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深夜の海は、まるで周囲の音の一切を呑み込んでやろうと意思を持っているかのように物憂げな暗さをひっそりと生温かい海面に漂わせている。風もなく、小波すらコンクリート護岸には打ち寄せない。月の出ていない今夜、闇は音のすべてを海に盗まれ、その海をも溶け込ませて人々の眠りを覆っている。
その静かな闇の中に、七階建の白い建物がほんのり浮かび上がっている。
住宅地の中のその病院は、駐車場に設置された病院名を記した看板だけが光を放って強烈なまでにその存在を訴えてくるのみで、敷地内と言えば、建物の少し入り組んだ場所にようやく夜間救急受付が煌々と明かりに照らされ、当直の事務員や警備員たちの姿が見えるほかには人の気配すら感じない。病院は東西を住宅地に隣接し、南側には空き地や遊歩道を挟んですぐに海という格好で立っている。近隣の住民との兼ね合いもあり、深夜でも明かりの消されることのない病棟の詰め所などは建物内部に集中しており、消灯時刻を過ぎればほぼ、病院は暗闇に息を潜めるように存在をひた隠しにしてしまう。
廊下の明かりすら最小限に落とされ、物音ひとつしない深夜三時過ぎ、二階の医局で昼間より集中力を削がれがちな頭に鞭を入れながら医学雑誌に目を落としていた渡部真由のPHSが静けさを破った。パソコンにヘッドホンをつなぎ、ネットラジオをジャズのチャンネルに合わせてくつろいでいたのだが、慌ててヘッドホンを外して電話に応じる。「救急搬送です、すぐにセンターへ!」と当直の事務員の声が短く響く。
「またか」今夜も日付が変わってすでに三件目の急患・・・と冴えぬ頭でグダグダ考えていたかと思うと、さっと椅子の背にかけていた白衣を手に歩き出した。五秒前の真由とはもう異なる顔である。医師としての情熱と使命にみなぎるりりしい目を持っている。
サンダルでリラックスしていた足元は、ささっとスニーカーに履き替えて医局を飛び出し、白衣に腕を通しながら最大限の早足で救急センターへ向かった。深夜の病院はひっそりと静まり返っていて、カーペット敷きの廊下に彼女の足音だけがパタパタと吸い込まれていく。
「まもなく到着します。路上で転倒、右腕を強打したとのことです。アルコール摂取あり」と救急センターの看護師が真由に告げる。と、救急車のサイレンの音が急に近く鳴り響いてきた。「あれかな」誰に言うともなしつぶやくと、真由は頭の中を整理した。強打というがその程度は?レントゲンの用意・・・。真由は二年目の研修医だが、この頃は処置を任される機会が増えてきていた。やらねばならぬという熱意もピークであれば、実際に覚えなければならないことも多すぎて、毎日が必死である。
「四十一歳男性、飲酒により足元が不安定となり路上で転倒、右腕を強打したものです」
到着した救急車から降りてきた隊員の一人が背筋をピシッと伸ばし、救急車内での聞き取り事項を説明してゆく。その間にも看護師たちはきびきびと動き回り、救急隊員と協力して救急車の担架から救急センターのベッドへ患者は移されている。
「患者の意識は?」少し遅れてかけつけた医師からの問いかけに真由が答える。「酩酊状態ですが、意識はあります。打った腕がかなり痛そうですね」真由の指導医である高遠もひととおり真由から状態を聞き取り、患者の様子をさっと観察すると、ふむとうなずいてゆったりと腕組みをして真由に尋ねた。
「さて、これからどうしようか?」
高遠はいつもそうだ。大抵の医師は「自分のやっていることを見ていろ」と言わんばかりに自分で処置を進めてしまうのだが、高遠に限っては「この場合最優先すべきことは?」「禁忌は?」などの<問題>を与えるのだ。もちろん緊急度にもよるが、この場合、高遠がこの構え方で<問題>を出してきたということは、さほど重症でないと見ていい。
「患部を観察します。痛みのある部位を特定し、骨折がないかレントゲンを・・・」「はい、じゃあまず患部見て」高遠に言われるがまま、真由は患者の右腕を見ようと少しかがみながら、あごをしゃくる程度に軽く振り返ってさきほどの救急隊員に向かって訊ねた。「続けて。患者の氏名その他は?」男は黒の半袖のポロシャツ一枚。最も激しく打ったらしい肘付近はすりむいて血がにじんでいた。「アリゾノトモアキ四十一歳、AB型です」救急隊員の声が真由の頭上を通った。「アリゾノさん、腕、痛いですかー?持ち上げられますか?」と真由は顔を観察しながら大きくよく通る声で訊ねてみた。しかし、返事はなく、言葉にもならないうなり声だけが返ってくる。「アリゾノさん、聞こえてますか?言ってること、わかりますかー?」再び真由はゆっくりと問いかける。少し、彼は小さくうなずく仕草をした。ベッドに横たわって痛みをこらえている患者にとってはうなずくことも精一杯のことか。「アリゾノさん、痛かったら叫んでも構わないから、教えてくださいね」と言うと、真由は右腕の肘から先をそっと持ち上げてみた。患者は黙って顔を歪めて苦痛を訴える。「ごめんなさいね、もう少しね」と今度は腕全体を持ち上げるようにした。しかし彼は顔を歪めるばかりで、声を出さない。表情は目いっぱい苦痛を訴えているのに、声を上げるのをこらえている。真由はそろりと腕を下ろした。いけない、この人は痛みを我慢してしまうタイプの人だ、ととりあえず患者の性格に一つの判断をくだす。
「レントゲン撮りましょうね」と声をかけると一旦ベッドを離れ、救急センターの専用端末からレントゲンの予約を入れ、撮影準備の間に転倒の際にできたと思われる擦り傷を何か所か応急処置した。検査の結果、肩から肘にかけて強く打ったようだが骨折もなく軽症、ただし痛みがひどそうなので明日精密検査し、二、三日様子を見ながら安静にしていればよかろう、と高遠が診断を下した。
主治医は君ね、と高遠はさらりと言い、しかしねえ、と続けた。「何か?」「今はほら、一緒にいた人が何人も控室に待っているけど、この人、東京の人なんだよ。身の回りの物とか世話とか、どうするんだろうねえ。ここは神戸だよ」とできあがったばかりのカルテをボールペンでコツコツと叩きながら困ったような苦笑いをこぼした。神戸の繁華街に程近いこの神戸海原病院にはこうして時折、思わぬ遠くからの来客がある。受け入れる病院側にとってはよくあることでも、患者にとっては深刻な問題である。
検査と手当てを終えた有薗が最初に入った病室はICUだった。原則として夜間救急の患者は軽症でも一旦はICUに落ち着く。最も目が届きやすいことと、一般病床に急遽入院患者を運ぶ騒がしさで他の患者を刺激しないためである。ICUのベッドで水分補給のための点滴を受けている彼は、苦しい表情が少しほどけて静かに目を閉じていた。重症でなく、深夜でもあったため、一緒にいた仲間は病室に入らず家族控室で待機したままで、ベッドサイドには誰もいない。真由が家族控室へ入るとそこでは心配そうな暗い面持ちの男たちが物も言わずにソファに座っていた。唯一、びっしりと細かい文字が書き込まれたシステム手帳を広げて立っている四十くらいの男が、事務員に向かって何か話していた。事務員は真由に気づくと「こちらの藤原さんから、患者様の住所氏名等をお聞きして、入院の説明をしました。他の方は一緒にいたお仕事の仲間で、みなさん東京の方だそうです」と男たちを紹介した。
「主治医の渡部です。失礼ですが、有薗さんのご家族に連絡はされましたか?」と藤原と紹介された男の顔をしっかりと見ながら訊ねた。真由は医師として人と話す際には誰に対しても、不躾なくらい真正面から目を覗き込む。目を逸らせたり泳がせたりするのは相手に不安を与えるよ、なめてかかられるしね、とかつて注意されたことがあるから、忠実にその指導を守っている。「彼は独身で実家も四国でして・・・やはり家族がいないといけませんか?」藤原は言いにくそうにそう説明した。「付き添いの方がいらっしゃらないと、身の回りのこと、様々な手続き、すべて患者さんご自身がすることになります。どなたかいらっしゃる方が有薗さんご自身楽でしょうね」と応えつつも、必要以上の重圧を与えないよう「有薗さんの症状はごく軽いものですから、付き添いの方がいらっしゃらなければ、こちらで最大限のお手伝いはさせていただきますよ」と微笑を浮かべてみせた。「その件については、ご本人に決定していただくことにしましょう。有薗さんも朝には元気にお目覚めになります。怪我ですが、たいしたことはありません。念のためもう一度詳しい検査をするためと、安静のための入院です」真由は努めて有薗が軽症であることを伝えようとした。「あのっ」真由の説明を聞いていた男のひとりが立ち上がり、今にも泣き出しそうな心細い表情で真由を見つめていた。真由の胸元にすがりつかんばかりの勢いである。「SONOの腕、治りますか?治りますよね?」なんとひたむきな綺麗な目だろう、と真由は彼に見入った。「そんなに心配いりませんよ」彼の眼差しに、医師としての精一杯の誠意と、人としての優しさとで応える。「SONOは音楽やってるんです。ベース弾いてるんだ。元通り弾けるようになれますか?」「楽器の演奏をしたことがないので私にはわかりませんが、安静を守れば元通りになります。少し、最初のうちは自在に動かせない戸惑いはあるかもしれませんがまず大丈夫でしょう」とにっこりと微笑んだ。こういうとき、不安な患者や周りを落ち着かせる笑顔は大切である。「俺がぶつかったから転んだんだ」とその男はがっくり肩を落とし、うつむいた。事情はよくわからないが、おそらくこの男と有薗が何かの拍子にぶつかって、酔っていた有薗は簡単に転んでしまった、とっさに右腕を地面についたために打ち付けた。そんなところか。しかし現場を見ていない第三者である真由には、その点ではうなだれている男をなぐさめてやることはできない。黙ってやり取りを見ていた別の男がそばに寄ってバンと音がするほど威勢よく肩を叩いた。「心配すんなって、良くなるって医者が言ってんだ。怪我はお前のせいじゃない。あいつが酔っ払って転んだ、それだけだ」実に男らしい励ましを援護するように真由が言葉を足した。
「怪我や病気っていうのは、誰のせいでもありません。難しいかもしれませんが、なるべくしてなったものだと受け入れてみませんか?幸い有薗さんは軽症です。みなで、彼の回復を待ちましょう。今回の怪我は彼に必要だった休息期間なのだと考えてみてはいかがでしょうか」
ありきたりな言葉に過ぎないが、それでも真由の言葉で男たちは少し落ち着きを取り戻したようで、藤原も「そう、休息。最近オフがなかったからちょうどいいよ」と力ないものの、無理に笑顔を作って室内を見渡した。「退院してもすぐにベースが難なく弾けるほどに元通りとはいきません、その点はご承知置きください。しばらく時間はかかりますが、必ず彼は復帰できますから、信じてください」力をこめて信じてください、と言う。この一言は何度吐いても勇気のいる言葉だと思う。自分の何を信じろと私は言っているのだろう。技術?たかが二年目の研修医でそんな大それたことは言えない。ならば人柄か?誠意か?しかし、研修医だろうがなんだろうが、患者にとって自分は紛れもなく医師なのだ。医師として最善を尽くす以外何ができよう。最善を尽くすことを、信じてほしい。結局そういうことなのかな、などと考える。
藤原を残し、他の男たちは宿泊先のホテルへ深夜のタクシーで帰っていった。その後も付き添いのこと、今後のことなどを残った藤原と話し合い、必要に応じて助言を与えた。
再びICUを覗いたりしているうちにもう一件の救急搬送があり、六時過ぎ、ようやく真由は当直室へ退いた。当直室の安っぽいベッドにばふっと倒れるように横になり、しばらく、今ICUで眠っている有薗について考えていた。知っている顔だという思いがぼんやりとあるが、よくわからない。思い出そうとしたがそれ以上頭が働かなかった。
枕にあずけた頭を一旦あげ、イヤホンを耳に着けてポータブルプレイヤーの音楽をスタートさせる。二人部屋の仮眠室は三室あり、うち一室が女性専用となっているが、女医は真由ひとりなのをいいことにポータブルプレイヤーはサイドテーブルに置きっ放し、自由に誰にも気兼ねせず出入りしている。彼女は当直の夜、たとえ入院患者に急変がなかろうと、急患が一件もなかろうと、仮眠をとることはまずない。ほとんどの時間を医局で過ごす。たまに体を横たえても、ただ目を閉じて好きな音楽をかけてひととき心と体をくつろがせるだけだ。
結局この夜は救急車での搬送が四件。この病院にしては多い。それ以外にも自力で、もしくは家族に連れられてやってきた時間外外来も数件あり、落ち着かない夜だったな、とほっとため息が出た。
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