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午後三時、当直明けから引き続き外科で外来診察をしていた高遠が医局に顔を見せた。真由は有薗を一般病室に移したこと、まだ東京での病院が決まっていないことを手短に伝えた。「じゃあ水川くんと同室?どちらも君の担当だね、大丈夫とは思うけど相性もあるからその点もよく注意するように」と注意点を挙げたあと「退院後の病院はまあ、なんとかなるでしょ。東京なら病院も多いからね」と高遠は軽く受け流した。ベテランの高遠のその言葉を得てようやく真由は有薗の今後について安心を得たのだった。
高遠に一通りの報告をして必要な指示を受けると、真由は有薗と水川のいる四〇三号室へ様子を見に行ってみた。軽くノックをして部屋に一歩入ると、ちょうど面会時刻になったばかりで、さっそく水川のそばには母親と友人らしい男が三人いて、わいわいと楽しげな光景であった。有薗は上体を起こして黙々と文庫本を読んでいる。水川の母親が真由に深々と頭を下げたので、真由も軽く会釈をして応えたが、水川の母親は頭を上げると、ベッドから離れて真由に近づいて来、真由の背をそっと押しながら廊下へ出た。「先生、今日から隣のベッドに来られた方、もの静かそうな感じですけど、息子のお友達が来るとご迷惑でしょうか?」と心配そうな面持ちで尋ねてきた。真由は即答を避け「一人は少し寂しい」と呟いた有薗を思い出しながら、少し考えて「たぶん迷惑に思ったりはされないと思います。どうしても気になるようでしたら、食堂とかお庭に出られてはどうでしょう?入院してる水川さん自身にも気分転換になりますよ」と答えた。水川の母親はそれでもなお心配そうな表情を貼り付けたままだったので「大丈夫、そんなに心配なさらないでくださいね」と真由はさらに言葉を足しながら力づけるようにぽんぽんと背中を叩いてやった。
水川の母親は少しだけ笑顔を浮かべて再び頭を下げると、窓際の息子のベッドサイドへ戻っていった。真由も再び部屋に足を踏み入れると、部屋に入ってすぐにあるベッドの上で、有薗は本をひざに伏せて真由を見上げていた。「僕のことを気にしてたんじゃないの?」と無表情に尋ねる言葉は柔らかいが、なかなか鋭い人だな、と思わずにはいられない。「別に」とだけはぐらかしたものの、彼の目が真実を逃すまいと真由をじっと捉えていることに気付くと「前に同室だった人はそれぞれにぎやかな人だったから有薗さんが大人しそうに見えるかもしれません」と婉曲に答えた。続けて「でも人が楽しいのは自分も嬉しくなったりしません?私だけかなあ・・・」と最後、独り言のようになりながら答えを濁した。「うん、僕が大部屋をお願いしたわけだから。実際、ほら、大男三人、楽しそう。ベッドの水川くんは体が思い通りに動かせないのがもどかしそうなのに、それでもやっぱり楽しそうで。友達っていいなあって嬉しくなっちゃいますよ」と言う有薗は眼を細めて、優しい笑みを口元にたたえていた。苦痛を声に出さないこの男は、自分に対しては厳しさと神経質さを持っているが、他人に対しては寛容な人だ、と感じた。結局真由は彼の言葉に甘えることにして正直に答えた。「心配しなくても大丈夫ですよって、お答えしました」と。有薗はにっこりと満足げにうなずき「彼、ラグビーなんてやってるけど結構本読むのが好きな文学青年みたいでね、僕はここに本なんて持ってきてないから一冊借りたんだ」と言って読みかけの文庫本を真由に手渡した。同室になって数時間のうちに、世代を超えてすっかりうちとけた風なことに真由は少々驚いた。文庫本は井上靖の『しろばんば』だった。真由も学生時代に読んだことがある。「へえ、井上靖。いいですね、彼の『あすなろ物語』とか、これも大好きです」と真由が本を返すと「僕も好きだな、『あすなろ物語』。この『しろばんば』も、若い頃読んだよ。確か自伝的三部作かなんかだったよね?」と有薗は本を裏返してあらすじのところを目で追った。そうだ、この三部作で主人公はひたすらドタンバタンと柔道をやっていた、と真由もかつて読んだ三部作の印象を思い出していた。確かなかなか大学に合格しない柔道部の先輩がいた筈だが、彼は結局合格したんだっけ・・・。「ふふ、有薗さん、それ二日で読みきれなきゃ返せないですね、がんばって。でも消灯時間は守ってくださいね。それ読み終わったら三部作の続きが気になって本屋さんに行くことになりそうですね」と真由は笑った。「あっ、そうそう!」とポンと手を打ち、真由は有薗に言った。「本屋で思い出した。有薗さん、この病院の中、探検されました?売店とか場所わかりますか?少ないですけど、雑誌くらいなら置いてますよ」「え?探検・・・はしてないけど。一応看護師さんにパンフレットもらって、売店と、明日行くCT室は教えてもらいましたよ」「じゃあ行ってみません?病院、ご案内しますよ」ベッドの足元にいた真由はベッドサイドに回りこみ、手を差し出した。美しく、かつ頼もしい。素敵な手だ、と有薗はすっと当たり前のように差し出された手と、その手の持ち主になぜか強く衝撃を受けたが口では「うーん、せっかくのお誘いをお断りするのはレディに失礼というものだ」とわけのわからぬことを言って左手を真由に預け、足をそっとおろし、スリッパを履くと腕に力を入れないように上半身を立つ姿勢に持っていこうとした。「どうですか、問題なく歩けそう?もし歩いてみてどこかおかしかったりしたらすぐに教えてくださいね」「うん、大丈夫。平気」真由に続いて有薗も部屋から出たので、真由は部屋のドアをそっと閉じた。「さ。行きましょ、探検探検」と軽い足取りで有薗の前を歩く。「先生なんだか楽しそうだなあ」と彼もにこにこしながら真由に続く。「だって、一日中べったりベッドに寝てるのもつまんないでしょ?まだ夕方の回診まで少し時間あるからその間だけね。そう言えばお昼ご飯は召し上がったんですね。良かった。おいしくなかったでしょ?」「いや、普通にうまかったよ。病院食ってもっと不味いかと思ってた」有薗の顔もすっかり打ち解けたようににこにこしている。真由のほがらかさに安心してすべてを委ねているようだ。真由も彼の笑顔が嬉しい。「一応ね、普通食をお願いしてるので、そのへんの定食屋さんみたいなとこで食べるより薄味かなー、くらいのお料理にはなってる筈なんです」「いやほんと、普通にうまかったよ。で、探検ってどこ行くの?」「思い切って建物の外へ出てみましょうか、はい」はい、と真由が有薗に手渡したのは、前と同じような飴玉だった。タバコを吸えない有薗への精一杯のプレゼントのつもりだった。有薗も、言われなくとも真由の考えていることは理解した風だった。「あ、これはさっきのより甘いな」と少し有薗が顔をしかめて独り言を言ったので、真由はそれを指してくすくす笑った。「甘い物は苦手ですか?」「甘い物はあんまり食べないなあ。普段は主食サケおやつにタバコだから。ってこんなこと言ったらお医者さんに叱られるか。女性は好きですよね、チョコレートとかケーキとか」話しながら有薗の入院している四階から、廊下を歩いてエレベーターに乗って一階へ降りた。「私はチョコもケーキも苦手なんですよ」と真由が少し困ったような笑顔で言うと、有薗は心底驚いたように「え、女性でチョコ嫌いなんているんだ。初めて会ったな。ケーキも駄目って?」目を大きく見開いて、とても興味深そうに真由を見つめた。「ケーキはね、生クリームが駄目なんです。だからチーズケーキとかならOK。一度友達が誕生祝をレストランでしてくれたとき、コース料理の最後に出てきたのがチョコレートケーキでね」そこまで言うと真由は思い出したのか、ふふふっ、と笑って立ち止まってしまった。「うわー、やべえって感じで。でも意を決して食べてみたら、それがそんなにしつこくなくておいしかったんです。といっても二口ほどしか食べなかったし、あれ以来ケーキはまったく食べていませんから、あれはあくまで例外」と楽しそうに話す真由を、有薗は面白そうに眺めていた。
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