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  透明の向こう側 作者:
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 真由はまっすぐな有薗の視線をはずすことができなかった。じっと見つめ返した。その彼女の目がたっぷりの憂いをたたえていることは簡単に見て取れた。「こんなこと、言っちゃいけなかったかな」とついに有薗が視線を窓外に逸らした。「ソノさんは、私を買いかぶりすぎです。たまたま不慣れな土地で入院なんてことになってしまって、自分でも気付かずナーバスだったんですよ。だから私が親切に思えたんでしょう。私は親切でも優しい人間でもありません」と真由は悲しそうな笑みを浮かべた。
 有薗は思った。この人はきっと、優しすぎるくらい優しい人だ。不快に思う同僚がいる、と言いながらも患者ひとりひとりに優しい行動をせずにはいられない人なのに、どうしてこんなに悲しい顔をするのか。こんな悲しい顔もまた、優しすぎるがゆえではないのか。あまりに真由の悲しそうな顔がせつなくて、有薗は心臓をきゅっと絞られる思いがした。
 ますます真由という人間に興味が深くなっていく。入院していた頃は、とにかく明るく快活な人だとばかり思っていたが、こういう顔もあるのだ。何か、彼女という人間がとても奥深い人物に思えた。
「決めた!電話番号、消しません。僕は真由さんと話したくなったら電話します。だから、真由さんは出たくなければ出なければいい。僕は真由さんと話したくなったら電話します」と宣言するとグラスに残っていたビールをぐいっと飲み干した。空になったグラスをトンとテーブルに置くと、改めて真由の顔を見て「決めました」とにやりと笑った。もうこの決意は揺るがないよ、とその笑顔は語っていた。真由は正直なところ困惑するばかりだった。この人は自分を過大評価している。自分はそんないい人じゃないのに。
 その後も、有薗が休養中のことやライブの裏話を面白おかしく話したりして時間が過ぎた。入院中は寡黙な人とばかり思っていたが、その印象を覆すに十分なくらい彼はよく話しよく笑い、ついつい真由も彼の話に夢中になって時を過ごした。
「どうせチケット代、お返しすると言っても受け取ってはもらえないんでしょう?」そう言って、嫌がる有薗を押しのけてバーの支払いを真由が済ませてバーを出ると二人はホテルの入り口まで降りてきた。立ち止まって有薗の方に向き直ると、真由は「ありがとうございました」と言ってぺこりと頭を下げた。有薗は驚いた。「え、何?」と驚く有薗に真由はもう一度「ありがとうございます」と言い「本当、来て良かった。いいライブでした。正直言うと、横浜で学会なんてことがなければ、来ていなかったと思います。チケット送り返していました。来て良かった」とにっこり微笑んだ。「学会?」「そう、偶然昨日今日と仕事で横浜にいました」「ああ、だからスーツなんだ」「それもありますが・・・JAMANIAのライブのときは必ずスーツですよ」「どうして?」「JAMANIAがいつもびしっとお揃いのスーツ姿で、汗だくになりながらも紳士的に演奏するでしょう?だから、私も彼らに見合う格好でライブに臨みたい」「へえ、そんな意気込みのファンがいるってなんかすげえ嬉しいな」嬉しそうに目じりを下げて目を細め、有薗はあらためてチャコールグレーのスーツ姿の真由を見つめた。病院で白衣姿の真由もりりしかったが、タイトなパンツスーツを身にまとった真由もまたりりしいという言葉がふさわしい。女性を形容するのにりりしいという言葉が適当なのかどうか、と思って言葉にはしなかったし、何より、彼女がそのシャープな印象の中にも柔らかな優しさを内包していることは十分知っている。
 ホテルの部屋で、真由は考え込んでいた。有薗は「じゃあ、また!」と当然のように、そして少し押し付けるくらいの強さで言い残すとタクシーに乗って去った。
 夢のような時間だった。大好きなアーティストと一緒にビールを飲み交わした。それだけでも、自分には過分な幸せだと思うのに、彼は自分と友達になろうと言ってくれている。なのに自分はそれを喜べない。喜べない自分の暗い心がただただ悲しかった。
 JAMANIAのSONOと自分が友人になる。現実なのか?あっていいのか?
 自分が、そんな幸運を享受していいとはとても思えなかった。それに、入院中の有薗の振る舞いや、今日こうして復帰ライブに招待してくれた心遣い、今夜のバーでの会話。何もかもが自分には不釣合いなほど好人物だった。自分には、彼のような良い人と仲良くなる資格はとうていない。あるとは思えない。彼に言った言葉「自分を買いかぶっている」というのは正直な気持ちだった。入院中の患者が医師や看護師に特殊な感情を抱いてしまうことはえてして起こりがちなことである。自分にだけ特別優しくしてくれている、と錯覚するのである。有薗も自分を錯覚しているにすぎない。
 左手に持つ携帯電話の画面に表示されている着信番号を見る。薄暗い部屋の中で小さな液晶画面は煌々と光を放っている。この番号を、着信拒否にしてしまえば済むことだ。もし彼が戯言でなく本気で真由とこれからも話したいと思っていたとしても、自分が電話に出なければ会話は成立しない。それだけのことだ。一方で猛烈に「もったいない」という気持ちがある。彼は実に人柄も温厚そうだし、何より学生時代から大ファンだったあのJAMANIAのSONOなのである。これからも電話で話したりもしかしたら会うこともあるかもしれない。信じられない巡りあわせである。医師と患者で終わらせるのか、有薗の言うとおり友人になるのか。自分のこの携帯電話に、重く託されている。
 パタッと画面を閉じると、真由は携帯電話を枕元においてばふっとベッドに横たわり、薄暗い天井を見つめた。結局、その晩真由は何も決断できなかった。深い眠りが彼女を訪れることもなく、ぼんやりとした頭で朝を迎え、朝食もとらずにチェックアウトすると品川から新幹線に乗った。ただ無為に時間が過ぎていった。
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