初めてのキスのことなんて、忘れた。
唇が終着地だった頃はもう、思い出せない。
忙しなく身体を撫で回す大きな掌や、啄む唇と舌先、鼻先がくっつきそうな距離で見つめ合うくらいの度胸と情熱がないと、足りなくなったのは、いつ頃だったかしら。
もう、覚えていない。
夜、カウンターで、ソフトドリンクを頼む気になれなくなったのは、いつからだったかしら。
まだ太陽は空を支配していて、空気が、熱い。
アルコールは夜のものだと、決めつけなくなったのは、いつからだったかしら。
あたしは、白い壁に背中を預けて、ささくれて砂埃にまみれた板張りに腰を降ろして、ぼんやりと記憶を掻き回してみた。 コロナの瓶や放り出した素足が、暗い店内に置き去りにされている。
外では市場が開かれていて、あたしはその雑音をただ聞きながら、その中を掻い潜って、こちらに向かって来るレザーソウルの足音をきちんと判別する。
半年前、このチンケな海辺の酒場にたまる、ろくでなしの中でも、一番の魅力を持ったろくでなしを知ってから、あたしは生娘と売女の気持ちの間で右往左往している。
もし、あたしが朝露の様な、ドロップスの様な、いたいけな少女であれば、あのろくでなしはもっと優しかっただろうか。
もし、あたしが街には出ない高級娼婦の様に、魅惑的で、技術に長けていたら、あのろくでなしは溺れただろうか。
あたしはライムを囓り、テキーラの入ったショットグラスを呷った。くだらないと吐き捨てて、笑った。情けなくて、泣けもしない。
扉が開いて、砂埃と強烈な陽射があたしに襲いかかる。
「まだ準備中か」
早口で大声のサングラス男に見覚えはなかった。
「休憩中よ。悪いけど、他行ってくれない?」
舌打ちと乱暴に扉が閉まる音がやけに耳障りで、あたしは大きく息を吐いた。
舌打ちしたいのはこっちの方だ。
紛らわしいレザーソウルの靴音にグラスを投付けてやりたい。
「ニコ、またこんな所にいたのね」
裏から、エルザが入ってきて、呆れた様に溜息を吐いた。
彼女はあたしとルームシェアをしていて、四つ年上の姉の様な存在だ。
「待ってるの」
あたしはそう答えて、再びショットグラスにテキーラを注いだ。
ライムを噛んで、冷ややかな液体を流し込めば、喉が焼けるように痛んだ。
エルザは呆れてもう一度溜息をつくと、腰に手を当てた。
「そんなだらしない事ばかりしてると、あの男だって愛想つかすわ」
――それに、と続ける。
「行方知れずの男なんて、待つだけ無駄よ。ニコ」
黒皮のソファに座って、耳打ちするだけで事が済む男の情婦は言う事が違う。
あたしは皮肉をふんだんに込めて彼女を一瞥した。
「おねえちゃんには関係のない事じゃない」
強調して一つ一つの言葉を吐いた。 あたしの中でとびきり魅力的なろくでなしは組織の中じゃ一番下だった。もちろん、そんな事は問題じゃない。
要は生きて帰ってあたしを抱いて、口づけをして、一時的な安堵をもたらして、再び去って、を繰り返してくれればいいのだ。
約束なんてなくても、いい。
待っている間、あたしは勝手に想いを募らせて、あのろくでなしから離れられなくなって、余韻と恋心と酒に溺れる。
その繰り返しでいい。あたしに恋だの愛だの与え続けられても、そのうち飽きてしまうから。
「可愛げのない娘。 愛想つかされないように笑顔の練習でもしていれば? この街にも、違う街にも女の子はたくさんいるんだから 」
あたしの前に立ちはだかる女の視線には自信と侮蔑がこもっていた。
あたしは、ショットグラスにテキーラを注いで、その液体と囓りかけのライムを忌々しい年上女になげつけた。
――咄嗟に頭に衝撃と痛みが走り、あたしは身を固くする。
「いいかげんにしなよ! ニコ! 」
「うるさい!どっかに行け! 雌猫!孕まされて屋敷からでてこれなくなればいい! 」
アタシの言葉にエルザが小さく悲鳴をあげた。
「なんてこというの! このアル中! 」
エルザはあたしを罵り、ぶちながら涙をながしていた。
あたしはぶたれながら、母親を思い出していた。
そして、エルザが綺麗に化粧を施し、優雅なドレスを着ているのを知った。
あたしは、すっかり忘れていたのだけれど、この街の、エルザの支配者、アントニオの誕生祭が開かれていた。
それに気づいたのは、日が傾きかけて、波の音が聞きたくなったから、海岸に向かおうとした時だ。
だからエルザはあんなに綺麗に自分を飾っていたのか。
窓から賑わう街を見下ろし、あたしは赤地に白のドット柄のフレアワンピースに着替えた。
まだ、どこも暑かった。
汗ばんだ肌に張りつくシャツを脱ぎ、素肌にワンピースを着たら、ひんやりとした化繊が心地よかった。
街のすべてが会場で、至る所に音楽と酒、笑顔が溢れている。
愛すべき支配者の為に、誰しもが楽しげに祝い、酒を飲み、笑っていた。
テラスから流れて来る風とたなびくカーテンに誘われて、あたしは外に出た。
賑わった人々の混雑の中で、白っぽいスーツとボルサリーノを被った男が、こちらを振り返った。
ボルサリーノを少しあげて、肩越しにこちらを見上げる男をみとめて、あたしは、よろけて小さく叫んだ。
「ジャン!」
間違いない。ジャンがいた。彼はボルサリーノを再び頭に乗せると人込みに紛れてしまった。
慌てて、後を追う為に、あたしは部屋を飛び出した。素足で、ミュールのストラップをあげるのさえ忘れて、あたしはアパルトメントの螺旋階段を降りた。
アパルトメントを飛び出して、口紅さえ指していなかった事を思い出し、悔しくなったけれど、とにかく手櫛で髪を梳き、再び、駆け出した。
普段、閑散としているくせに、今日に限って人で溢れた街路は、充分にあたしを焦らし、苛立たせた。
石畳で何度も躓き、ミュールを置き忘れそうになりながら、人々を掻き分けた。
広場に出て、アントニオを見つけて、思わず建物の影に身を潜めた。
あたしはどうも、あの支配者が好きになれない。
偏屈そうで尊大で冷酷そうな、切れの良い横顔が怖かった。
しかし、ジャンが、アントニオの前で腰を折り、差し出された手の甲に口づけしているのには、思わず、見とれてしまった。
ジャンとアントニオは人目を憚るように耳打ちし、さり気なく離れた。エルザは鍔広帽と豊かな髪で顔を隠している。
あたしはハッとして、ショウウィンドウを覗きこんだ。
エルザにぶたれた頬が腫れている。そこに手を当て愕然とした。
ジャンが帰ってきたのに。普段から可愛げのない態度ばかり取っていたから?
とりかえしのつかない事態に、あたしはそこにへたりこんだ。
もう、間に合わない。今更、冷やすものもない。
あたしはただ辺りを見回して、どうにか、少しでも可愛らしくならないかと思案した。
慌てて路地裏に入り込むと、民家の庭先にクチナシの花が咲いていた。
あたしはそれらを髪に挿して、なんとか自分を飾ろうと努めた。
「ニコ」
夢中で、クチナシを摘み採り髪に挿してを繰り返していると、懐かしく響く、愛しい低音が、あたしを呼んだ。
「ジャン……」
あたしは泣きそうになっていた。
足許には、無残に散らばった白い花びら。
頬は赤く腫れ、化粧もしていなければ、髪もめちゃくちゃだ。
「アントニオから聞いたよ。 手が掛かって仕方ないってね。 エルザは心配していたよ」
ジャンは葉巻を銜えると、マッチを擦った。
「だって……、どうして、ジャンばかり危険なことをしなくちゃならないの? 」
あたしは後退りながら、髪で顔を隠した。
「おれだけじゃない。 みんな、アントニオだって、危険なことをしなくちゃならなかった。 そうしてきたんだ」
「……でも、」
「仕方のないことなんだよ。 もし、どこかでおれが死んだら、選ばれなかった。只、それだけの事だ」
「そんなの嫌よ」
「ああ。でも、今おれは帰ってきただろう? 」
ジャンは煙を吐きながら、首をかしげた。
「ニコ、おかえりと笑って、キスをくれないか」
あたしの手を取り、引き寄せる。
あたしは逆らうことすら出来ずに腕の中へ、引き込まれた。
唇を啄まれて、何度も繰り返される口づけ。
葉巻の甘く香しい薫りと柔らかな唇。大きな手のひらと指先の行方。
あたしに刻み付けられるジャンのメソッド。
「……なんだか甘い香りがすると思えば……」
ジャンが、微笑してあたしの髪からクチナシの花をとって見せてくれた。
「クチナシの花を見たら、ニコとの口づけを思いだそう。だから、これからはテキーラは控えてくれよ?」
あたしは、照れ笑いで、もう一度、口づけた。
ジャンとのキスはクチナシとテキーラと葉巻のせいで、ずっと忘れられないだろう。
あたしが初めてのキスを忘れてしまったのは、きっと、この印象的なメソッドを持つ男のせいなのだ。
終 |