コンフリクト chapter0 -頂上を獲得する男-
1
俺がこの学校に入学し、初めて能動的に起こした行動といえば、喫煙所探しだった。
入学三日目のことである。
皆が皆、友達作りやグループ作りに大いに勤しんでいた時期だ。
入学初日、二日目の学校生活において、俺は一本たりとも煙草を吸っていなかった。家に帰るまでの間、二日間ともにニコチン切れでイライラしっぱなしだったのだ。
学校にいる間なら我慢できるかな、なんて思っていたがもう限界だった。高校生になったんだから気持ちを入れ替えて煙草の本数を減らして、そのうち辞められればいいな、なんて思っていたが無理だった。ここに入学してくる生徒はみんな頭良さそうだなぁ、よし、僕もこれからは勉強頑張るぞう、なんて意気込んでいたが、やっぱりどう考えても柄じゃなかった。
全ては合格したことで浮かれきった甘い妄想だったのだ。
そんな入学三日目、昼休みに突入してすぐの話。
真新しいブレザーの膝布を、諦観たっぷりの貧乏揺すりで擦り切れんばかりに上下へと揺さぶり、俺はとてもイライラしながら椅子に鎮座していた。
この日、俺は寝坊をしてしまった。こんな入学して間もない頃にさっそく遅刻などしてたまるか、こんなことで俺はクラスメイトたちからの脚光を浴びたくないぞ、と慌てて家を出てきたのだ。なので朝から一本も吸っていない。
昼の弁当なんてどうでもいいから、俺はとにかく煙草を吸いたかった。
「あのう」
そんなときだ。後ろの女子が声をかけてきた。
話しかけられることすら煩わしく感じてしまう俺だったが、ともかく、できる限りの柔らかい表情を作って振り返った。そこには、おさげを肩口から下げた女子がぎこちない笑みを浮かべていて、こいつ誰だっけ、という顔をしたら、その女子は若干慌てたように自己紹介をしてきた。
「あ、私、鍋島由多加っていいます。一原東中出身です」
よろしくお願いします、とその女子はやたら丁寧に頭を下げてくる。うわ、すげえ真面目そう。しかもタメなのになんで敬語なのこいつ。俺はこういう、かしこまったのが非常に苦手だ。とりあえず俺も軽く会釈を返す。
「うん。よろしく、鍋原さん」
「あ、違います。鍋島です。もつ鍋の鍋に、日本列島の島で」
「あー、鍋島。鍋島ね。はいはい、よろしく」
「あはは」
苦笑いの鍋島。何か用かな、と黙って待っていると、鍋島は気まずそうに目を泳がせつつ、そしてしばしの沈黙。それからおずおずと彼女は口を開く。
「あの、今泉くんでしたっけ?」
「そうだけど?」
「あ、はい……」
また沈黙。マジなんなのこいつ。
あ、もしかしてこれ、俺の自己紹介待ちの空気?
「今泉純一。新高島第二中出身」
それだけ告げると、鍋島はほっとしたように頬を緩めた。やっぱこれ待ちだったらしい。
「同じ中学出身の人、このクラスにいます?」
鍋島に尋ねられ、俺は教室前方を指した。
「あそこできゃーきゃー騒いでる女子二人。早川沙樹と吉岡美野里」
「へぇ、そうなんですね。私はまだ話しかけたことないですけど」
鍋島はまた愛想笑いを浮かべた。それから微妙な空気の沈黙。会話続かねえ。やっぱこういうタイプの人は苦手だ。
すると真横から気配が。見ると、また新手の女子がもじもじそわそわしながら俺たち二人を見下ろしていた。
しかも、これがまたとんでもなくミニサイズな女子だった。俺はロードオブザリングのホビット族を思い出す。もしかしたら、万が一の可能性として小学生だということもありうる。一応優しくしてあげよう。
その女子はちらちらと、主に鍋島へと視線を送った。鍋島はニコニコしながら、その女子に目で合図をする。あなたも自己紹介して、という意味のようだ。
しかしこの女子、一向に口を割らない。片手に持った弁当箱の結んだ紐をいじりつつ、ひたすらもじもじしていた。焦れったい上に、ニコチン切れで少しいらつく俺だった。
俺はその女子を指して鍋島に尋ねる。
「鍋島、こちらの小さい人は?」
「ち、小さい……」
小さい人がショックを受けた。鍋島の頬が一瞬だけ引き吊る。でも、やっぱり彼女はすぐに社交的な笑みを浮かべた。
「こちらは城川心結さん。私と同じ中学校出身です」
名前のところがよく聞き取れなかった。俺は小さい人を見上げる。
「俺、今泉純一ね。新高島第二中出身。よろしく、ふゃかわ」
「う、うん、よろしくね」
笑顔で頷く小さい人。よしバレてない。誤魔化しおおせた。本名はそのうち覚えよう。そのうち。
「よかったら、私たちと一緒に食べませんか?」
鍋島は自分の弁当箱を持ち上げて言う。
あ、なるほど。多分小さい人は、同じ中学出身で仲のいい鍋島と昼食を食べるためにここへ来たようだ。俺は窓際の後ろから二つ目の席、そして鍋島は一番後ろ。つまり小さい人が鍋島と食べるためには俺の存在が邪魔なわけで、しかし、ほぼ初対面の人を退かすのは失礼だと、あわよくば俺を誘い込んで交友関係を広めようと、それが目的で、だからこうして謎のタイミングで自己紹介をしてきたのだ。そういうことだな。
しかし残念ながら、今日は慌てて家を出たため弁当箱を忘れてきた。しかも、今すぐどっかで煙草吸いたいし。
「あー、いいよいいよ。俺、今日弁当箱忘れてきたから」
「そうなんですか? じゃあ私たちのお弁当、半分ずつ分けましょうか?」
「いいっていいって。ほら、二人で仲良く食べな」
そう言って俺はいそいそと席を退き、自分の机を鍋島の机へと連結させた。それから空いた椅子を手のひらで指し、どうぞどうぞ、と小さい人を誘導する。小さい人は戸惑いながも、挙動不審に俺の席についた。鍋島がちょっと申し訳なさそうに俺を見上げる。
「じゃ、俺用事あるから」
二人にそう告げ、俺は教室の出口へと向かった。
「うおっ」
扉を出てすぐに、小さい人ほどではないけれど、また小柄な女子とぶつかった。女子はちょっとよろめくが、なんとか転ばずに廊下に立ち直す。
「悪い、大丈夫か?」
女子はストレートヘアーを背中辺りまで伸ばしていて、人形みたいな何の面白味もない顔を俺に向けた。しかも、ぶつかったのに全く動揺していないし、嫌そうな顔も申し訳なさそうな顔もしない。見事なノーリアクション。
「あの、大丈夫?」
俺はその女子の顔にどこか見覚えがあるというか、妙にノスタルジーで懐かしい印象を受けるのだけど、俺が思い出す間もなく、女子は何の謝罪も何の応答もなしに普通に廊下を歩いていった。
なにあいつ、感じ悪っ。
心の中で悪態を吐きつつ、俺も廊下を歩き出した。
2
俺は喫煙所を求めるべく校内を歩き回った。職員用の喫煙所があるにはあるらしい。もちろんそこは除外だ。そこ以外で、しかも教師から絶対に見つからない場所を探さなければいけない。
中学でこっそり吸っていたときのことを思い出す。
あれは、中学校内のプール近くにある屋外トイレだった。あそこはプール授業の際に生徒が使うくらいで、普段はほとんど利用者がいなかった。しかも夏以外だと利用者はほぼゼロとなる。
高校でもそうだといいけど。しかし、この学校のプール付近にトイレはなかった。俺はがっくりと肩を落とす。吸いたい欲求だけはさらに増した。
それからもぶらぶらと校内中を歩いて回るが、この学校は意外と広い。新校舎が東棟、西棟と別れており、さらに東棟から渡り廊下を伝い、これまたどでかい旧校舎がどっしりと構えていた。
さっさといい場所を見つけなければ昼休みが終わってしまう。しかし俺は、こうして自発的に動いて校内を歩き回るのは初めてだし、今いる場所だって実はよく分かっていない。
辺りを見回すと、道行く生徒のネクタイやリボンが青色だったことに気づき、それでようやくここが二年生の教室エリア付近だと分かった。俺だけネクタイ赤。超浮いてる。
しかし、ここでいいことを思いつく。
俺の同志、つまり隠れて煙草を吸っていそうな柄の悪いやつを探せばいいのではないか。自分で柄悪いとか言いたくないけど。一年と違い、二年なら校内の穴場喫煙スポットくらい知っていそうだ。
そう思い立ち、二年エリアを散策していくのだが、やはりガチガチの進学校だけあって垢抜けた真面目そうな生徒しかいない。
たまに、「よう新入生」と背中や肩を叩かれたりして、またイライラ度が上昇していく。一度、「探検中? 暇だし、案内してあげようか」と親切な二年生が現れたりもして、それはそれで有り難いのだけど、とても喫煙しそうには見えない好青年風だったので、「迷い込んだだけっす、どもっす」と適当にお断りした。
そろそろ三年エリアに行くか、と諦める俺であった。
しかしここで、一人だけ異様な空気を纏った二年生を廊下奥に発見する。その二年生は廊下を突き当たり、すぐに見えなくなったのだが、俺には一見して分かった。オーラが違ったのだ。
速やかにその二年生のあとを追う。廊下を突き当たると階段になっており、例の二年生はちょうど階段を下りていくところだった。
男子生徒である。後頭部は丸っこく、俺はこけしを連想し、次にきのこをイメージした。今朝の俺と同じく遅刻ぎりぎりだったのか、きのこ頭は寝癖で清々しいほどに跳ねきっていた。その二年生は脇にスケッチブックや画材らしきものを抱えていた。
彼は階段の途中で一度足を止め、頭をぼりぼりと掻きながらあくびをする。
非常にもさい男だった。後ろ姿だけでも、ここまで見た二年生の中で断トツにもっさい。もさ男と呼ぼう。
もさ男はずんずんと階段を下りていった。結構早い。俺も早足で追いかける。
もさ男は階段を下りると、もはや競歩レベルの速度で一階の廊下を歩いていく。俺は走ってそいつを追いかけ、ちょっと息を切らしながらも、ようやくもさ男に追いつき彼の肩を叩いた。
「先輩、ちょっといいすか」
よっしゃ話しかけた、と安堵したのもつかの間、肩を叩いて呼びかけたのに、もさ男は前を向まま普通に歩みを続けた。
「あれ、ちょっと待って!」
どういうことだ。もしかしてもさ男はこの学校に巣くう地縛霊の類なのか。しかし彼にはちゃんと足があるし、というか俺、そういうのマジ苦手だから勘弁してほしい。
再度追いかける俺、しかしもさ男も神速の足運びで進んでいく。
やがて東棟の渡り廊下へ出た。ここでもさ男に追いつき、今度は彼の両肩を掴んで足をうんと踏ん張る。
「止まれっつってんだろうがっ」
もさ男がやっと足を止めた。それから緩慢な動作で振り向く。彼は目の下にクマを作っていた。顔面にも充分もさ度をうかがえる。
彼は俺をまじまじと見つめ、そして一言。
「誰? どこの不良?」
うるせえ。
「新入生の今泉っす。先輩、もしよかったら俺に校内を案内してもらえませんか」
もさ男はぼーっと俺の顔を見つめ、唐突に俺に顔を引き寄せてきて、何故か鼻をひくつかせた。俺は多少引きつつも甘んじて彼の謎の身体検査を受ける。
「もしかして、煙草吸えるとこ探してる?」
「……先輩、鼻いいっすね」
「まーね。ついてきなさい。ちょうど僕も行くところだったんだ」
もさ男は俺の歩みに合わせてくれるのか、そこからはのっそりだらだらと歩き始めた。
3
もさ男は原村と名乗った。呼び捨てでいいよ、とのことなので原村と呼ぶことにする。
原村が向かった先は旧校舎の屋上のようで、彼は屋上へと続くらしい非常扉を指した。
「この先が屋上。先生もほぼ間違いなく来ないからね。前年度に卒業していった、君みたいな人が居たんだけど、その先輩もよくここで吸っていたよ」
そう言って彼は非常扉を開けた。
地面一帯に剥き出しのコンクリートが広がり、旧校舎の奥ゆかしい内装と比べれば、悲惨なほどに荒廃していた。同じ校内なのに、異世界にでも迷い込んだような気分だ。
ま、煙草吸えればなんでもいいんだけどさ。
春の暖かい風が髪を撫でる。
上着の内ポケットから煙草を出しつつ横を向くと、もう原村の姿はなかった。前方を見ると、原村は貯水タンク手前の段差に腰掛け、どこから出したのか、高そうなヘッドフォンを取り出した。
ヘッドフォンを装着し、原村はすぐにスケッチブックを広げる。声をかける隙すらないほどに素早い動作だった。見た目通りの変わったやつなんだろうな。
煙草に火をつけ、俺はしばらくその場に所在なく立ち尽くしていたのだけど、ふと屋上からの風景を拝みたくなった。
フェンスはずさんなほどに錆び付いており、高さも俺の胸ほどしかない。危ねえ。原村の話から察するに、ここ旧校舎屋上は立ち入り禁止なのだろう。
不安なのでフェンスを前後に揺すって安全確認。ぎしぎしいってるけど、なんとか大丈夫そうだ。俺はフェンスに両腕をかけて景色を見下ろした。
斜め前方すぐに新校舎東棟があり、その先に町の景色を望めた。うむ、中途半端に都会で中途半端に田舎だ。俺はこの町の中途半端さが結構好きだったりする。都会や田舎に対して、変に偏った意識持つこともないし。
それから校内全体を見渡した。東棟のすぐ左に西棟。そして西棟と旧校舎で挟むようにグラウンドが広がる。
口にくわえた煙草を手に持ちかえ、煙を糸のように細く吹き出す。
そして東棟と旧校舎の間には中庭があり、ん?
さっき教室の前でぶつかった、無愛想女子がいた。彼女は中庭の二人用のベンチに一人で腰掛け、孤独なランチタイムを過ごしていた。俺と同じく、まだ友達が出来ていないんだな。可哀想に。
「あの子、新入生の中でもトップクラスの美人だよね」
「おおっ?」
いつの間にか原村が隣に立っていて、俺は危うく手に持った煙草を落としかけた。
原村はヘッドフォンを首にかけ、フェンスに身を乗り出して無愛想女子を見下ろす。落っこちないとひやひやする俺だった。
「あの子、何組?」
「たしか、俺と同じ二組だったな」
「おぉ奇遇。あの子の名前知ってる?」
「あー……」
俺は空を仰ぎつつ記憶を掘り下げる。だめだ、全く思い出せん。そんな俺の様子を見て原村が笑う。笑顔の方は案外もさくないんだな。
「まぁ、入学したてだから仕方ないよね。でも明日必ず名前聞いて教えてくれよ」
「原村、あの女子のこと狙ってんの?」
原村は笑いながら手を振った。
「いや、全然。ただ、絵描かせてほしいなと思ってさ」
「絵?」
俺は先ほどまで原村の居た場所を振り返る。貯水タンクのそばに置かれたスケッチブックと画材。あぁ、そういうこと。
「原村って、絵描くんだな」
「そう、昔っからこれしか続いたためしがないからね。今泉はなんか趣味ある?」
「女漁り」
「うわ、やってそう」
「冗談だから」
失礼なやつ。地味に傷ついた。俺ってそういう風に見えるのかな。
原村は中庭の無愛想女子へと視線を落とし、はぁ、とため息を吐いた。
「笑ったら、もっと可愛いんだろうなぁ。描かせてくんないかなぁ」
「あいつの笑顔が欲しいんなら、写真撮った方が早くね?」
原村が眉間にしわを寄せて俺を睨んでくる。一体なんだろう。
もう、と彼は言い、荒っぽく足音を立てながらスケッチブックの方へと戻っていく。
「今泉はなんにも分かっちゃいないっ」
怒らせてしまったらしい。あーあ、せっかくの初対面なのに。まぁいいけど。
暇だったけど、俺は煙草を吸いつつ、ひたすら中庭の無愛想女子を見下ろした。無愛想女子は弁当を食べ終わると、昼休み終了までずっと本を読んで過ごしていた。
4
帰宅し、家族四人で夕食を食べる。俺はカツ丼、弟は月見うどん、親父はラーメン、母ちゃんは蕎麦をそれぞれ食べた。何故メニューが見事に四分割されているのかというと、答えは簡単で、全て店屋物だからである。共働きだからたまには仕方ないと、家族全員不満のふの字もない。普通に美味いし。
ふと、母ちゃんがこんなことを言う。
「そういえば純一、道子叔母さんが言ってたよ。依子ちゃんもあんたと同じ高校に入学してたんだって?」
「よりこちゃん?」
誰それ。
弟、食卓に膝ぶつけながら反応してるけど。母ちゃんは未確認生物でも見るような目つきで俺を眺める。
「純一、本当に覚えてないの?」
「あ、待って。自分で思い出すから」
悔しいので、俺は母ちゃんが続きを言わないように制止し、高速で『よりこ』という名前を脳内検索した。
つい最近聞いたことのある気がする名前のような。いや、気のせいか。それより過去をもっと回顧しよう。よりこ、よりこ。
あ、そういえばいたなぁ、そんなやつ。
「分かった。いとこの依子だ」
「おっそ……」
白ける母ちゃん。というか、家族全員引いていた。何なんだよ、みんなして。
「いや依子ってさ、ほら、あれじゃん。いつ引っ越したっけ?」
「純一が小学四年生の終わり頃だろ」と親父。
「そうそう、今から六年くらい前の話じゃん。それ以来全く会ってないし、俺が覚えてるわけなくね?」
「僕でも覚えてるのに。兄ちゃんってほんっとバカだなぁー」当時五歳の弟。なんでお前は覚えてんだよ。こいつは後でしめる。
母ちゃんは何も言わず、なんとも言えない眼差しを俺に向けた。母ちゃんの反応が一番きつい。
いや、待てよ。この分だと、依子の方も俺のことを覚えていない可能性が高いな。だって俺、まだ依子から話しかけられてないし、多分。何組の誰が依子なのかは全く分からないけど。
くそ、明日絶対見つけ出してやる。
5
翌日。
登校して一時間以内に依子の正体を知った。朝のHR、担任が出席確認を取っていたときのことである。
「えー、二十一番。平野依子」
「はい」
眠気でうつらうつらとしていた俺の耳にその情報が飛び込み、脳が一気に覚醒した。
誰だ今返事したやつ、俺はきょろきょろと教室内を見回した。このクラスだったのか、依子。
HRが終わり、俺は後ろの女子にそっと話しかけた。
「なぁ」
「なんですか?」女子は多少緊張したように答える。
「ごめん。ちょっと聞きたいんだけどさ、平野依子ってどいつだっけ?」
女子は教室を見回す。彼女も慣れるほどには把握していないらしい。
「あ、確かあの子です。一番前の席で、右から二番目の」
俺は彼女の指す方を見る。姿勢を正して座る一人の女子が居た。あれが依子か。昔は髪が短かったから、俺の中の依子とは全然印象が違う。
「平野さんがどうかしましたか?」
「いや、なんでもない。ありがとな植田」
「鍋島です」
「……うん、鍋島」
人の名前覚えるのって大変だな。
6
昼休みになる。
昨日、旧校舎の屋上から見下ろしたとき、依子らしき女子は中庭で昼食を食べていた。彼女と話すならそこがいいだろう。教科書を机に仕舞い、鞄からサンドイッチの入った弁当箱を取り出す。
それから顔を上げて依子を探すのだが、どういうわけか見当たらない。
ふと教室の廊下に目を向けると、すでに廊下を通り過ぎていく依子の姿を一瞬だけ認めた。どんだけ教室出るの早いんだよ。俺は慌てて席を立った。
そのとき、ふいに背後から弾んだ声がかかる。
「今泉っ」
聞き慣れた声。よし、聞こえなかったふりでこのまま行こう。しかし、もう次の瞬間には背中をとんとんと叩かれてしまった。やむをえず振り返る。
早川沙樹だった。切れ長な目、つむじのすぐ下あたりで結わえた髪、いかにも気の強そうな印象を与える女子だ。
「たまには、私たちとご飯食べない?」
早川が目を細めて笑う。私たちとは多分、吉岡のことだと思う。大した理由はないんだけど、俺は中学のときからこの二人が苦手だった。なんでだろ。二人とも押しが強いタイプだからかな。
しかも早川の方とは中学時代にちょっとしたいざこざもあったし。
あー、とか曖昧に渋っていると、何故か早川はそれを了承と受け取り、俺の袖を引いてきた。俺は泣く泣く彼女に拉致られてしまったのだ。
やっぱり吉岡だった。高校に入ってから彼女は軽く髪を染め、髪型もボブカット風にしている。俺にはよく分からないけど、早川いわく、「マジ似合ってる。美野里、超可愛い」とのことだ。
吉岡の机を早川と吉岡と俺の三人で囲む。吉岡が嬉しそうに笑う。
「新高中のプチ同窓会だねー」
吉岡の言葉に、早川も楽しげに頷いた。俺と彼女らのテンションの落差といったらもうない。
女子二人に囲まれて羨ましい、とかは絶対に思わない方がいい。苦手なタイプは性別関係なく身体が拒否反応を示すのだから。
雑談の内容はやはり中学時代の話で、たった数ヶ月前まで通っていた学校のことをどうしてそんなに懐かしむように話せるのか、俺には全く分からなかったのだが、「あー、いたな、あの英語のメタボ教師、あはは」などと適当に相づちを打って聞き流した。
さっさとサンドイッチを食べ終え、「俺トイレ行ってくる」と昼飯時には幾分マナーを欠いた置き台詞を残し、俺は早々に早川吉岡コンビの輪から脱した。
7
依子を追い求めるべく中庭へと向かう。
しかし、さっそく校舎内で迷ってしまった。一年の教室は西棟の三階なのだが、ちょっと進んだだけで、今いる場所が西棟なのか東棟なのかすら分からなくなってしまった。古臭い感じはしないので旧校舎じゃないと思う。
廊下の窓から外を見下ろす。すぐ下にグラウンドがあるが、やっぱり自分の位置は分からなかった。俺は致命的に方向音痴なのかもしれない。
「あ、ちょっとそこの人」
俺はたまたま廊下を歩いていた女子に声をかた。リボンの色が赤だったので一年生だ。
「んー?」
赤縁眼鏡をかけた女子だった。つんと跳ねた横髪から活発そうなイメージを受ける。でも眼鏡かけてるから頭良さそうにも見える。
「すっかり迷っちゃってさ、中庭に行きたいんだけど、どっちだっけ?」
赤縁眼鏡は怪訝に俺を見つめた。警戒しているのかも。
やがて赤縁眼鏡は何かを思い出したように、あーっ、と俺を指さした。
「お前、一年のてっぺんは俺だ、とか騒いでたアホだろっ。確かうちのクラスの出席番号三番だか四番!」
「待って、なにその身も蓋もないデマ情報」
みんな俺のことなんだと思ってんだよ。そういえば俺って、やけにクラスメイトから避けられてるような気がしてたんだけど、もしかしてこの噂のせい?
赤縁眼鏡は俺を小馬鹿にするようにケタケタと笑う。
「どこの不良漫画だよっ。マジそういうの、前世紀レベルの時代遅れだから止めとけよー? あたし、もうその噂聞いてから思い出し笑いが止まんねーのっ」
なんだか泣けてきた。そして腹が立ってきた。ついでにやけくそにもなってきた。なので俺はドスを利かせて赤縁眼鏡を睨みつける。
「てっぺん狙って悪いか。おいてめえ、いいからさっさと中庭の場所を教えろっ」
女子は俺を指さしたまま、きょとんとした顔で固まる。それから眉をひそめ、少々引いたような笑みを浮かべて廊下の先を指した。
「あはは、あぁ、そう。中庭ならこの先行って左の階段降りていけば多分わかるよ。うん、それじゃ」
赤縁眼鏡は小さく手を振り、ちらちらと俺をうかがいながら小走りで去っていく。入学早々、俺は一体なにをやっているのだろう。彼女の話だと、奴と俺は同じクラスらしい。見た感じ、よく喋りそうな女子だった。今の噂が悪化するのは火を見るより……いや、もう気にしないようにしよう。
俺は無心を取り繕って廊下を歩いた。
8
中庭に到着した。中庭はベンチがいくつか設置されており、自動販売機なんかもあったが、生徒の姿はまばらだった。
浮かれた二年、三年の男子生徒がキャッチボールやらドッチボールやらに興じている様が目立つ。構わず俺は依子を探した。
依子を発見した。中庭の一番奥に設置された、昨日と同じ位置の二人掛けベンチ。しかし、今日は依子一人ではなかった。一人の男子が依子の隣に座っていたのだ。
こっそりとその二人に近づいてみる。
男子はネクタイが赤なので一年生らしいと分かる。しかも、俺にも見覚えがある顔で、それがうちのクラスの男子だとすぐに気づいた。名前はたしかロベルトだったと思う。ジェルでテッカテカに固めたナルシストっぽい長髪が特徴の男子。
彼は入学初日からやたら目立ちたがっていて、必死にクラスのムードメーカーを演じようとしていたのだけど、周りが彼に向ける視線は心底冷ややかだった。KYとはこういう人物を言うのか、と俺の中でも非常に印象深い。
そんな彼、ロベルトは依子の隣に座っていて、身振り手振りを交えながら依子へ話しかけていた。
一方の依子はというと、昨日と同じく無愛想のノーリアクションで、ロベルトには一瞥たりとも視線を送らず、膝元で開いた文庫本へとひたむきに視線を落とし続けていた。
ロベルトは依子の方へと身体を向けていて、俺は彼の後ろに立って二人の様子を見下ろした。
「ねえ聞いてる? 平野さぁ、放課後暇なんだよね、俺とマックにでも行こうよ。ほらこの通り。なぁ頼むよ。あれ、聞いてる?」
依子、ナンパされているらしい。
しかし、俺の中の依子だと、ここでロベルトの顔面なりストマックなりにそろそろ拳を突き立ててもよさそうなものだけど、彼女はずっと本に集中しているし、俺はただその様子に首を傾げるだけだった。これ、助けた方がいいのかな。
すると、俺の存在に気づいたのか、依子は本から目を離し、じっと俺の顔を見つめた。
「純」
六年ぶりに俺の名前を呼ぶ依子。しかも声小せえ。なんか違和感。
「この人、どこかやって」
依子の言葉に反応して、ロベルトもこちらを向いた。それからぎょっとした感じで身を引く。
「げっ、番長!」
みんなの中の俺ってどうなってんのよマジで。俺はもみあげの辺りをぽりぽりと掻いて迷う。
「どこかって、どうすりゃいいの」
「げんこつ」
誰に? 依子に? 多分違うので、俺はロベルトの頭に拳骨を落とした。俺の拳がロベルトのべたべたの髪について、べちゃ、みたいな感覚がした。
ロベルトは即座に目に涙を浮かべた。拳骨したら涙が出る機能でもついてるのか、というくらいすぐに泣いた。でも効果あり。
「殺されるっ」
ロベルトは頭を抱えてベンチを立ち、中庭の芝生に足をとられつつも逃げ去っていった。どうしてあそこまで恐がれなきゃいけないんだ。ロベルトより、俺の方が深い傷を負ったと思う。
自分の拳をしばし見つめ、それから依子を見下ろす。依子はもう文庫本へと目を戻していた。お礼とかないのかよ。
どうすればいいのか分からず俺は立ち尽くしていたが、ともかく声をかけてみることにした。
「隣、いい?」
依子はうんともすんとも言わなかった。しかも俺の台詞の合間にも彼女はページをめくり、瞳は作業的に上から下へと動いた。完全無視。華麗なまでのシカトである。
さっき、彼女は俺のこと「純」と呼んだ。この呼び方は依子以外でされたことがない。こいつが依子で間違いないと思うんだけど。
それでも疑心暗鬼が払拭出来ないので、俺は依子の隣に座り、じろりと彼女の横顔を睨んで事実確認を取る。
「お前、依子だよな?」
そりゃ依子だろう、という風にすぐさま彼女は頷く。うん、そりゃ依子だろうな。そうじゃなくて。
「俺のいとこの依子だよな、お前」
そりゃお前のいとこの依子だろう、という風にやはり彼女は頷く。そりゃ俺のいとこの依子なんだろうな。うん、いやそうでもなくて。
「なんで話しかけてくんなかったの? 俺全然気づかなかったんだけど。お前、なんか昔と印象違うし」
髪長いし大人しいし、つーかあり得ないくらい無口だし。俺は昔からこんな感じだから、こいつもすぐ分かったはずなんだけど。
依子からの反応なし。いらっとくる俺だった。
おい、と肘で依子の腕を押す。彼女は軽く左に揺れるが、それでも俺を無視して本を読み続ける。
これも昔だったら小突き返されているところだ。なんだよこの空虚感。そしてなにこの本の虫。たしかに昔もよく児童書読みあさってたみたいだけど、こんな本にベタ惚れって感じじゃなかった。
なんともつまらん女になってしまったらしい。
「おい依子ー」
もしかして俺自身の存在感が無色透明で希薄になってしまったのかも。それは由々しき事態だ。しかし俺は不本意にもてっぺんを狙う番長候補として存在を醸し出しているらしいので、それはないはずだ。
「さっきから何読んでんの」
本の前に顔を出し、わざと依子の視界を塞ぐ。
やっと依子が動いた。左手で俺の頭をぐいっと右に動かし、そしてまた手を本へと戻す。それだけ。
「シカトしてんじゃねえぞこら!」
キレる俺だった。それでも応答しないので、俺は乱暴に依子の本を取り上げた。
依子がやっとこちらを向く。しかもかなり不機嫌そうだった。俺の取り上げた本を瞬時に取り返し、眉根を寄せて一言。
「うざい」
俺の中で怒りとショックが交錯し、逆に笑顔に見えそうなほどに頬が引き吊った。こいつ、どうしてくれよう。しかし、小突いてもやり返してこない相手を前にして、俺にはどうすることも出来なかった。
というか、高校生にもなって小学生のときのノリで女子を引っ叩くわけにもいかないし、そんなことをしたら俺の評判はさらにガタ落ち、というかもはや人間として扱ってくれなさそうだ。
なので俺は依子の横顔に思いっ切り顔を近づけ、噂に違わぬ番長フェイスでガン飛ばしをやってみるのだが、それでも依子は目すら合わせてくれないので、俺は諦めてベンチを立ち、お返しとばかりにベンチの足を軽く蹴った。
「もうお前なんかに話しかけてやんねえ! このばーか!」
なんだこの捨て台詞。やっぱり依子を前にすると俺は小学生に戻るらしい。
軽くベンチが揺れたのに、依子はぴくりとも動かずに読書を続行した。俺は依子に向けてもう一度、分かったかばーか、と言ってその場を去った。
そのとき、ある視線に気づく。キャッチボールに興じる二、三年の男子たち。何故か、ぽかんとした様子で俺を見ていた。とてつもなく嫌な予感がする俺だった。
9
そんなことがあった翌日。入学から五日目のこと。
自分の教室へと続く廊下を歩いていたところ、俺はその異変に気づいた。
俺を中心とした半径二メートルを、見ず知らずの生徒たちが次々と避けていくのである。
これはおかしい。俺はちゃんと昨日風呂に入ったぞ。しかも、みんな俺を見てちょっとビビってる。廊下で立ち話をしていた女子二人が俺を見て声をひそめる。あいつよあいつ、とか言ってるのが聞こえた。
俺の脳裏に、昨日の光景が蘇った。赤縁眼鏡との一件、ロベルトを殴った一件、依子にガン飛ばしてベンチ蹴った一件。そんな俺を目撃する生徒たち。
まさか、と首筋に冷や汗が浮かんだ。
教室に入っても一緒だった。すでに登校していたクラスメイト全員、俺を認めた瞬間、座っていた椅子や机をがたりと揺らしてたじろいだ。
そんな彼ら彼女らの反応に俺は為すすべもなく、とりあえず不格好な作り笑いだけを浮かべてみた。
自分の机へと向かう。俺の机を中心に、周りの机との微妙な距離感が。なにこれいじめ? 多分、いじめとはちょっとニュアンスが違う。
席に座って、俺は後ろを振り向いた。唯一このクラスで名前を覚えた初対面、鍋島なんとかさんの席だ。
鍋島は俺の視線に気づいた瞬間、机に乗せていた肘を上げ、身体を少し後ろへ引いた。
「お、おはようございますっ」
鍋島の声は裏返っていた。分かってる、そういう反応をされることは充分分かってるんだよ。
「おはよう」
俺は人畜無害な笑顔をして、空元気いっぱいに挨拶をした。でもやっぱビビられた。逆に不気味だったのかもしれない。
なんか今日、みんなおかしくない? と、とぼけて尋ねようと思っていたのだけど、こういう反応をされると、もう何も聞き出す気にはなれなかった。聞いたとしても、「し、知りません! 私、全然分かりませんっ!」とか死にもの狂いで否定されるのが見えてるし。
俺は泣きたい気持ちをこらえて机に突っ伏した。実際、ちょっと涙ぐんだ。
これを境に、一ヶ月たっぷり、五月終わりほどまで俺に話しかけてくる生徒はいなかった。
いや、一人だけいた。
もともと会話はほとんど無かったけれど、今まで通り普通に接してくれる生徒が一人だけいた。
二年生の原村だ。
俺は昼休み、煙草を吸いに必ず屋上へ行くのだが、というか教室に居場所がないので百パーセントの確率で屋上に行くのだけど、原村だけは俺を恐がらなかった。
彼は屋上に居たり居なかったりする。屋上に居ないとき、彼がどうしているのかは知らない。
原村は屋上でヘッドフォンをして絵を描いていて、俺の存在など初めから無いかのように毎回お絵描きに集中しているのだ。この屋上、そして彼の無関心さだけが俺にとって校内唯一のオアシスだった。
人間不信になりかけていた俺は、毎回原村の絵を描く姿と煙草の味に癒されたのだ。
俺は原村が背中を預けている、貯水タンクへと目を向けた。
新校舎の二棟と比べても、旧校舎の方が若干背が高い。旧校舎の屋上、さらにあの貯水タンクの頂上は、つまりこの学校で一番高い場所に位置する。
凄まじいまでの好奇心が俺の中で膨らんでいく。俺は煙草を携帯灰皿に押しつけ、貯水タンクへ向かった。錆び付いた梯子に足をかけてみる。うん、上れそうだ。
原村が、そんな俺を不思議そうに見つめた。
「上るの?」
「あぁ、なんかすげえ気になって」
原村はそれ以上何も聞いてこなかった。もし聞かれても、俺だって何故ここを上りたいのか、自分でもよく分からない。
手に付く錆が煩わしいが、俺はそれでも梯子を上がっていった。見た目以上に高いタンクだ。
頂上に到着し、吹いてくる風にちょっと恐い思いをしながらも俺は立ち上がる。
最初恐いと感じた風も、一瞬にして快感へと変換された。新校舎や旧校舎、それどころか、校内の敷地全てを見下ろせた。
まさにてっぺんだ。なるほど、確かに気分が良い。
誤解だらけの噂だったけれど、俺は結局、最もてっぺんに近い男になっていたのだ。
10
六月に入った頃の話。
そろそろ冬服から夏服へと移行していく時期。
この頃になると、俺は周りから無闇やたらと避けられることはなくなっていた。とはいえ、クラスメイトたちとの交流はほぼ皆無と言っていい。後ろの鍋島と社交辞令的に挨拶をするくらいだ。
周りはもう固定した友達グループを作り、それぞれに自分の居場所を見い出している。例の赤縁眼鏡の女子、あれは鍋島と小さい人のグループに取り入っているようだ。早川と吉岡は既に女子の大半と親しくしていた。
クラスで未だに孤独を味わっているのは、俺と依子くらいだろうか。奇しくも血の繋がりの近い者同士だった。
そんなある日の昼休み、屋上のことだった。
一本目の煙草に火を点けていると、珍しく原村が俺に話しかけてきた。
「君の悪評、そろそろ引いてきたみたいだね」
原村はスケッチブックをたたみ、青空を見上げながらぽつんと言った。
俺にとって、それは校内において久々の日常会話であった。俺は感激して溢れ出しそうになる涙を堪え、至極平然とした風を装って答える。
「まぁな。噂が立ってからずーっと机で縮こまって大人しくしてるし」
「うん、それが正解だね。今じゃ、二年の間でも今泉の話は少しも持ち上がらなくなったし」
原村が柔らかい笑みを俺に向けてくる。あぁ、なんと眩しい笑顔だろう。心の中でもさ男とか言ってごめんなさい。
「そういえば君、平野といとこ同士なんだって? 数年振りの再会を果たしたとか」
「よく知ってるな」
「うん。最近、彼女とようやくまともな会話が出来るようになったからね」
「へぇ」
原村と依子って面識あるんだ。どういうきっかけで、普段どういう場で二人が交流しているのかは知らないけど。まぁ、俺には関係のないことだな。
原村が少しだけ声を低くして言う。
「平野さ、最近いじめにあってるんだって?」
「いじめ? 依子がそう言ってたの?」
「君ら、本当に会話とかしないんだね」
原村は苦笑いを浮かべる。
「平野がそう言ったわけじゃないんだけどね。最近、よく影で軽い悪戯を受けてるっぽくて」
「悪戯ねぇ」
「そう、文房具とかよく盗まれるらしくて。僕も、『貸してください』ってよく頼まれるんだよ」
俺は二本目の煙草に火を点け、景色を仰ぎ見ながら考えた。
依子がいじめられているかもしれないなんて、俺は今まで考えたこともなかった。
俺の記憶の中の小学生時代の依子。活発とまではいかないが、それなりに勝ち気な女子だった。俺も負けず嫌いなガキだったから、依子とはよく喧嘩していたことを覚えている。
そんな依子を思い出すと「彼女なら何があっても大丈夫だろう」などと構えてしまうのだけど、それは結局、俺が昔の依子しか知らないからなのだろう。
現在の高校生としての依子を思い返せば、そんな甘い考えではどこか違和感が残ってしまう。
もう話しかけてやんねー、なんて彼女に怒鳴りつけてしまったが、俺もそろそろ意地を張っている場合ではないのかもしれない。だけど、何のきっかけもなく普通に話しかけるのって、ちょっと勇気がいるんだよな。
そんなことを悩んでいると、ふと、原村が話題を変えてきた。
「そういえば、今泉って漫画読む?」
しかもまた何の脈絡もない。戸惑いながらも、俺は原村の話に合わせることにした。
「まぁ、多少はね」
「何か読みたい漫画とかある?」
読みたい漫画。そういや俺、最近井上雄彦の漫画読み漁ってんだよな。
「この前ブックオフ行ってさ、バガボンドって漫画立ち読みしたんだけど、あれは面白そうだなぁ、とは思ってる」
で、それがなに? と俺は聞き返す。
原村は目を輝かせ、それから意味深な笑みを浮かべた。
「屋上仲間のよしみだ、今泉にだけ特別に教えてやる。バガボンド、実は図書室に全巻眠ってるんだよ」
「マジか」
「あぁマジさ。明日にでも図書室へ行ってみるといい。場所は受付奥の引き出しだ。受付の女の子に頼んで入れてもらえばいいよ」
「分かった。さっそく明日行ってみる」
「うん。ただし、これは僕らだけの秘密な」
原村は口元に人差し指をあてて言う。俺もいい先輩を持ったものだ。そろそろ、屋上だけで暇を潰すのも飽きてきたところだし。
ずっと後になって気づいたのだけど、実は俺、既にここで原村からの作為的な誘導を受けていたらしい。受付の女の子だなんて、今思うと本当に白々しい表現だ。つくづく、原村は何から何まで回りくどい男なのだなと思う。
翌日。六月の雨が町一帯に降りすさいでいた。
授業中、後ろの鍋島が差し出してきた、採尿コップみたいに折られたメモ用紙。これをきっかけに俺はいじめの可能性を再確認し、鍋島や依子ともまともに会話を交わすようになるのだ。
まぁ、それはいいんだけど。それにしてもこの物語、一体どこから動きだしていたんだろう。ともかく、俺たちのコンフリクトは緩やかに、いつの間にやら始まりを迎えていた。
上手くchapter1に繋がったと思います。当番外編についてのご感想・ご意見も随時お待ちしております。