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  透明の向こう側 作者:
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 シャワーをすませ有薗に借りたジャージを着てリビングへ戻ると、テーブルには二つのマグカップが置かれ、淹れたての湯気が立ち上っているが彼の姿はなく、隣室からかすかにピアノの音色が盛れ聞こえていた。何の曲だかもわからぬほどにかすかな音色にしばらく耳を澄ませながら静かにお茶を啜っていたが、有薗が戻ってこないのでカップを置き、音色に誘われるまま立ち上がって部屋のドアをそっと開けると、そこはピアノのほか、ベースなどいくつかの楽器やアンプなどに埋め尽くされた機械的な部屋で、有薗がピアノで『諸人こぞりて』を弾いていた。別の部屋で音楽でも聴いているのかと思って何気なく覗いた真由は、彼自身がピアノを奏でているその空間にしばし目を奪われた。機械やコードが溢れかえったそれこそ無機的な空間に、有薗の姿だけがぼうっと温かい空気に覆われて存在している。それから視線は細部を捉え始め、一旦気付くが最後、ああ、綺麗な指先だ。と耳は音色に、目は魅惑的な指先の動きにすっかり奪われていた。真由に気付いているのかいないのか、気持ち良さそうにピアノを弾いている。しばらくそうして部屋の入り口で真由が立ち尽くしていると、ピアノの手は止めず「音が漏れるから、入ってドア閉めて」と有薗が静かに促した。「シャワー浴びて少しは疲れと酔いは取れた?」「うん、すっきり。ありがとう」「なんかリクエストある?」ピアノの手を止めると、ふいっと真由を見上げてそんな嬉しいことを訊いてくれる。「じゃあクリスマスつながりで、『戦場のメリークリスマス』」「また難曲をご指名だな」「難しいの?」「教授は難しいね。僕はピアノが専門じゃないから」そう言いながらも、有薗は『戦場のメリークリスマス』を弾き始めた。専門じゃないなんて、謙遜だ、十分にあなたの奏でるメロディは美しい。そんなことを思いながら真由が目を閉じてうっとりと音楽に耳を傾けていると、その曲はいつしか『聖しこの夜』になっていた。ふふっと有薗が笑って「ごめん、『戦メリ』はちゃんと覚えてないしいい加減に弾くのもね」と呟いた。「坂本龍一好きなの?」「もう二十年くらいファンかな。彼がどんなに路線変更しても、なぜかずっと惹かれるな」「彼はあまりにも偉大だね」「ソノさんってピアノも弾けるのね」「うまくはないけどね」「そうなの?私には十分上手に聞こえる」「ありがとう。じゃあ最後にもう一曲」そう言って有薗は『ホワイト・クリスマス』を弾き、終えると真由は「ブラボー」と言ってぱちぱちと拍手を贈った。有薗は立ち上がると右手を中心に体をぽきんと折り曲げて仰々しく礼をして拍手に応えた。「やっぱり生の音楽っていい」「そう?」「感動。聴けて良かった。ありがとう」「風呂上りなのに体冷えちゃうな、あっち行こう」有薗はそっと真由の肩を押して部屋を出ると、パチンと明かりを消してドアを閉めた。「お茶冷めちゃったかな、淹れなおそうか?」という有薗の言葉を正直にそのまま受け止めた真由は、これで構わないと答えたが「すっきりしたところで飲みなおす?」と続いた言葉に彼の真意を理解した。「ソノさんが飲みたいのね」と苦笑混じりに呟くとにっこりと満足げに微笑んで有薗はキッチンからグラスとクラッカーを運んで来、もう一度キッチンを往復して冷蔵庫からビールとチーズを持ってきた。彼が二つのグラスにたっぷりのビールを注ぎ「じゃあちょっぴり早いけど、メリークリスマス」と言ってウインクして見せ、コツンとグラスを鳴らした。ゴクゴクゴクッと有薗が一気にグラスを半分くらい空けたものだから、真由は彼の喉仏の上下運動にしばし呆気にとられたように見入った。「もしかして私が遅いから飲まずに待ってたんですか?」「電話がね、ちょうど僕も帰ってきたとこだったんだ。飲んでから真由さん迎えに行くと飲酒運転になっちゃうからもうちょっと我慢しようと思ってさ」「ソノさん、今日は晩ご飯何食べた?」「ん?今日は外で軽くそば食った」「いつもそんなの?」「ぱっと食ってぱっと店を出るって感じかな」「ふーん」突然真由は立ち上がって自分の荷物をゴソゴソすると、そこから小箱を取り出してそれを手に有薗のそばに立った。「何?」と怪訝な顔をする彼に、真由は自慢げに「じゃーん。マイ聴診器」と小箱を開けて聴診器を取り出した。「いつもそんなの持ち歩いてるの?」「そんなわけないでしょ、研修だから白衣と聴診器は自分のを持って来てたんです」「で、なんでそれを今ここで出すわけ?」「ソノさん、横になってお腹見せて」「ええ?」「おとなしく言うとおりにしなさい」突然命令口調でびしっと言われて有薗はきょとんとしながらも「なんでだよ」と言い返しながら自分で自分を抱きしめる格好になって全身で拒否の意を示した。「だって、ソノさんお酒たくさん飲んでるみたいだし、すごく細いし、心配なんだもの」と心底有薗の健康を案じる心細い眼差しでじっと見つめられるとぐらっと気持ちは揺れるが、それでも有薗は「心配はありがたいけど結構です」ときっぱり断った。せっかく気分よく酒を飲み始めたところで、何が悲しくて腹を出して診察を受けなくちゃいけないんだ。大体が、真由が知らないだけで有薗は人前で裸を見せることを極端に嫌う。ライブの後の楽屋でも他のメンバーが上半身を脱ぎ捨てて体を冷やしながら過ごしたりする中、有薗だけはさっと汗を拭うとTシャツなりポロシャツなりを着てしまう。たとえ男ばかりの場であっても、本来裸体など人に見せるものではないと決め込んでいる。まして酒を飲み交わしながら女性に腹を見せるなど彼にはありえない。だが真由はなおも執拗に食い下がる。「じゃあ白衣着てよ」といやらしい中年男を演じてみても「はあ?残念ながらかわいい看護師さんの白衣と違って、私のは味気も色気もありませーん」と軽くあしらわれた上、真由はニヤリと笑うと有薗の肩をぐっと力をこめてソファの座面に押し付けて半分有薗に乗りかかる形になった。真由の実力行使に有薗が諦めて目を閉じ「ああ、もうどうにでもして」とため息とともに呟いて力を抜くと、真由はソファの脇にひさまずき、彼のセーターと下に着ているシャツをまくって聴診器を当てた。ひやりとした感触に思わず「冷たっ」と声を上げたが真由は構わず「息吸って、吐いて。何回かしてて」と医者らしい口調になって指示する。「はいはい」と応えて有薗はわざとすーっ、はーっと大げさに深呼吸したが真由はそれに対しても笑うでもなく、真剣に聴診器に耳を集中させている。胸から下腹部にかけて何か所かポンポンと聴診器を当てると、今度は腹をぐっと押して「痛い?」と訊いてきた。「別に平気。それも痛くない。これも痛くない」と素直に応えていると「じゃあ次はうつぶせ」と命令が下りやれやれと当分有薗は素直にまな板の鯉になり、ようやく真由が聴診器を耳から外すと助かったとばかりにがばと起き上がった。
「で、どこか悪いところはございましたか?」「何も問題ないです。でもお酒はほどほどに」「ほんとにわかるの?」信用半分、疑い半分といった有薗の顔つきに真由は「さあね」と軽く笑いをこぼしながら聴診器をしまうと、小箱を脇に置いてぐいっとグラスをあおった。「おい、人にはほどほどにって自分は飲むのか、酔っ払いのヤブ医者」ぺしっと軽く頭をはたかれ、真由はへへっと笑って肩をすくめた。「私は毎晩も飲まないもん。少なくとも東京来てから飲んだのは今日だけ」「でも今日はどんだけ飲んだかわからないくらい飲んだんでしょ?しかも焼酎って」「焼酎とか日本酒って、口当たりがいいからついつい飲みすぎるのがいけないな。だから自制して滅多に飲まないんだけど」「好きなのはウォッカだっけ」「好きですね。冷凍庫にはウォッカが入ってます」「凍らないんだよね」「そう。冷たくって氷いらないし、無色透明の美しさが好き」「じゃあストレートで飲むの?」「たいていはね」「冷凍庫にウォッカ冷やして、ストレートで飲んでる女性ってたぶん世間にそうたくさんはいないと思うよ」「うるさい」今度は真由がぺしっと有薗のひざ小僧を叩いて怒って見せる番だった。
「ところでこのビールって何、初めて見る。おいしい」とボトルをくるくる回してみたが、ラベルの文字は日本語でも英語でもなく、真由にはさっぱりわからない。「南フランスで気に入って買ってきたやつ。なんとなくもったいなくてまだ開けてなかった分」「うん、おいしい」「でしょう?」JAMANIA単独ツアーの後、夏の終わりに野外フェスティバルのひとつに参加すると、有薗はすぐにフランスへ旅立った。三週間近く日本を留守にしていたらしい。フランスへ旅行に行ったことは帰国してからメールで知らされた。草原の写真がメールに添付されていた。緩やかに弧を描いた地平線に沈み行く太陽と、燃えるような草原の黄金が印象的な風景だった。「フランスって何しに行ってたの?」「別に。ぶらっと」「ひとりで?」「うん」「よく海外には行くの?」「年に一度行ければ良い方かな。だいたいヨーロッパの南の方、スペインとかイタリアとか、あのへん。なんとなく合うのかな。何度も行ってるわりに言葉はさっぱりわかんないんだけどね」「いいなあ、私もどこか言葉もわからない見知らぬ土地に行きたいな。文化も風習もまったく違うところ」「せっかく行くんなら二泊三日とかじゃなくて最低でも二週間くらい、のんびり行くのをお勧めするよ」「できればそうしたいな。でもどうかな、そうは休めないしな。夢だな」「旅ってものすごい気持ちの贅沢だよね」「ほんとにそう。気分に余裕がないと結局楽しめないもん」しばし、実現しそうもない夢想にふけり、有薗から彼が見た風景や出会った人のことを聞きながら、まだ見ぬ異国の地に思いを馳せた。
「ねえ、さっきピアノ弾いてたけど、よくああしてピアノ弾くの?」「ピアノとかギターとか。本業のベースはサボってばかり」「すごい!ステージで披露してみたら?」「そんな、披露できるような腕前じゃないよ」「でもとっても気持ち良かったし、弾いてるソノさんも気持ち良さそうだった」「ピアノは好きだけど、あくまで自分の家で楽しむものだから。外で金もらってやることじゃない」きっぱりと提案を撥ねつける有薗に、そうだ、この人は美学の持ち主なのだ、と真由は自分の推測が当たっていたことを認識させられた。この人は音楽で客を魅了することに、人一倍強いこだわりがあるんだ。趣味の延長で金を稼いでいるのではない、れっきとしたプロなのだ。彼のプロ根性にはピンと筋が通っているようで、真由は彼の音楽への真摯な姿勢はとても気高く美しいと思った。
「もうすぐソノさんお誕生日ね。こうしてお会いするとは思ってなかったから何も用意してないや。ごめんなさい」「祝う歳でもなし」「でもせっかくクリスマスだし誕生日だし。明日一緒に何か探しましょう」「明日はどこか行きたいところとかある?買いたいものとか」「うーん、思いつかない。まさかこんな風に休暇で東京にいると思わなかったから、何も予習してきてないもの。どこかお勧めありますか?」「そうだなあ。でもあれだ、たぶん家を出るのがどうせ昼過ぎとかになるし、真由さんは帰りの新幹線の時刻があるし、東京タワー行って、その辺で適当に何か食べて、ぶらぶらして。それくらいしか結局できないかもな」「私は十分です。こうしてソノさんといることも、さっきのピアノも、すごく幸せ」幸せ、と繰り返しながら真由はコテンと頭を有薗のひざに預けた。言葉にすると、胸に秘めていたよりも一層幸せがふくらみを増す気がして、真由はピアノの音色を思い出しながらもう一度小さく「幸せ」と呟いた。そんな彼女の頭を「嬉しいことを言ってくれるじゃないの」と言いながら有薗はくしゃくしゃっとなでた。「今週の私はとても幸せ。研修でびしびししごかれたことも嬉しいし、送別会までしてもらったのも嬉しい。本当にずいぶんかわいがってもらった」「見所があるってことなんじゃないの?きっと真由さんはいいお医者さんになると思うな」「そうかな。なれるかな」「医者の知り合いいるけど、仕事以外の時間に人から健康相談されるのはものすごく嫌だって苦々しい顔するよ。真由さんは押し倒してでも診察しちゃうじゃない。そこまで他人に親身になれる人ってそうはいないと思う」「ありがとう、励みになります」「だけどあんまり人を、特に男を押し倒すのはどうかと思うよ」「しませんよ、そんなこと。さっきのは酔っ払いのたわむれと思って忘れて」真由は軽く笑い流したが、有薗は心底、この人の優しさは筋金入りだ、と思った。そしてこの人自身はその優しさにまるで気付いていないのだ、とも。
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