4.こんばんはとありがとう
コーヒーを両手に部長が部屋に戻ると、紙は随分と黒く姿を変えていた。山下はただ黙々と紙を埋め、部長が帰ってきたことにも気づいていないようだった。
「あんまり根を詰めて書かなくてもいいから。大体でもいいからな」
「ああ、大丈夫っすよ、できるだけ読みやすくなるよう気をつけてますんで」
山下はそういうと再び紙に視線を落とした。右手は忙しく走り回り、ペンの音が乾燥した部屋に無機質に響く。
部長はここに置くから、とコーヒーを山下の前に差し出して、自分は早々にふたを開けると、ぼんやり外を眺めた。空は濃密さを増し、まもなく夜が来ることを教えていた。冬は日が落ちるのが早い。蛍光灯の明かりが自己主張しだし、部長の手元、コーヒーのラベルを強く照らした。
「雪は降らないで欲しいね」
「そうっすね。ここら辺の人はスノータイヤ持ってないすからね。めっちゃ怖いっすよ。あ、書けました」
山下は紙とペンを部長に差し出す。紙には『俺の自慢ベスト5』と銘打った太い文字のタイトルの下に、箇条書きで5つの自慢、自己形成の要因とも取れる出来事が羅列してあった。
部長はその一つ一つにゆっくり目を通す。内容だけではなくその文字の形、バランス、大きさ、全てを吟味し評価しているような、極端に時間をかける見方だった。
「この、第5位『とばっちり恋愛事件』ってのは詳しい出来事が書いてないけど?」
「ああ、それは書ききれなかったんで、直接話そうと思って空けときました。聞いてもらえます?」
「もちろん。そのために私はいるんだよ」
部長は山下が書き汚した紙とは別の紙を、鞄からすばやく取り出した。はじめは使うつもりもなかった、評価用の予備の紙だ。部長は紙を置きペンを握り、山下の発言を極力聞き漏らさないよう、要点を抑えられるよう準備した。その右手は獰猛なガゼルのように機会をうかがっていて、まるで発言全てを書くことが目的かのような、妙な緊張感すら見て取れた。まだ中学くらいのときの話なんすけど、と彼は声を並べ出し、部長はやわらかい笑顔でそれに答える。時刻はもう6時を回り、辺りは薄暗くなり始めていた。
「で、結局、ツレがそれで納得した、って話しなんすわ」
山下は、第2位の「喫煙予防キャンペーン」について説明し終わったところだった。気がつけば全てのテーマについて彼は背景と詳細を話しており、部長の用紙は4枚目を黒く埋めきっていた。
「ちょっと手が疲れたし、休憩しないか」
部長の一言で、彼は椅子から立ち上がる。
「コーヒーでいいんすか?」
山下は、次は俺のおごりで、と小銭入れを取り出した。
「じゃあ、コーラにしてもらえるかな。実は苦い飲み物っていうのが苦手でね」
部長はそう言って照れくさそうに笑った。
「なんすか、じゃあさっき言ってくださいよ。俺コーヒーでもよかったのに。てか、二回目もコーヒー飲んでましたけど?」
「部長はコーヒーって決まっているんだよ」
「会社では、すか。あほくさいんで、そういうのはなしで。じゃあ、ちょっと行ってきますわ」
山下は廊下を、休み時間のように走りぬけていく。遠くなる足音を、部長は無意識に追いかけていた。
あいつは、なかなか面白い奴だな。そもそも、俺にはあんな勝手な行動なんてできやしない。馬鹿げているとは思うが、若いってのは、いいもんだな。
彼は、若い青年の自由さを羨んでいた。が、それを除いてもどこからか浮かんでくる思い、まるでクラスのヒーローと一緒に遊んでいたときのような、自分も強くなったような感覚を彼は感じていた。根拠のない自信に、身をゆだねる。
時刻はもう20時を過ぎ、会社の中にいる人間は少ない。そういえばこの会議室の使用許可も、18時までしかとっていなかったな、と彼は今更思い出し、そしてすぐにその記憶を捨てる。どうせ誰も来やしないんだ、使う奴がいないなら、好きにしてもいいだろう。就業時間外の雑談だと思えばいいのさ。
ふう、と息を吐き、天井に向けた視線をタバコに落とす。と、山下が久しぶりに早く家路に着けた父親のようにドアを開けた。
「なんか、俺もコーラにしてみました。でも、350と500買ってきたんで、好きな方選んでいいっすよ」
そういうと、高さの違う缶をこと、と机に置いた。
「一つだけ残念かもしれないことがある。500を私の分だとするなら、山下君は私の年齢を考えるべきかもし れないな」
言い切るのが早いか、彼の右手は500のプルタブを開く。彼は、合計1リットルのコーラを胃に流し込むつもりらしい。部長は、ならいいんだ、と350に手を伸ばし、人懐っこい笑顔の山下に答えた。
「さて、残りは1位だが、1位は何も書いてないんだよね。これはどういうことかな」
と、部長が切り出す。本来1位こそが、彼を評価する一番の基準であり、指標である。
「実は、1位って、正直選べないんすよ」
山下は、ポケットから新しいタバコを取り出して、火をつけた。
「なぜ?あれだけいろいろなことがあったんだ。君を形作った素敵なことがあったんじゃないのかい?」
「そうなんすけどね。あの、今更なんすけど、部長の1位ってやっぱ離婚ですか?」
山下は聞きづらそうにそうつぶやく。本当に子供のようだな、と部長は彼の目を見る。
「いや、離婚は2位だ。1位は違う」
「それって何歳くらいの出来事ですか?正直、俺、まだまだすげーことがこれからいっぱいある気がして、 1位ってつけたくないんすよ。ほら、一回1位選んじゃうと、それが基準になりそうじゃないっすか。それ が嫌で」
大丈夫、と部長は言った。日曜の午後のような、緩やかな声だった。
「1位は、自然に1位になる。こと、対戦相手がいない順位において、1位はおそらく、始めから決まっている んだよ。だから、心配しなくてもいい。僕の1位は、18のときの話だ。君がまだ1位を選べないというのな ら、それは出会っていないからなんだ。そのうち出会うさ」
彼は、言い終わるとその日10本目のタバコを吸う。その煙は、のんびりと天井を目指す。まるで世界のその先が天井にあるかのように。
「そんなもんすか。まあ、じゃあ、あれが1位でいいか。そもそも自慢とか、そういう話じゃなくて、なんか すげー覚えてて、自分的には大事な言葉なんすけど」
そういうと山下は照れくさそうに頭をかいた。長い、社会人に似つかわしくない髪がわしゃわしゃと彼の額を動く。
「なんだ、1位、あるんじゃないか」
「まあ、はずいんで、書かないようにしただけなんすけど」
山下の視線が壁に固定される。そして、言葉を続ける。直接言うのは恥ずかしいから、壁に一度跳ね返った言葉でもいいかい?と、彼の目がそう言っている。
「1位は、親父に言われた言葉です」
親父、もう随分そんな言葉使ってないな、と部長の耳が告げる。
「俺の親父は、まあ、小さい工場のラインなんすけど、自慢が一日も休んだことがない、ってことなんす。 それで皆勤賞とかもらってたんで、本人は満足そうでしたけど」
あ、この話、長いんすけどまじで帰る時間とか、と山下が言うのを、部長が制する。大丈夫。その一言は、山下が続きを話すに十分な優しさと強さがあった。
「じゃあ。で、1日も、ってのは会社がある日だけじゃなくて、休みでも不良品とか、事故とか、なんかある と必ず、しかも自分と大して関係ない事件にも首突っ込んでたらしいんすよ。一回工場が火事んなったと き、結局3週間家帰ってこなくて。母親が毎日弁当作って持ってってたのすげー覚えてます」
部長は、おそらく自分とよく似た年であろう山下の父を想像する。
「すごいお父さんだ」
思わず言葉になんの不純物も含まず、そうつぶやいた。
「今ならそう思いますけどね、ちょっとかっけーな、とか思いますよ。でも、あのころは最悪でしたよ。い つもいねーし、俺、妹いるんすけど、妹なんて親父が親父だって分かったのが6歳すからね。それじゃ父親 として意味ないでしょ」
まあ、確かに。二人は頷いて、会話が続く。
「でね、俺が高校1年のときかな。学校休んでゲーセン行って、ちょっと早く家帰ったんですよ。4時くらい かな、そしたら親父がいるんす。意味わかんないでしょ。いつも家にいないのに、そんなときだけいるん す。うわ、うざって思いましたよ。説教好きな親父でしたからね。で、俺が顔合わさずに自分の部屋行こ うと思ったら、おい、って呼び止められたんす。とりあえず、なに?っつって正面に座って。そしたら親 父が見たことないような笑い顔して、もうにっかーってしてるんですよ。そんで『俺な、仕事辞めるわ』って。あの親父がですよ。家より仕事優先の親父が。仕事やめるって。正直、金なくなるじゃんとか、そん なこと全然思わなくて、そんなことより、親父が親父じゃなくなるんじゃないかって、そんなんばっか考 えちゃって、そしたらパートからちょうど母親が帰ってきたんです。こんな時、なんかちょっとすげーな って思いません?偶然て。」
二人は同時に咳払いをする。その音は、偶然に対するきっちりとした同意の形をとって二人の間に落ちた。
「で、親父が、おんなじことを、さっき聞いたよってくらい同じ感じで言って。そしたら母親はなんつった と思います?」
どうして?と部長は言った。自分ならきっとそう言うだろう。そう言ってしまうだろう。彼を信じてい る、でも彼が決断した理由が分からない。寂しいけれど、それがきっと他人と暮らすということなんだ。
「そう、って言って、夕飯の支度しだしたんすよ。意味わかんねっしょ。で、俺が母親に食って掛かって。 親父やめるんだぞ、どうすんだよ、って聞いたら、『やめるんでしょ、それだけじゃない』って。困ると か、変わるとか、そんなこと全然考えもしないって感じで言って。正直ちょっと怖かったです。こいつら なんなんだって。そしたら親父がちょっと出かけてくる、って言うから、呼び止めました。意味わかんね ーからって。親父は靴はきながらにやっと笑って、やめるって、すげーだろって。言ったのはそれだけで す」
ははは!と、無邪気な笑い声が部屋に響いた。部長は、松田はその言葉の意味が驚くほどよく分かった。分かりすぎて、自分も思わず辞めたいと思ってしまったほどだ。
「それはすごいよ。君のお父さんは、かっこいい人だな」
「自慢の親父ですけどね。でもあん時はまじでわかんなかったすね。正直今もそんなよく分かってないんで すけど。でも、あれが、俺の1位だと思います。親父の言葉なんで、なんか照れくさくて言うつもりなかっ たんすけどね」
その言葉の意味に君が気づくとき、君はきっと素敵な大人になるんだろう。部長はふと天井を見上げた。会議室のそれは恐ろしく無機質だが、なんとなくその向こうの夜空が、今日だけは透けて見えるんじゃないかと思った。
さて、その学校誌だが、今ではもうなくなってしまった。全てを捨てる、という中に含まれていたのだから、それは仕方のないことだ。きっと僕の人生にまったく興味のない人間が、世界に関心を持たない炉にくべてしまったのだろう。灰は、廃棄されるなり、肥料になるなりして循環する。そこに思いなんて残っていなくていい。残っていたって困る。あれは、僕だけの宝物なんだから。
「で、この話を受けて、部長はなにするんすか?」
「私なりの考査を経て、君の上司に評価を委ねるんだよ」
「え?部長が評価するんじゃないんですか?意味なくないすか?」
「意味はあるよ。君の上司は私の後輩だ。嫌とは言わせないよ」
そうやって、松田は笑う。無邪気な十代のような、屈託のない笑顔だった。
「じゃあまあいいか。でも、あんま恥ずかしい話しないでくださいよ。そもそも俺は、賞なんて別にいらな いんすから」
「仕方ないだろ、会社のルールなんだから」
モチベーション向上施策だかなんだか知らないがね、と付け加え、彼はタバコを銜える。
「あれ?部長的にはそんなん言っちゃだめっしょ。怒られますよ、次長とかに」
「君は、僕がそう言ってたと誰かに言うのかい?例えば次長とかに」
「言うわけないっすよ。ああ、建前ってやつすね。まかしといてください、俺そういうの絶対言わないん で」
言ってもいいよ、と彼は言い、言いませんと彼は言う。そういや、と言ったのは、どちらだったか。
「言葉の意味だけど」
松田が紡ぐ。山下が拒否する。
「あ、自分できちんと分かるまで、言わないでくださいよ。いちおう親父の年までには分かってる予定なん で」
山下は、人差し指で自分の唇を抑え、松田の言葉を遮る。松田はそれに従う。緩やかな沈黙。
「それがいい。それがいいと思うよ。それが分かれば、きっと君は社会人として面白いやつになってるだろ う」
だといいんすけどね、と山下が少し照れて笑う。親父が本当に好きなんだな、と松田は彼を見た。
「あ、さっきの話、実は続きがあって」
と、山下は思い出したように付け足した。
「そうか、じゃあせっかくだから最後まで聞かせてくれ」
はい、と山下は椅子に座りなおす。
「そのあと、妹が学校から帰ってきて、親父に同じこと言われてるの見たんです。あいつまだそんとき中2 で、どうせ金の心配とかするんだろうなと思ってたら、違うんすよ。おめでとう、って。それってなん か、俺負けた気しません?」
山下が帰った後、会議室の片づけをしながら松田はふと、自分の子供のことを考えた。今頃息子は何をしているのだろうか。ちゃんと仕事をしているのだろうか。そして、俺は今でもあいつから父親と思われてるのだろうか。思考は不安となり、彼を優しく締める。21時を過ぎた会議室は、彼を悩ませるに十分な暗さだった。
机の上には、紙が数枚、乱雑に置かれている。これをパソコンでまとめ、フォーマットにはめるため、彼はあと二時間ほど、会社に残ることになる。それを思い、松田は一人フォーマット、と呟くと小さく笑った。あいつをこの会社の物差しで計る?バカらしい。
無理難題に、きっと私は社会人経験を精一杯動員して、真実のような嘘を四角い用紙に並べるのだろう。それは、宿題と同じ、無機質な物だ。でも、今日あいつと話した時間は、そう悪いものじゃなかった。なら、それを私がわかっているだけでいいんじゃないか。彼は、山下は、きっとそういうことが分かる奴だ。今度、飲みに誘ってもいいかもしれないな。そうだ、そうしてみよう。あいつの上司が、随分と驚きそうなものだけどな。
松田は自分が、少しだけ変わった気がしていた。そしてきっとそれは、意味のある小さな一歩なんだと感じていた。誰にも評価されないけれど、確かに大切な何かを、自分の子供のような奴に教えられた、その妙な喜びを、彼は乾いた両手で壊れないようにそっと包んだ。
会議室を出た後、山下は父親に電話をかけた。父親は騒音の中で、パチンコ屋だと思われるが、今度かえって来い、とだけ言って電話を切った。彼は意味ねー電話、と一人ごちて、笑った。帰ったら沢山話そう。すげーいいことあったって。そう思って笑った。随分と、星が明るい夜だった。
小さいときは人一倍賞状をもらった僕だけど、習字だったり作文だったり、それが一体いつ、どういった理由でもらえたのか、今では一つも覚えていない。でもただ一つ、あの時僕の書いた読書感想文を読んで母親が無言で僕の髪を撫でたこと、それだけは覚えている。つまり、賞ってそういうことなんだろうと思う。
ちょいと前に書いたものなので何んとなく今と伝え方が違う気がしますが、
それも味と割り切って推敲しないことにしました。
感想などあると何んともありがたいと思います。
評価
ポイントを選んで「評価する」ボタンを押してください。
ついったーで読了宣言!
― お薦めレビューを書く ―
※は必須項目です。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。