きのうの夕方、石町の暮れ六ツが丁度きこえる頃。
店の抜け裏の格子ががらりと明いたと思うと、お菊が黙って、すうっと入ってきた。
ほかの女中達はみんな台所でお夜食の支度をしている最中で、そこにいたのはお竹だけだった。
「お菊さん」思わずお竹は声をかけた。
お菊はちょいと振り向いたが、そのまま奥の居間の方へずんずん行ってしまった。
そのうちに奥で「おや、お菊かえ」というおかみさんの声がした。
が、すぐにおかみは奥から出て来た。
「お菊はこちらに来たかえ?」
「いいえ、こちらには戻ってません」
お竹の返事に、おかみは変な顔をした。
「あら? 今こっちに出たのにねえ。探してちょうだい」
お竹と、おかみは一緒になって家中を探してみた。
が、お菊は影も形も見えない。
店には番頭達も皆いたし、台所には女中達もいた。
が、誰もお菊の出入りを見た者はない。
さては庭から出たかと思ったが、木戸は内からちゃんと閉め切ってある。
ここから出たらしい様子もない。
まだ不思議なことに、はじめに入って来た格子のなかに、お菊の下駄が脱いだままになって残っていた。
「今度ははだしで出て行ったんでしょうか。それが第一わかりません」
お竹は半七にそう言うと、ため息をついた。
「お菊さんはその時にどんななりをしていたね」
「一作日この家を出たときの通りでした。黄八丈の着物をきて藤色の頭巾をかぶって……」
若い娘の黄八丈は、白子屋のお熊が罪人となり引廻しの馬の上に黄八丈のあわれな姿をさらしてこのかた、一時すたれていた。
が、このごろは又だんだん流行り出して、出世前の娘も芝居でみるお駒を真似るのがちらほらと眼について来た。
襟付の黄八丈に緋鹿子の帯を締めたかわいらしい下町の娘姿を、半七は頭のなかに描き出した。
「お菊さんは家を出るときには頭巾をかぶっていたのかね」
「ええ、藤色ちりめんの……」
この返事は半七を少し失望させた。
それから何か紛失物でもあったのかと聞くと、お竹は別にそんなこともないようだと言った。
なにしろ、ほんのわずかの間だった。
おかみが奥の八畳の居間に座っていると、襖が細目に開いた気配がする。
何気なく振り向くと、かの黄八丈の綿入れに藤色の頭巾をかぶった娘の姿がちらりと見えた。
驚きと喜びとで思わず声をかけると、襖はふたたび音もなしに閉じられた。
そのまま娘はどこかへ消えてしまったのである。
もしや何処かで非業の最期を遂げて、その魂が自分の生まれた家へ迷って帰ったのかしら。
けれど、彼女は確かに格子を開けて入って来た。
しかも生きている者の証拠として、泥の付いた下駄を格子の内へ残していった。
「ふーん、そうかい。そういえば一昨日浅草へ行った時に、娘はどこかで清さんに逢やあしなかったか」
半七は別のことをお竹に問い詰めた。
「……いいえ」
答えるのに間があった。
「隠しちゃあいけねえ。おめえの顔にちゃんと書いてある。娘と番頭は前から打ち合わせがしてあって、奥山の茶屋か何かで逢ったろう。どうだ?」
お竹は隠し切れないでとうとう白状した。
お菊は若い番頭の清次郎ととうから情交があって、ときどき外で忍び逢っている。
おとといの観音詣りも無論そのためで、待ち合わせていた清次郎と一緒にお菊は奥山のある茶屋へ入った。
取り持ち役のお竹はその場をはずして、観音の境内を半時ばかりも遊び歩いた。
それから再び茶屋へ帰ってくると、二人はもう見えなかった。
茶屋の女の話によると、男がひと足先に帰り、やがて娘も後から出ていった。茶代は娘が払ったらしい。
困ったお竹はそこらを探して歩いた。
が、お菊はどうしても見つからない。
もしや先へ帰ったのか。
お竹が急いで店へ帰ると、店へもやっぱり帰っていない。
内緒で清次郎に訊いて見たが、ひと足先へ帰ったきり、あとは何にも知らないという。
でも、おかみに本当のことは言えない。
それで、途中ではぐれたことに二人で話を合わせた。
「清さんも私も、一昨日から内々どんなに心配しているか知れないんです。ゆうべ帰って来て、やれ嬉しやと思うとすぐにまた消えてしまって……。一体どうしたんだか、まるで見当が付きません」
おろおろ声でお竹がささやくのを、半七は黙って聴いていた。
「なあに今に判るだろう。おかみさんにも、番頭さんにも、あまり心配しねえように言っておくがいい。あっしは今日はこれで帰えるから」
半七は神田へ帰って親分にこの話をした。
吉五郎は首をかしげて、その番頭が怪しいぜと言った。
が、半七は正直な清次郎を疑う気にはなれなかった。
「いくら正直だって、主人のむすめと不埒を働くような野郎だ、何をするか判るもんか。明日いったらその番頭を引っぱたいてみろ」
と、吉五郎は言った。
明くる朝の四ツ(十時)頃。
半七が重ねて菊村の店へ見廻りにゆくと、店の前には大勢の人が立っていた。
大勢は何かひそひそ囁きながら好奇と不安の眼をけわしくして内を覗き込んでいた。
近所の犬までが大勢の足の下をくぐって仔細ありげにうろついていた。
裏へまわって格子をあけると、狭い沓脱は草履や下駄で埋められていた。
お竹は泣き顔をしてすぐ出て来た。
「おい。何かあったのかい」
「おかみさんが殺されて……」
お竹は声を立てて泣き出した。
半七もさすがに呆気に取られた。
「誰に殺されたんだ」
返事もしないでお竹はまた泣き出した。
すかしておどしてその仔細をきくと、女主人のお寅はゆうべ何者にか殺されたのである。
表向きは何者か判らないといっている。
が、実は娘のお菊が手をくだしたらしい。
お竹はたしかにそれを見たといった。
お竹ばかりでなく、女中のお豊もお勝も、おなじくお菊の姿を見たとのことであった。
果たしてそれが偽りでなければ、お菊はいうまでもなく親殺しの罪人である。
事件は非常に重大なものとなって半七の前にあらわれた。
今まではさのみ珍らしくもない町家の娘と奉公人の色事とたかをくくっていた。
が、この重大事件にぶつかって半七は少し面喰らった。
「だが、こういう時に腕を見せなけりゃあいけねえ」
年の若い彼は努めて勇気をふるい興した。
経緯を整理する。
・娘は一昨昨日行方不明となった。
・それが一昨日の晩、ふらりと帰って来て、すぐに又その姿を隠してしまった。
・そうしてゆうべまた帰って来たかと思うと、今度は母を殺して逃げた。
これには余程こみいった事情がまつわっていなければならない。
「それで、娘はどうした」
半七が尋ねる。
「どうしたか判らないんです」と、お竹はまた泣いた。
彼女が泣きながら訴えるのを聞く。
ゆうべも前夜とおなじ燈ともし頃に、お菊はわが家へ同じ形を現わした。
今度はどこから入ってきたか判らなかったが、奥でおかみが突然に「おや、お菊……」と叫ぶ。
続けておかみが悲鳴をあげた。
お竹と他の女中二人が驚いて駆けつけると、縁側へするりと抜け出してゆくお菊のうしろ姿が見えた。
お菊はやはり黄八丈を着て、藤色の頭巾をかぶっていた。
三人はお菊を取押えるよりも、まずおかみさんの方に眼を向けなければならなかった。
お寅は左の乳の下を刺されて虫の息で倒れていた。
畳の上には一面に紅い泉が流れていた。
三人はきゃっと叫んで立ちすくんでしまった。
店の人達も皆、この声に驚いて駆けつけて来た。
「お菊が……お菊が……」
お寅は微かにこういったらしい。
それ以上のことは誰の耳にも聴き取れなかった。
おかみは大勢が唯うろたえているうちに息を引き取ってしまった。
町役人連名で訴えて出ると、すぐに検視の役人が来た。
お寅の傷口は鋭い匕首のようなもので深くえぐられていることが発見された。
家内の者はみな調べられた。
うっかりしたことを口外して店ののれんに傷を付けてはならないという遠慮から、誰も下手人を知らないと答えた。
しかし娘のお菊が居合わせないということが役人たちの注意をひいた。
お菊と情交のあることを発見された清次郎は、その場からすぐに引っ立てられて行った。
お竹にはまだ何の沙汰もないが、いずれ町内預けになるだろうと、彼女は生きている空もないように恐れおののいていた。
「飛んだことになったもんだ」
半七は思わず溜息をついた。
「わたしはどうなるでしょう」
お竹はまきぞえの罪がどれほどに重いかをひたすらに恐れているらしかった。
そうして、もういっそ死んでしまいたい。などと狂女のように泣き悲しんでいた。
「馬鹿いっちゃあいけねえ。おめえは大事の証人じゃねえか」
半七は叱るように言った。
「いずれ御用聞きが一緒に来たろうが、誰が来た」
「なんでも源太郎さんとかいう人だそうです」
「むむ、そうか。瀬戸物町か」
源太郎は瀬戸物町に住んでいる古顔の岡っ引で、好い子分も大勢もっている。
(一番こいつの鼻をあかして俺の親分に手柄をさしてやりたい)
半七の胸には強い競争の念が火のように燃え上がった。
が、どこから手を着けていいのやら、すぐには見当が付かなかった。
「昨夜も娘は頭巾をかぶっていたんだね」
「ええ。やっぱりいつもの藤色でした」
「さっきの話じゃあ、娘はどさくさまぎれに縁側へ抜け出して、それから行くえが知れねえんだね」
「ええ」
「おい、木戸をあけておいらを庭口へ廻らしてくれねえか」
と、半七は言った。
お竹が奥へ取次いだとみえて、大番頭の重蔵が眼をくぼませて出て来た。
「どうも御苦労様でございます。どうぞ直ぐにこちらへ……」
「飛んだこってしたね。お取り込みの中へずかずかはいるのも良くねえから、すぐに庭口へ廻ろうと思ったんだ。それじゃあ御免こうむりますよ」
半七は奥へ案内されて、お寅の血のあとがまだ乾かない八畳の居間へ通った。
かねて知っている通り、縁側は北に向っていて、前には十坪ばかりの小庭があった。
庭には綺麗に手入れが行きとどいていて、雪釣りの松や霜除けの芭蕉が冬らしい庭の色を作っていた。
「縁側の雨戸は開いていたんですか」
と、半七は聞いた。
「雨戸はみんな閉めてあったんですが、その手水鉢の前だけが、いつも一枚細目にあけてありますので……」
と、案内して来た重蔵は説明した。
「もちろん、それは宵の内だけで、寝る時分にはぴったり閉めてしまいます」
半七は無言で高い松の梢を見上げた。
闖入者はこの松を伝って来たものらしくも思われなかった。
忍び返しの竹にも損所はなかった。
「ずいぶん高い塀ですね」
「はい、昨夜もお役人衆がご覧になって、この高い塀を乗り越して来るのは容易でない。
と言っていました」
はしごをかけた様子もなし、松を伝って来たらしくも思われない。
これは庭口から忍び込んだのではあるまい。
が、どこから入ったにしても、出る時はこの庭口から出たに相違ないように思われる。
「ですが、木戸の錠は内から固くおろしたままになっています。何処をどうして出て行ったかさっぱり判りません」
重蔵はくもった眼をいよいよ陰らせて、無意味にそこらを見廻していた。
「そうだな。忍び返しに傷をつけず、松の枝にも触らずに、この高塀を乗り越すというのは生優しいことじゃあねえ」
どう考えても、これは町家の娘などに出来そうな芸ではなかった。
曲者はよほど経験に富んだ奴に相違ないと半七は鑑定した。
が、その場へ駈けつけた三人の女は、たしかにお菊のうしろ姿を見たという。
それには何かのからくりがなければならないと彼はまた考えた。
半七は更に念のために、庭下駄を穿いて狭い庭の隅々を見まわった。
庭の東の隅には大きい石燈籠が立っていた。
よほど時代が経っていると見えて、笠も台石も蒼黒い苔のころもに隙き間なく包まれていた。
一種の湿気を帯びた苔の匂いが、この老舗の古い歴史を語るようにも見えた。
「好い石燈籠だ。近頃これをいじりましたか」
半七は何げなく聞いた。
「いいえ、昔から誰も手を着けたことはありません」
こんなに見事に苔が付いているから、滅多にさわっちゃいけない。
そう、おかみもやかましく言っていたという。
「……そうですかい」
半七の、切れ長だが表情豊かな目が光った。
滅多にさわることを禁じられているという古い石燈籠の笠の上に、人の足あとが微かに残っていることを、半七はふと見つけ出したのであった。
あつい青苔の表は小さい爪先の跡だけ軽く踏みにじられていた。
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