女性たちの中心にいますね」「ああ、あの人はうん、わかる気がするな。もうなんとなくしか覚えてないけど」えっ、と短く絶句したように呟くと真由はもたげていた頭を起こしてくりっと目を見開いて有薗を見た。「そんなに露骨に引かないでよ。別にそういう目で見てたわけじゃないから」真由のあまりに正直な表情に有薗は苦笑が漏れる。「あ、そうなんだ。ちょっとびっくりした。でも色気なんてあります?私は全然気付かないけど」ハテナ?という風に真由は首をかしげた。彼女は本当に高遠に対して色気など微塵も感じていない。「ある方だと思うよ。真由さんは鈍感なんじゃない?」「ソノさんは色っぽいって言われたことあります?」「自分で答えにくい質問だな」「あるんだ、やっぱり」「やっぱり?」「酔った勢いってことで白状するとね、最初にソノさんの声を聞いたとき、あまりに色っぽくてどきどきした」「嘘?」「ほんと。一瞬自分が何を言おうとしてたのか忘れたくらい」「えー、嘘でしょ」「ほんとに。最初の朝にベッドサイドで話した時、内心ドキドキしてた」「ほんとに?」「大マジっす。だから私は色気に鈍感じゃないか、鈍感な私でも気付くくらいソノさんが色気ムンムンかどちらかです。仕事中に患者さんに対して色気感じたのなんて後にも先にもソノさんだけです」「ムンムンって・・・。もしかしたらそれって色気じゃなくて、他の人には感じない、真由さんだけが察知する何かかもよ?真由さんはほら、女性だけど甘いもの苦手じゃない。だから特殊っていうか」「私、特殊レーダーなんですか?」真由が生真面目に発した特殊レーダーという言葉に有薗は楽しそうにははっと声を上げて笑った。「でも色気あるって言われたことあるんでしょ。否定しないのは肯定ってことです」「どうかな?あ、グラス空になってる。まだいけるでしょ」と有薗は話題の転換を図って答えを結局はぐらかした。「もう結構きてますよ、顔には出てないと思うけど」そっと真由は両手で頬を包み込んだ。「ほんとに?全然見えないよ」「酔ってなきゃ、仮にも主治医である私が患者さんの声にドキドキしました、なんて白状しない」「もうとっくに主治医でも患者でもないんだから別に構わないでしょう」「ちなみにこれなんてお酒?ってうわっ」ボトルの首をくるっと回してラベルを自分に向けて、真由は驚いた。「マッカラン十五年やん!どうりでうまいわけだ」「そんなに驚くほど珍しい酒じゃないでしょ」「私、マッカラン飲んだのはまだ二度目です」「一度目は?」「学生時代に、教授が連れて行ってくれたバーで一杯だけ。すごくおいしかったの、覚えてる」「よくそんなこと覚えてるね」「今の病院に研修が決まったとき、教授がとても喜んでお祝いしてくれたんです。他にも卒業する学生何人もいたのに、私とごく数人だけ『内緒だよ』ってお気に入りのバーに連れて行ってくれて。そのとき頂いたのがマッカランだった」真由が医学部を卒業する年、その教授の元には真由のように慕ってなついている学部生のほかに正式に所属している院生も何人もおり、いつでも教授室には誰かが入り浸っているような状態で、教授自身ため息混じりに「自分の研究がはかどらん」とぼやくことはあっても、滅多に学生の出入りを制限しなかった。それでも学会での発表や専門誌への寄稿、海外の論文の翻訳などを精力的にこなしており学生たちの敬愛の念は深まる一方だった。しかし学外での付き合いはあまりしない人だった。たまに学生が誘っても、論文の締め切りが近いだのとほぼ必ず断る。おそらく、一部の学生とだけ密に親しくすることで余計な疑念が発生する事態を避け、自分の立場と同時に学生たちの身も守っていたらしいことは、バーで「もう自分らは卒業が確定してるからな。袖の下を探られることもない」と漏らしたことと、事実その場には真由のほかに卒業確定の六年生が二人ど院生が二人しかいなかったことで推察される。女子学生からのバレンタインのチョコレートですら、それが義理とシャレとわかっていても「気持ちだけありがたく」と必ず断っていたから、身の回りを清潔にしておくことには人一倍神経を使っていたらしい。そんな人があえて自ら祝いの席を設けてくれたことも、安っぽい居酒屋などでなく大人のバーで対等に扱ってくれたことも、何もかもが思い出深い。「いつか、自分が『よし、一人前でやっていける』って思えるときがきたら、自分にお祝いでマッカランを買って飲もうって決めてるんです」「じゃあ今日出さない方がよかったのかな?」「あ、そういうわけじゃないんです。やっぱり安物のウイスキーなんて比べ物にならないくらいおいしい。ああ、もうほんとに幸せ。さっきのピアノのお部屋に行って絶叫したいくらい幸せです」「いいよ、行って絶叫してきても」「・・・遠慮しときます」絶叫こそしないものの、真由の背中が、声が、大事そうにウイスキーを啜る仕草が、彼女の充実と満足を物語っていた。
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