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真由は高遠に指示されたとおり救急ネットワークのシステムの操作を覚えるためにまずは医局の自分のデスクにシステムをインストールし、基本の操作をあらかた覚えてしまうと今度は、自らシステム開発のSEと連絡を取り合ってさらに突っ込んだ操作法や隠れた機能を見出してシステムを徹底的に知り尽くすことに熱意を注いでいた。並行して事務職員から受け取ったデータを自ら加工して災害対応マニュアルの類にも修正を加えていく。マニュアル類のデータをいじりながら真由は密かにこのマニュアルを作った事務員の久保に対し軽い軽蔑の念を抱いた。事務職員ならば事務職のプロだろうが、なんでこんな段落書式ごときがまともに設定できないんだ?とイライラする気持ちを抑え、マニュアルの内容だけではなく結局は文書としての体裁を整える作業にも手を取られた。最初のうちはあちこちにインデントやタブを設定しながら「こんな機能もまさか知らんの?」と驚くばかりだったが、文書を追えば追うほど、作成者がせっかくワープロソフトに備わった機能をろくに使いこなせず、ほとんどタイプライターのごとき使用に留まっていることが露になり、呆れてしまった。何十ページにも及ぶマニュアルなのに、見出しの設定すらない。これではこの文書を作るのはさぞかし時間がかかったことだろう、それも無駄に。その製作者である事務員久保とは以前つまらない衝突をしたことがあるから、真由は今回マニュアル類を整理していて色々と気付いたことはあってもあえてそれを本人に言うつもりはなかった。以前の衝突以来明らかに真由と彼との間には不穏な空気が流れていたし、彼が素直に真由の助言を受け入れるとは到底思えぬ。それに事務処理の効率化など仕事についてもっと本人が自覚しないことには、便利な機能を教えてやったところで彼には有効活用できない。日頃の仕事を見ていても、どうも彼には根本的に事務仕事のセンスがない、と心のどこかで見下してしまっている節があるのを自分で必死に抑えながら、マニュアルの中身に集中しろ、内容に目を向けろと自分を叱咤する毎日であった。
ある日、すでに二十時を回って真由が院内の廊下を歩いているところを薬剤師の市川にすれ違いざま「お前、まだおったんか」と半ば呆れたような声で呼び止められた。
「うん。ほら、災害対応マニュアル、あれやってるから」と答える真由の声には、気を張らなくてよい相手だという安心感につい隠しきれずに疲労の色が濃くにじんでいた。
「市川さんは?」「俺は今日は遅番の日。今から着替えて帰るとこ」「そっか。お疲れさま」「お前、煮詰まっとる顔しとるぞ。今日は切り上げたらどうや」「うーん、そうした方がいいかな」「飯でも食おう。いつものとこで待ってる」真由の返事も聞かずにさっさと市川はロッカールームに姿を消した。
市川にあれくらい強引に言われなければ真由は何時まででもパソコンに食いついて作業を続けたろうが、彼をあまり待たせてもいけない、ととりあえず区切りの良いところで一旦今日の作業を中断した。市川があんな風に声をかけたのは自分を思いやってのことと真由にはわかっている。
神戸海原病院は神戸の繁華街三宮からそう遠くないところにある。だから病院の職員同士でちょっと一杯というときには病院のすぐ近くの居酒屋か、少し足を伸ばして三宮を利用する。しかし、市川の言う「いつもの店」は三宮から逆方向へ離れた、病院からだと私鉄で東へ三駅のところにある。
店に入ると市川はもう殆ど空に近いジョッキを前に一人ぽりぽりと枝豆をつまんでいた。テーブルが五つとカウンターのみの小さな店は厨房の煙と湯気とタバコの煙とムッとする油の匂いに満ちて、視界も曇っている。市川のテーブルには焼き鳥が二本。すでに食い終わった串が一本。
「待った?」真由は迷わず彼の正面に腰を降ろした。
真由自身は病院から徒歩十分ほどのところに住んでいるから、わざわざ市川と会うためだけに電車に乗ってここへやってくる。病院職員の大半は西区や明石、姫路など病院よりも西側から通勤しているから、東側へ出るとまず病院関係者には出会わない。市川は芦屋に自宅があり、彼は途中下車をしてこの店へ立ち寄る。芦屋の自宅は広い庭もあるかなり立派な家だという噂だが、さすがにそれを見たことはない。ただ時折「芦屋のお坊ちゃま」とからかって笑う。市川はもうすぐ五十に手が届く歳で、薬剤部長という立派な肩書きもある上に、がっしりした体格で「お坊ちゃま」という言葉が恐ろしく似合わない。しかし身なりなどは確かに人一倍気を遣っているのがよくわかる。上質な物を身につけているし、めがねから靴の先まですべてに手入れが行き届き、バランスのよい着こなしをしている。
お前もビールでええな、と言うと市川はビールを二杯と大根サラダ、明太オムレツ、豚の角煮と次々料理もを注文した。真由にメニューの希望など訊こうともしない。真由がいつも「なんでもいい、来たもの食べるから」とろくにメニューを見ようともしないからいつの間にかそうなってしまったが、真由にはかえって気楽である。
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