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ふうー、と長く煙を吐き出す真由をじろじろと眺め、ニヤッと笑うと「お疲れやな」と呟いて市川もタバコに火をつけた。「まだ諦めつかんのか」と問われ、真由はしばしうーんとうなりながら考え込み「諦めというか。ただもう呆れてしまって」とほとほと疲れた、という風に肩を落としてため息をついた。災害対応マニュアルの修正に取り掛かってすぐの頃に一度、真由の方から「お願い、市川さん、愚痴聞いて。もう我慢ならん」と彼を誘い出してさんざん、久保のできの悪さをののしったことがある。市川は真由よりも長く久保を知っている分、彼の仕事の遅さや不適切さは熟知していて、彼も久保にだけは何があっても仕事は頼まないと決め込んでいる。久保を嫌っているのは市川や真由に限ったことではないが、当の久保自身は自分を仕事が丁寧で誰よりもできる男を自負しているものだから、影では笑い種になっている。
一度散々口悪く愚痴られたせいもあるし、市川はこれまでの真由を見ていて、マニュアルの中身について悩んでもこんな顔は決して見せない奴だと見抜いている。もしも具体的に中身に行き詰れば高遠なり、他の関連部署の大御所でも構わず捕まえてとことん納得いくまで突き詰めるような奴だ。実際、緊急車両に積み込む薬品について市川はうんざりするほど真由に説明を求められたが、これもこいつの性格、そして成長過程か、とひとつひとつ納得いくまで説明してやり、変更するならこうだろう、と助言も与えた。今真由が疲れているのは、こんなにも仕事のできない奴が同僚だという変えがたい事実、その一点だ。
「諦めろ。あいつはあいつのやり方があるんや。人それぞれ。な?」
こんな言葉が慰めにならないことなどわかりきっていても、そう言ってやるほかない。
「わかってるけど。もうね、この人は一体どんな気持ちでこんなに大量のスペースを打ったんやろうか、とか思ってしまうとね。向上心がないのが恥ずかしくないのかなあ、と」
大量のスペースのために文頭を一括で揃えようにも揃わず、空白を消すためにひたすらDELキーを連打した無駄な時間を思い出してさらに深いため息が出た。その様子を見て市川がふっと鼻で笑った。
「わかってないなあ。もう根本的に考え方が違うんや。ええか、パソコンの機能が百あるとする。お前は自分がそのうち五十しか知らんことを自分でわかってるから、あとの五十を知ろうと勉強する。だからいずれ知識が六十になり七十になっていく。ところがあいつはな、自分が知ってるのが十しかなくても、それを百やと思い込んでるんや。もうあいつはゴールにおるねん、自分の中では」
きっとそのとおりだと思った。現状に満足している人に向上心など求められる筈がない。
こんな愚痴を高遠にこぼせば、彼はきっと真由の言葉が終わらぬうちに事務室に駆け込んで久保に修正を直談判してしまう。久保は自尊心はやたらと高い男だからそんなことになったらもう真由と久保の間に流れる空気は不穏どころではなくなってしまう。結局自分が黙ってやり過ごせばすべてが穏便にすむのだ、と諦めている。それでも、馬鹿みたいに挿入されたスペースを消去するために、肝心のマニュアルの中身から一瞬でも集中力を逸らされるようなくだらない時間は惜しい。
「そういえば、ちょうど市川さんに返そうと思って持って来てた」
そう言うと真由はバッグから一冊の新書を取り出した。『永井荷風という生き方』、それは二週間ほど前に市川が「お前にはまだ早いかな」と言いつつ貸してくれたものだった。市川はよく本を読む男で、家には一体何冊の本があるかわからないと公言している。真由はそれを「市川文庫」と呼んで、ちょくちょく本を借りている。真由が自らリクエストすることもあるが、殆どは市川がと勧めるのに従う。「人として常識としてこれくらいは読んでおけ」と王道をいく純文学が多いが、一度など「これはおもしろいぞ」とイギリス人女性が書いた自伝的小説のペーパーバックを貸されたときには辞書と格闘しながら読んだものだ。市川は幼少時から映画や歌は英語で育ったというだけあって英語は母国語並みに自在に操る。残念ながら真由にはそこまでの英語力はない。結局途中何度かスラングの意味を市川に教わりつつなんとか読み終えたものの「ごめん、たぶん面白さの半分もわかってない。次回からは日本語限定で」と渋い顔をして返したものだ。
つい最近永井荷風の著作を借りたばかりだったから、著者についても知っておけ、くらいのつもりで続けてこの本を渡されたのかと何気なく読み始め、真由は衝撃を受けた。
真由は自分が生涯独身を貫くつもりだなどとと思っていてもわざわざ人に話したことはない。市川にもあえてそんなことを口にしたことはない。しかし、妻子ある市川とこうして人目をはばかる逢瀬を重ね、その彼に愛情や見返りを求めるでもなく淡々と関係を続けていることを、誰よりも市川自身が知っている。『永井荷風という生き方』を読んで、真由は市川に自分の生き方をそれとなくサジェストされたような気がしたのだ。どうせ一人で生きていくつもりならこういう人生があったことを知っておいてもいいだろう?そんな市川の含みがあったようで驚いたのだった。
だが何より真由を驚かせたのは、荷風の子どもに対する考え方だった。
子どもが犯罪者にならないと誰が断言できよう。だから自分は子どもなど欲しくないと彼は言う。
荷風の思いは、自分の抱く恐怖と似ている。子を持つことは、その子がどんな風に育つかという恐怖を持つことに等しい。しかしそんな感情を理解する人がいるとも思えなかったし、理解してもらおうとも思わないから、誰にも話したことはなかった。まさか百年以上前の日本に、そんな感情を共有できる人物がいようとは。ただ、自分の場合ははっきりとした根拠があって自分の体に流れる血が含むものを怖れ、この血を断ち切らねばという思いにかられている。血を、断ち切る。真由はそこまで思い詰め、自分の血を憎んでいる。
だから自分は、永井荷風にはなれない。彼のように美学があって独身なわけでもなければ、自由奔放を楽しんでもいない。彼の人生に漂う「大らかさ」が自分には欠落している。体の隅まで知り尽くし、性格も見抜いているこの男でさえ、その最大の欠落には気付かないのだ。決して悟らせない自分がいるのだ。
看護部長に呼び出し食らってね、高遠先生と不倫してるでしょ、って怒られたよ。
ベッドの中で真由がくすくす笑って看護部長に説教を浴びた顛末を話し、二人で「女の勘なんてアテにならない」と笑い合った。
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