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  透明の向こう側 作者:
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「大阪からここまで電車で来たけど、誰も僕のことなんて気にしなかったよ。俺たちなんてそんなもんです」と有薗がやや自嘲的に苦笑すると、真由はくすっと笑って「私の友達に、JAMANIAのファンクラブに入ってる子がいるんです。彼女なら一発でばれるかも。一緒に私がいるなんて彼女にしたら発狂ものかもしれません」と言った。実際、感情表現が正直な美樹が見かけたら街中でも絶叫しかねない、と思う。「へえ、お友達も僕たちのファンなの。嬉しいねえ」と有薗は目を細めた。繁華街から何本か裏通りに上り坂を行って、少し西へ歩いて静かな通にそのジャズクラブ『CUBE』はあった。「ああ、ここ!」と真由がそこを知っていたことが有薗は嬉しかった。自分たちの間に共通項目があることがなんとなく嬉しかったのである。「まだアマチュアの頃にね、演奏させてもらっていたんです。他のバンドでベース弾いたり、もちろんJAMANIAとしても。デビューしてからは一度もJAMANIAとしては来ていない」と懐かしそうに看板を見上げた。「私がここへ来るようになったのは神戸へ戻ってからだから、その頃はもうJAMANIAはデビュー後ですね」と言うと「神戸に戻ってからって?」と有薗が問いかけた。問いかけながら「寒いし、入りましょう」とドアを押し開くと、そっと真由の背中を押した。まだ客は少ない時間帯で、席はどこでも自由に選べた。有薗はステージから一番遠い席を選んで「ここにしましょう」と真由に座るよう促した。「最近は忙しくて来れなかったので、久しぶりに来て嬉しいです」とまだ演奏の始まっていないステージの方に顔を向けた。「喜んでもらえて嬉しいな。誘ってよかった」と有薗が改めて真由を誘い、彼女が応じたことにほっとしていたところへ店のマスターが自ら注文をとりにき「SONO、びっくりしたよ。久しぶりだね」と満面の笑みで声をかけた。「ご無沙汰しちゃって」とひどく申し訳なさそうに、それでも旧知の間柄らしく親しみもこもった声で有薗が答えると「久しぶりに顔見て嬉しいから一杯サービスしちゃおう。SONOはビール党だったな」とマスターの声はさっぱりと明るく、二人の会話をにこにこと聞いていた真由が「私もビールを」と言うと、マスターが「OK。じゃあ今夜はゆっくりしていってよ」とぽんと有薗の肩を叩いて笑顔でその場を離れ、入れ替わりに若いボーイがナッツなどの軽いつまみをテーブルに置いていった。有薗がジャケットのポケットからタバコを取り出し、ふと気付いて「真由さんもどうぞ」と灰皿を押しやってからタバコに火をつけた。「じゃあ、遠慮なく」と真由もバッグを引き寄せ、そこからタバコとライターを取り出した。火をつけて目をつぶると最初の一服は深々と吸い込む。めいっぱい吸い込んで、細く長くふぅーっと息を吐く。一日の仕事の疲れが吹き飛ぶ儀式だった。「ほんとにおいしそうに吸うなあ」とその様子に見とれて有薗が妙な感心をした。そこへビールが運ばれてきた。「では、神戸での再会に乾杯」と言うと有薗はまた軽くウインクをしてビアグラスを持ち上げた。「乾杯」と真由もグラスを持ち上げ、軽くグラスが鳴る。「ほんとはね、あのマスター、ちゃんとバーテンダーの勉強しててめっちゃカクテル好きなんだよ。僕がいつもビール飲むもんだからよく嘆いてた」そう言いつつもうまそうにグイとビールを傾ける。そうだ、神戸にはいくつもジャズバーやクラブはあるのに、ここを知って以来すっかり他へは行かなくなってしまった。音楽や店の空気、客層、いろんな要素が自分の肌に合っている気がするし、何よりここはカクテルのメニューが格段に豊富で、何度来てもいろんな味わいがあって楽しいからだ、と真由は思った。マスター自身ピアニストでときおり演者にもなるが、まさに大人向けのジャズという落ち着いた雰囲気に満ちている。「さっきの、神戸に戻ってって、何?」と改めて有薗が訊いてきた。「ああ、医学部がね、岡山だったんですよ。神戸で一度大学卒業してそのまま就職したんですけど、今度は岡山で医学部に入りなおして。二年前、卒業と同時に研修医として神戸へ戻りました。JAMANIAと出逢ったのは岡山にいた頃です」と説明した。「へえ、じゃあ岡山に何年もいたんだ。僕は出身は香川なんだよ。岡山と香川ってテレビの放送とかも一緒だし、今は橋でつながってるし近いよね」と急に真由と自分が近しい人間のように思えて有薗は嬉しくなった。親近感あふれる優しい笑顔の有薗を見ると真由も嬉しかった。「それにしてもすごいね、一度大学卒業してまた医学部行きなおすって、すごくエネルギー要ることだよね。目標を諦めないっていう精神力もすごい、タフだな」と有薗は心の底から真由の経歴に感心した。「タイムマシンがあれば、高校時代の自分を『もっと勉強して今、医学部に行っとけ〜』って張りまわしたいくらいです。ずいぶん遠回りしました」と見えない誰かをパンパンパーンと張りまわすような大げさな身振りをして真由が笑った。その真由の様子がカラリとしていて有薗には嬉しかった。やはりこの人には笑顔がよく似合う。「いや、いくつになっても夢を諦めずにチャレンジするってすごいことだよ。諦めることの方がずっと簡単だもの」と有薗は真由が照れくさくなるくらい誉めた。
 まもなくステージに人が現れ、音楽が始まった。今夜は真由の好きなピアノジャズがメインらしく、女性ピアニストの奏でる音色が柔らかく耳に響く。そこへ時折ホーンの冴え冴えとした音が載って耳を刺激する。やはり生で聴く音楽は気持ち良い。「どうして仕事やめてまで医者になろうと思ったの?」と有薗は屈託なく訊ねてきた。「最初に大学卒業して勤めたのがたまたま病院だったんですよ。事務職なんですけど。そこで、医療の現場をつぶさに見て、自分のやりたいことは事務じゃない、技術屋だ!医者だ!って使命感に燃えてしまって。まあ子どもの頃からの夢でもあったんですけど、それが再燃したと言うか」と照れくさそうに説明した。「そう思って実際になしとげるんだからすごいよ。もっと自分に自信持っていいと思うよ」と何気なく有薗が言ったことに真由は驚いた。自分に一番足りないのは自信だと常々思っているからだ。自分は遠回りして医師という仕事に就いたが、それが正しい選択だったのかどうか、医師としてこれから多くの患者の回復を手伝えるのか、自信が持てず未だ迷いが払拭できない。それ以前に、自分の存在に自信を持てないでいる。それを見透かされたようで驚いた。一瞬心臓がドキッと高鳴ったが、しばらくピアノの音色に耳を澄ませ、気持ちを落ち着けると「なかなか、自信は持てないですね」とようやくひとことぽつりと答えた。「失敗ばかりで。でももうすぐ研修医じゃなくなりますから。甘えも言い訳も通用しません。頑張らないと」ときりと表情を引き締めると、有薗が「え、違う病院に行っちゃうんですか?」と訊ねた。「いえ、今の病院に採用になりました。ソノさんが運ばれてきたあの救急センターの専属になります」「テレビでよくやる『救命病棟二十四時』みたいな特集に出たりして?」と彼が大げさに驚くのには「そんなわけないでしょう。それに救命センターじゃないし」と笑い流した。
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