一
安政五年の暮は案外にあたたかい日が四、五日続いている。
半七は朝飯を済ませ、この後八丁堀の旦那(同心)方のところへ歳暮に回ろうかと思っていた。
「姉さん、お早うございます。兄さんはもう起きていて……」
そこへ妹のお粂が勝手口から忙がしそうに入ってきた。
お粂は母のお民と明神下に世帯を持っていた。
常磐津節の師匠をしている。
「あら、お粂ちゃん、お上がんなさい。こんなにに早く、どうしたの?」
女中と一緒に台所で働いていた女房のお仙はにっこりして、振り向いた。
「すこし兄さんに頼みたいことがあって……」お粂はうしろをちょっと見返り「さあ、おはいんなさいよ」と連れ合いを呼び込んだ。
お粂の蔭に、まだ一人の女がしょんぼりと立っていた。
三十七、八の粋な大年増だ。
お粂と同業者らしきことはお仙にもすぐにさとられた。
「あの、お前さんも、どうぞこちらへ」
と、たすきをはずして声を掛ける。
女はおずおず入ってきて丁寧に会釈した。
「わたくしは下谷に居ります文字清と申します者。こちらの文字房さんには毎度お世話になって居ります」
「いいえ、どう致しまして。お粂こそ年が行きませんので、さぞ御厄介になりましょう」
お粂に奥へ案内され、神経のとがったらしい蒼ざめた顔を文字清は半七の前に顔を出した。
こめかみに頭痛膏を貼り、眼もすこし血走っていた。
「兄さん。さっそくですが、この文字清さんが、折り入って頼みたいことがあるというんですがね」
お粂は仔細ありそうに、この蒼ざめた女を引きあわせた。
むむ。そうかいと言い、半七は女の方に向き直った。
「もしおまえさん。どんな御用だか知りませんが、私に出来そうなことだかどうだか、まあ聞いてみようじゃありませんか」
「だしぬけに伺いましてまことに恐れ入りますが、わたくしもどうしていいか思案に余って居ります」
かねてから懇意にしていた文字房ことお粂に岡っ引の兄がいることを思い出して、連れてきてもらったらしい。
文字清は畳に手を突いた。
「お聞き及びでしょうが、この十九日の晩に具足町の和泉屋で年忘れの素人芝居がございました」
「そう、そう。飛んだ間違いがあったそうですね」
和泉屋の事件というのは半七も聞いて知っていた。
和泉屋は家中で芝居好きだった。
歳の暮には近所の人たちや出入りの者共を集め、歳忘れの素人芝居を催すのが年々の例だった。
今年も十九日の夕方から幕をあけた。
すこぶる大がかりのもので、奥座敷を三間ほど打ち抜き、正面には間口三間の舞台をしつらえ、衣裳や小道具のたぐいもなかなか贅沢なものを用いていた。
役者は店の者や近所の者だ。
チョボ語りの太夫も下座の囃子方もみな素人の道楽者を狩り集めてきたのだった。
今度の狂言は忠臣蔵の三段目から九段目の五幕だ。
和泉屋の総領息子の角太郎が早野勘平を勤めることになった。
角太郎は今年十九の華奢な男だ。
普段から近所の若い娘たちには役者のようだなどと顔立ちを噂されているから、若旦那の勘平ははまり役だ。
見物の人たちにも期待された。
舞台ではケンカ場から山崎街道までの三幕をとどこおりなく演じ終った。
六段目の幕をあけたのは冬の夜の五ツ(午後八時)過ぎだった。
幾分はお追従も交じっているだろうが、若旦那の勘平をぜひ拝見したいという遅れ馳せの見物人が、この前の幕があく頃からだんだんに詰めかけてきた。
燭台や火鉢の置き所もないほどにぎっしり押し詰められた見物席には、女の白粉や油の匂いがむせるようによどんでいた。
煙草のけむりも渦をまいてみなぎっていた。
男や女の笑い声が外までもれた。
それは、師走の往来の人の足を停めさせるほど華やかにきこえた。
ただしこの歓楽のさざめきはたちまち哀愁の涙に変った。
角太郎の勘平が腹を切ると生々しい血潮が彼の衣裳を真っ赤に染めた。
それは用意の糊紅ではなかった。
苦痛の表情が凄いほどに真に迫っているのを驚嘆していた見物は、彼が台詞を言い切らないうちに舞台にがっくり倒れたのを見て、更におどろいて騒いだ。
勘平の刀は舞台で用いる金貝張りの偽物のはずだった。
が、鞘には本身の刀がはいっていた。
角太郎の切腹は芝居ではなかった。
夢中で力一ぱい突き立てた刀の切っ先は、ほんとうに彼の脇腹を深く貫いたのだった。
苦しんでいる役者はすぐに楽屋へ担ぎ込まれた。
もう芝居どころの沙汰ではない。
驚きとおそれとのうちに今夜の年忘れの宴会はくずれてしまった。
角太郎は舞台の顔をそのままで医師の手当てをうけた。
蒼白く粧った顔は更に蒼くなった。
おびただしく出血した傷口はすぐに幾針も縫われた。
が、その経過は思わしくなかった。
角太郎はそれから二日二晩苦しみ通した。
そして二十一日の夜なかに悶き死のむごたらしい終りを遂げた。
その葬式は二十三日の昼すぎに和泉屋の店をでた。
きょうはその翌日だった。
ただ、この文字清と和泉屋とのあいだに、どんな関係が結び付けられているのだろう。
半七は首を傾げた。
「そのことについて、文字清さんは大変に口惜しがっているんですよ」 お粂が側から口を添えた。
文字清の蒼い顔には涙が一杯に流れ落ちた。
「親分。どうぞ仇を取ってください」
「かたき? 誰の仇を……」
「わたくしのせがれの仇を……」
半七は煙にまかれて相手の顔を見ている。
文字清はうるんだ眼をけわしくして彼をにらむように見あげた。
その唇は癇持ちのように怪しくゆがみ、ぶるぶると振るえていた。
「和泉屋の若旦那は、師匠、おまえさんの子なのかい」
と、半七は不思議そうに聞いた。
「はい」
「ふうむ。そりゃあ初めて聞いた。じゃあ、あの若旦那は今のおかみさんの子じゃあないんだね」
「角太郎はわたくしの伜です。こう申したばかりではおわかりになりますまい」
今からちょうど二十年前のこと。
文字清は仲橋の近所でやはり常磐津の師匠をして居た。
和泉屋の旦那が時々遊びに来ました。
世話になり、自然と男女の中になり、その翌年に男の子を産んだ。
「それが今度亡くなりました角太郎で……」
「じゃあ、その男の子を和泉屋で引き取ったんだね」
「左様です」
和泉屋のおかみさんが二人の仲を聞きつけた。
「ちょうどこっちに子供が無いから引き取って自分の子にしたい」
文字清は、息子を手放すのは嫌だった。
が、向うへ引き取られれば立派な大店の跡取りになれる。
つまり本人の出世になる。
産れるとまもなく和泉屋の方へ渡した。
「こういう親があると知れては、世間の手前も当人のためにもならない」
文字清は相当の手当てをもらって、伜とは一生縁切りという約束をいたした。
それから彼女は下谷の方へ引っ越し、今日まで相変らずこの商売をしている。
が、やっぱり親子の人情だ。
一日でも生みの子のことを忘れたことはない。
伜がだんだん大きくなって立派な若旦那になったとえう噂を聴いた。
「わたくしも蔭ながら喜んでおりましたが、飛んでもない今度の騒ぎ……。わたくしはもう気でも違いそうに……」
文字清は畳に食いつくようにした。
声を立てて泣きだした。
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