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公主と鸚鵡
作:松木響子


 睡蓮のように清らかな佳人は白檀のしょうに横たわり、微睡んでいる。
 その後ろに屏風絵がある。白蓮が咲きみだれる池の中に亭があり、純金に翡翠が象眼された鳥籠の中に雪白の鸚鵡がいる。
 またその後ろに屏風絵がある。青金石をくだいた顔料で刷かれた空の下、色鮮やかな花嫁行列は長蛇がうねるようにゆるゆると草原を進んでいく――


 晩夏であった。
 斜日の燃える空のごとき大唐帝国の都、傾国の美女のごとき長安は、いまだ盛夏の名残をとどめていた。
 東城壁楼台の瑠璃瓦が陽差しにきらめく。通化門の楼上には皇帝が臨御し、沿道に文武百官が並び、押しよせた民が見物するなか、城を傾けんばかりの盛大な送別の儀式がおこなわれた。
 ふりそそぐ祝福の歓声、天上の楽の音、馥郁と香る花吹雪。バクトリア産の駱駝に揺られて、遠い異国ウイグルにとつぐ花嫁は地上に舞いおりた天女のごとく麗しかった。高く結い上げた髪をとめる半透明の白い羊脂玉の釵子さいし、黄褐色に血のような斑点がうかぶ鼈甲べっこうのかんざし、星がまたたく夜空を思わせる青金石の耳飾り、蜜色の涙がこぼれた琥珀の数珠。沈香と麝香の混じりし吐息は夜明けの夢のごとし。絲綢之路シルクロードの交易で帝国が手に入れた栄華を身にまとうは、皇帝の妹である太和タイヘ公主であった。
 ウイグルの騎馬隊が勇ましく先頭をきり、つづいて高貴な花たる公主と騎乗した侍女たち、唐国の使節団、最後をウイグルの可汗かがん(王)への贈り物を積んだ駱駝隊がうねる長蛇のように進んでいく。それは帝国の威信をかけた豪勢な花嫁行列であり、すべてが門道をぬけるまでに日が暮れそうなほどである。
 ウイグルの都まではいくつもの山を越え、果てしなく広がる沙漠を渡っていかねばならぬ万里の道のり、たどりつくのは冬の最中になろう。
 とどろく鼓の音にあわせて、先をゆく隊列が土埃をあげて門道に入っていく。
 ついに公主はこらえきれず、振り返った。最後に、眼に焼き付けておきたかった。だが、絢爛と咲き誇る大輪の牡丹のごとき都が、雨にけむるようににじんでしまう。頬をつたう涙の熱さ。
 ――さらば、我が故郷よ。


 太和公主が異国に降嫁する運命を告げられたのは、旅立ちのわずか一ヶ月前のことであった。

 けたたましい鳴き声が静寂しじまを破った。宝石より貴重な南国の貢ぎ物、人の声をまねるという鸚鵡が純金に翡翠が象眼された鳥籠の中でわめいている。それは彼女の代わりに、ままならぬ運命に抗議しているようだった。
 陽射しをうけて格子窓の影が床におちる午后、池の中の亭は熱帯の花の薫りで蒸せんばかりである。
 彼女は清らかな睡蓮のごとき顔をあげた。
 卓子を挟んで座っている帝の顔は前に会った時よりもやつれていた。目には苦渋がにじんでいる。妹の幸せを願う兄であることより、この大帝国の皇帝としての責任を果たさねばならないからだ。
 古来より、公主は国境をおびやかす異民族の王への最も高貴な贈りものであった。ウイグルは、その異民族国家のひとつであり、今までにも三人の公主が送り出されていた。そして四人目となる公主は、彼女の姉――永安公主のはずであった。
 嘆く姉を不憫に思っていたが、運命とはわからぬもの。長安を発つ前に婚約をしていたウイグルの可汗が死去したのだ。これで白紙に戻ったかに思えた。しかし、一年後にウイグルの使節団が長安にやってきたのである。新しい可汗の花嫁として永安公主を迎えるために。だが、ふたたび遊牧民の野蛮な国に嫁がされることを怖れた永安公主は、すでに道教の道師となって世俗を捨てた後であった。
 残された皇帝の姉妹のうち、独身の結婚できる年頃の公主は彼女しかいなかった。
 駱駝の毛で織ったやわらかな布地、金襴織り、黒貂の毛皮、翡翠の帯、駱駝千頭、馬二万頭。それが唐の公主を購うためにウイグルの可汗が差しだしたものであり、皇帝は同盟を結ぶためにすでに受け取ってしまっていた。
 どうして断れようか。重圧に耐えている兄をこれ以上、苦しませたくはない。それに拒絶すれば、まだ幼い妹に異郷に嫁ぐ運命を負わせることになる。
 だからこそ、彼女は毅然として答えた。
「兄上、ウイグルにはわたくしが参ります。祖国の安寧のために尽くすことは公主の務めであれば、異郷の地に果てようとも恨みはございません」
 一転して、朗らかな声をだす。
「妾は宮城に閉じこもっていることを好みません。ウイグルは名馬の産地。妾を乗せて天に駆け上る天馬もおりましょう。草原を風となって駆ける楽しみに勝るものがあるでしょうか。ですから、兄上。ご安心ください」
 兄は彼女の手を握りしめ、涙ぐんだ。
「ウイグルは昔日のような強国ではない。時機がくれば、お前を連れ戻そう。いつか、いつか、必ず」
 鸚鵡の甲高い声が、昼下がりのけだるく微睡む空気を切り裂いた。彼女の代わりに嘆くように。沙漠の蜃気楼のごとき約束よ、と。
 彼女は黙して答えず、ただ、ほの白いかんばせに微笑を浮かべるのみであった。


 公主は避暑で宮城を離れる以外は、都を出たことがなかった。旅は書物と絵画のなかにあった。たとえば、しらじらと明けゆく稜線の優美さ、夕暮れ時の竹藪のざわめき、月に照らされた松林の閑けさ。それらはすべて季節によって移り変わる花鳥風月の美を言祝いでいた。
 旅が絵で見た通りだったのは、北の地平にそびえる隠山山脈を越えるまでだった。晩夏に長安を旅立った公主のキャラバンが、ウイグルの領土であるゴビ砂漠に入ったときにはすでに秋は過ぎ去っていた。
 乾いた風が砂塵を巻き上げ、吹きあれる。木は一本も生えてはいない。川や泉を探しても無駄だ。ここには水が出る場所はない。ただ轟轟と泣き叫ぶ風にうねるすなの海と墓標のごとき赤茶けた岩石があるばかり。故国の面影はどこにもない。
 それでも最初の二ヶ月はまだ天候は穏やかであり、景色を見る余裕もあった。初めて目にした沙漠の壮絶な落日には、息が止まりそうになったものだ。
 だが次第に乾いた空気が凍てついていき、分厚い布で顔を覆わなければならなくなった。起きて寝るまでの間、目にするものは白く覆いつくす吼え猛る吹雪のみ。
 毎朝、侍女の手で衣服を着せられ運ばれてきた朝餉をとり、従者が用意した駱駝に揺られて長い一日がはじまる。毎夕、朦朧として野営地に着く頃にはすでに天幕は張られている。絨毯を踏みしめ、椅子に座って一息つくと同時に手を洗うための水が運ばれ、卓上に湯気をあげるお茶と宮廷で食べていた数々の点心、果物の砂糖漬け、そしてウイグル兵士が狩った羚羊カモシカの焼肉が並ぶ。次の日もまた同じことのくりかえし。いつしか旅の情景を詩に詠むことも、長安の都を想いながら月を見上げ、琴を弾くこともなくなった。
 いつ終わるとも知れぬ旅は、霜焼けの手とおなじく、公主の感覚を奪っていく。それでも消せないものがあった。胸を刺す一つの詩があった。肌を刺す凍てついた風よりも痛切に。

 家族が妾を追いやった
  天の彼方の地の果てに
 遙か異国の王のもとへ嫁がせるため
 毛氈の丸い天幕を住まいとし
  食べ物といえば獣の肉と酸っぱい乳ばかり
 日々募る望郷の念は深く
  涙でも埋められぬ
 願わくば白鳥となり故郷に帰らん

 遙か昔にこの詩を詠んだ、草原の王に嫁がされた漢の公主のように渡り鳥に想いを託したくとも、公主が見上げる空には鳥も飛ばぬ。
 沙漠を渡る風が慟哭するばかり。


 不毛の砂礫にかわって、山査子さんざしなどの低木が目立ちはじめ、わだちが見分けられるようになった。雪が踏み固められた泥濘の道であっても、道は道だ。
 曠野を進むうちに、沙漠に入っていらい絶えていた人煙が点在する集落からあがるようになり、キャラバンをひとめ見ようと沿道に人が群がるようになっていた。
「あと二日で都に着くそうですわ」
 侍女のひとりが弾んだ声で云った。長い旅がやっと終わるのだという実感が、疲弊した一行の気持ちを盛り上げている。そのなかで公主だけは、旅が終わることを怖れていた。
 夫となる男は、どんな顔をしているのだろう。豚みたいに肉に埋もれた顔のなかで小さい目をぎらつかせ、卑しくよだれをたらして、何層にもたれさがる腹を揺らしている、そんな男だったら……おお嫌だ! 肌を合わせるなんて耐えられない。
 まだ見ぬ結婚相手を想像して憂鬱になっていた公主は、体の揺れに我に返った。地面が揺れている。数百の連打する太鼓の音にも似た、怒濤となって押し寄せる馬蹄の音。雪を蹴散らして数百騎のウイグルの騎馬が、こちらに向かって駆けてくる。
 キャラバンの前で一糸乱れず数百の騎兵が停止し、使者の旗をもった兵が進みでると、朗々とした声で、可汗の希望を伝えた。挙式前に間道からひそかに公主と会いたいというのである。
「そのような非常識な申し出を承諾するわけにはいかん!」
 使節団の長である左金吾衛大将軍の怒りに震える銅鑼声がキャラバン中に響き渡った。
「以前に咸安公主が降嫁されたときは、公主は可汗と合流するため先に出発しました。それなのにどうして今回は拒否するのですか」と使者は譲らない。
「わが国の天子は、わしに公主を無事に送って可汗に授けるようみことのりをくだしたのだ。まだわしは可汗に会っておらん。どうして公主だけを先に行かせることができようか」
 公主は馬腹をかるく蹴ると、会合の場へと走らせた。慌てて侍女たちもその後につづく。
輦車れんしゃにお乗りください、みだりに玉顔をあらわにすべきではありません」と苦言を呈されても、公主は見渡すかぎりの平原を馬で駆ける方を好んだ。まさか馬の牽く輦車に乗らずに、公主が胡服を着て馬にまたがっているとは思わないだろう。侍女のひとりとして素知らぬ顔で、見届けよう。自分のことについて話し合っているのに当の本人が除け者にされて、ことが決められるのは我慢ならない。
 案の定、将軍は渋い顔をしたが、公主は澄ました顔で背後にひかえた。
 使者は後ろにひかえている侍女たちの中から一瞥しただけで公主を見いだすと、漢人の礼法にならい、悠々と彼女の前で叩頭してみせたのだ。
 瞬時に見破られたことに動揺してすぐには言葉がでてこない。彼女の許しを待たずにこの男は不遜にも面を上げると、鷲が炯々と獲物を狙うがごとく彼女を凝視した。全身が火に包まれたように熱くなる。これは怒りなのか、羞恥なのか。今まで、ぶしつけに彼女を見る者などいなかった。清らかな睡蓮を穢すことを怖れるように、憧憬のともった眸は伏せられた。だが、この男は。狼の燎原のごとき燃える双眸で彼女を射貫く。
「将軍は反対されたが、太和公主のお気持ちはいかが」
 決定権を持っているのは公主なのだといわんばかりに訊ねられ、彼女は締め切った部屋に風が吹き込んだような感覚に眩暈をおぼえた。この男の手を取りたいという強い衝動にかられた、そのとき。
「許しを得ずに話しかけるとは無礼であろう! 公主を行かせることはできぬ。何度も云わせるな!」
 怒髪天を衝いた将軍の怒声に公主は我に返った。外交儀礼を守ろうとする将軍の意見も無視できぬ。唐帝国の体面をつぶすわけにはいかないのだ。そうおのれに言い聞かせても、男から目が離せない。
「今日のところは頑固爺の顔をたてることにしよう」
 剽悍な片笑みをひらめかせ、
「では、公主。近いうちにまた会おう」
 颯爽と騎乗した男は、待機していた騎兵隊に号令をかけると、草原を吹き渡る風のように駆け去っていった。
 ――あの男のあとを追いかけたい。
 将軍の説教を聞き流しながら、公主はこみあげてくる熱い想いを必死でこらえていた。
 彼女はウイグルとの和親のために降嫁する唐国の公主である。おのれの心に従うわけにはいかぬ。



 黒い城壁が雪原に屹立している。
 ようやくウイグル帝国の都オルド・バリクがオルホン川の対岸に見えてきたのだ。集落らしきものといえば羊毛製の天幕ばかりだったため、都が城壁に囲まれていることに公主は安堵した。大都市長安を見慣れた目には辺境の城市まちの規模ではあったが。それでも、城壁に守られた都市は公主がなじんできた文明のものだった。
 とはいえ、唐の城市と違うのは、城内にも天幕が林立していることだ。可汗の座所さえもが黄金に輝く巨大な天幕である。それが宮殿の平な屋根の上にそびえているのだ。どれほど大きいのかとウイグル人の使者に訊いたところ、なんと天幕のなかに広い中庭があり、百人を収容できるという。
 婚礼をあげるまで過ごすことになる天幕も、可汗の天幕よりは小さいとはいえ十分に大きかった。中に入ると、唐の宮廷で豪華絢爛を見慣れている公主でさえ、感嘆するほど室内の調度は贅をこらしている。
 芳香をはなつ灯りに照らされた部屋は、たしかに遊牧民の暮らしをうたった詩の通り、壁と床は羊毛の毛氈で覆われてはいた。だがその上に虹の七色で刺繍された絹の絨毯、さらにその上に黒貂、白鼬、駱駝、鹿などの色艶のよい毛皮が敷かれ、五色の色で染められた大きな綾絹の座布団クッションが壁際にずらりと並べられている。
 黄金と象牙で飾られた黒檀のとうに腰を沈めると、ウイグルの召使いがしずしずと、葡萄と蔓の模様が見事な紫の硝子杯グラスを運んできた。
 馬乳酒を覚悟していたが、中身は葡萄酒だった。旅の途上で立ち寄った葡萄の名産地、太原で飲んだ葡萄酒を思い出させる芳醇な味わい。
 大皿には甘く熟れた果物が盛られ、驚いたことに寒冷の地で育つはずがない甜瓜メロンや葡萄まである。
 ウイグルは羊や馬を放牧して生計をたてている蛮族の国だと云われていた。しかし、それは偏見だったのだ。唐帝国から馬と交換した大量の絹を西域の国々に売りさばき、この天幕内の贅沢品を欲しいだけ手に入れることができるほど、ウイグル帝国は交易で繁栄している。
 怖れていたここでの暮らしは惨めではないのだろう。そう思いはしても、心は泥沼に沈んでいく。
 今日から唐帝国の公主ではなく、ウイグル帝国の可敦かとん(王妃)として生きなければならない。髪型も衣装も言葉も習慣もなじんでいたすべてを捨てて。
 贅をこらした広い部屋の中で公主は、豪華な鳥籠の中の鸚鵡におのれを重ねて、寄る辺なき身を嘆くのだった。


 婚儀の開始をつげる銅鑼の音が響きわたる。
 楼閣の下の天幕から、ウイグルの可敦の衣装をまとった太和公主が進み出た。燃える暁の色をはおり、黄金の飾冠をかぶった公主は太陽の化身のようであった。
 彼女は楼閣のきざはしをのぼっていく。ようやく、夫となる男と顔を合わすことになるのだ。足が一段あがるたびに心は重く沈んだ。あのとき、あの男の手をとっていれば。だが、もう逃げられない。
 楼上に出ると、整列した大臣たちが迎えた。朱色の絹の道が玉座へとのびている。その先に可汗の象徴である天空の色をまといし、威風辺りをはらう男がいた。
 あの雪原で出会った時とおなじ、草原の狼の眸が彼女をまっすぐにとらえて離さない。
 ぬけぬけと使者の振りをして公主を連れだそうと計った男を毅然と見返せば、男の眸に会心の笑みがひらめく。
 可汗の隣に並んだ彼女の耳を低い声がかすめた。
「本当はあの時、掠っていくつもりだった。だが、公主の気持ちを踏みにじって嫌われたくない、そんなふうに思ったのは初めてだ」
 頬を染めた彼女は答えるかわりに、さしだされた浅黒い武骨な手に雪白の華奢な手をかさねた。
 今度は、もう迷わなかった。


 草原に夏がやってきた。草花がいっせいに芽吹き、短い命を燃やす季節が。
 彼女は馬と一体となって走っていた。重くよどんでいた悲しみが風にふきとばされ、草原をおおう蒼穹にむかって鳥と化して飛翔するよう。気がつけば彼女は声をあげて笑っていた。
 昨日は可敦の帳舎にて帰国する使者を招いて盛大な宴をひらいた。将軍をはじめ三人の使者と別れる辛さに大声をあげて泣いた。また一つ、祖国のよすがと切り離される痛みに一晩中、泣き明かした。そのせいで目は今も腫れている。
 翌朝、長安に旅立つ使節団を見送った後、魂魄が抜けたように立ち尽くしている彼女を可汗が遠乗りに誘った。少しでも悲しみをまぎらわせようと気遣ってくれる、夫の優しさが胸にしみる。
 馬から下りた彼女は、雲雀のように歓びの声をあげた。白の鈴蘭、黄色の母子草、紅紫の風露草、青紫の竜胆、薄紫の松虫草、緑野を彩る花の波が風にそよいでいる。
 可汗はおもむろに鈴蘭を手折り、彼女の黒髪にそっと挿した。微笑む彼女を抱き寄せて。
「――太和タイヘは独りではない。おれがいる。だから悲しいときはおれの腕のなかで泣け」 
 夫の腕のなかで流した涙は、彼女の空洞を満たしていく。彼がいるかぎり、この異郷の地で生きていける。草原を故郷として、母のように慈しもう、と――だが、夏は去っていった。夫は彼女を残して、この世から去っていった。
 二年にも満たない結婚生活だった。


 夏が再びめぐってきた。南から渡り鳥が帰ってくるように、新しく即位した可汗を祝うために唐の使節団がウイグルの都を訪れた。公主が心待ちにしていた故郷の便りをたずさえて。
 だが、ひさしぶりに太陽のように明るく輝いた顔は、故郷の知らせを聞いた途端に曇った。彼女の夫が亡くなった年に兄である皇帝も崩御したというのである。
 ――あのときの約束は、やはり沙漠の蜃気楼だった。
 守られぬ約束だと知りながら、それでも兄だけが頼りだった。きっといつかは帰ることができると思えば、寄る辺なき悲しみを耐えることができた。その故郷とのつながりが絶たれてしまった。
 渡り鳥が南に旅立つように、使節団は長安の都へと戻っていく。その隊列のなかに太和公主の姿はなかった。新しく皇帝になった彼女の甥は、ウイグルとの同盟を維持することを望んでいたのだ。公主をふたたび贈るには、国庫を逼迫させるほどの大金がかかるのだから。彼女が帰国すれば、今度は妹たちが犠牲になるのだから。それになにより、夫が彼女に残してくれた息子がいる。どうして我が子を残して帰ることができるだろう。喪が明ければ、新しい可汗に嫁がねばならないとしても。
 息子を育て上げるまでは、この地で強く生きなければならぬ。

 それからも唐からの使節は、数年ごとにやってきた。
 そしてその度に、彼女は故郷へ帰っていく隊列を見送るのだった。
 短い夏が終わり、水鳥の群れが南へと向かうとき、天に到らんと馬を走らせる。されど天馬にあらず、地を駆けるのみ。独り残され、紺青の穹廬きゅうろとなって四方の茫々たる草原を籠蓋ろうがいする蒼穹の下。
 郷愁にかられるたびにくり返す詩が、白い息となってのぼりゆく。
 ――願わくば白鳥となり故郷に帰らん。


 公主のかんばせは、睡蓮のように清らかな白であった。
 故郷を離れて、二年の歳月が流れ、夫は戦で命を落とした。公主は自らの手に小刀を握り、顔に傷をつけた。それがウイグルの服喪の儀式であったから。
 ――睡蓮はもう白くはない。一筋の血が流れ、顔に一つの傷。
 最初の夫の弟に嫁がされ、故郷を離れて八年の歳月が流れた。
 二番目の夫は、暗殺で命を落とした。
 ――睡蓮はもう白くはない。一筋の血が流れ、顔に二つの傷。
 二番目の夫の甥に嫁がされ、故郷を離れて十七年の歳月が流れた。
 三番目の夫は、臣下に裏切られ自ら命を絶った。
 ――睡蓮はもう白くはない。一筋の血が流れ、顔に三つの傷。
 四番目の夫は、どうなった。嫁ぐ前に侵略者の手にかかって血祭りに。
 ――睡蓮は白いまま。血の海のなかで、清らかに咲いていた。


 ウイグル帝国の都オルド・バリクが燃えている。
 内乱、飢饉、伝染病の流行、大雪で国の財産である羊馬が多く死ぬなど、災難があいついでウイグルを襲った。とどめをさしたのは、侵略であった。政変で国を追われた臣下が隣国のキルギスと手を組み、十万の騎兵がウイグルの都城を攻め、可汗を殺し、火を放った。ウイグル帝国は崩壊した。
 こうして太和公主の三年におよぶ放浪の旅がはじまった。
 都が落ちた日、彼女はキルギス軍に捕らえられた。恐怖する彼女に、キルギスの王は云った。我の姓は唐朝とおなじ李姓である、部下に守らせて唐国へ帰国できるようにしよう。しかし、その約束は守られなかった。
 ウイグルの諸部族は各地に散じたが、そのうちの十三氏族は新しい可汗を奉じ、公主を奪回するべく、キルギスの部隊に襲いかかったのだ。
 血の海の中、呆然と立ち尽くしていた公主を奪回したウイグル軍は、南の大沙漠を渡った。同盟国である唐をめざして。 
 ようやく夢見てきた故郷に帰ることができる。だが、十七年前にたどった道を行きながら、公主は悲劇を予感していた。飢えた狼の群れにひとしい十万以上のウイグル人の大群を祖国が歓迎するわけがない。 
 唐帝国の国境に到着した年、政府は太和公主の要請にこたえ、ウイグルの民に食糧を与えて、暴徒と化さないよう彼らを慰撫した。
 明くる年、公主が怖れていた通りになった。
 彼女の制止もむなしく、太和公主を奉じたウイグル軍は、唐帝国の領土に襲いかかり、略奪と殺戮の限りをつくした。唐朝は討伐する大義を得て、雲霞のごとき大軍でウイグル軍を駆逐していった。
 彼女は唐王朝の公主であるよりも長くウイグルの可敦として生きてきた。民は彼女を母と慕い、彼女は民を子どものように慈しんできた。それでも彼女は唐朝の公主である。祖国の民を殺し、略奪する彼らを止められないおのれの無力さに絶望した。両国の平和のために尽くしてきた二十年の歳月が無残に踏みにじられていく。
 戦に負け続け、追い散らされたウイグル軍は、後に殺胡山と名づけられた場所で最期をむかえた。彼女の民は虐殺された。この世の唯一の希望だった息子も戦場で命を落とした。
 血の海の中、呆然と立ちつくしていた彼女は、唐帝国の将軍によって助け出された。
 死者のうつろな眼窩が、彼女を責めている。
 可敦よ、あなただけが助かるのか。我らを見捨てるのか――


 けたたましい鳴き声が、熱に浮かされた浅い睡りを破った。
 ――ああ、夢だったのか。
 死の間際に一生を夢見るという。
 ――では、やっと妾の命が尽きようとしているのか。
 けだるく、牀から身を起こし、窓辺の鳥籠を見る。三年にわたる放浪生活に心身を打ちのめされ、帰郷を果たしてまもなく発熱し寝込んでしまった公主のために、帝から見舞いとして贈られた鸚鵡は雪の白さ。遠い南国の密林から連れてこられた鳥は宮廷で珍重されていた。遙か彼方の北国から帰還を果たした公主もまた。
「妾もお前と同じ、宮廷で飼われている珍しい鳥」
 ほろ苦く笑う。すると鸚鵡はうなずくように首を振りながら、太和公主帰還の詩を詠いだした。

 異郷に嫁いだ公主は戦塵にまみれ
  転戦の末に物悲しく帰還する
 匈奴にさらわれた蔡姫の笛の音には愁嘆が宿り
  明妃も漢の宮廷から匈奴に嫁ぐ悲運を嘆いた
 豪奢な宮殿から夷狄の天幕に住まい
  絹の衣をぬいで獣毛の衣をまとう
 兵車に乗って戦場から
  宮殿に入城し祖廟を拝謁した
 封じた記憶を流そうと髪を洗おうとも
  殺胡山での悲劇をくりかえし夢見る
 雁が北に向かえば微笑みながら見守り
  鵲が南に向けて飛べば詩を吟じる声がやむ
 流行の宮風に結った髪で溜息をついて
  庭の草木に草原をかさねて懐かしむ
 共に旅立った侍女の多数が還ること叶わず
  今では家内を良く知る者に事欠く有様だ
 鳳凰は夜に閉じられた楼門を去ったが
  鸞鳥は蓋を閉めた小箱の中で輝いている
 柳苑で哀れんではいけない
  風にそよぐ柳のように名残惜しくなるばかりだから

 公主は息が尽きるまで長々と嘆息した。
「どうして人は失われたときに気づくのだろう。妾はもう還るところはないが、お前だけは故郷へお帰り」
 鳥籠を開け、鸚鵡を放つ。鸚鵡は雪片のごとき羽根を残し、丸窓を越えたとたんに忽然と消えてしまった。まるで空に吸いこまれたかのように。
 どこに行ってしまったのか。不思議に思い、窓から首をだして覗いた。その見開かれた、潤んだ眸から一粒の涙がこぼれた。
 そして窓枠に手をかけ、羽衣をまとったように公主は軽やかに彼方へと飛んだ。


 青金石をくだいた顔料で刷かれた空の下、白鸚鵡に導かれ、花嫁は花婿とともに比翼の鳥のごとく草原を駆けていく。
 その絵の中に屏風絵がある。白蓮が咲きみだれる池の中に亭があり、純金に翡翠が象眼された鳥籠の中には白い羽根が残るのみ。
 またその絵の中に屏風絵がある。白檀の牀に横たわり微睡んでいた、睡蓮のように清らかな佳人の姿は、消えていた。
 開けはなたれた窓から、梨花のはなびらがはらはらと、太和公主と題された屏風にふりそそいでいる。


■作中の詩について

漢の公主が詠んだ詩は、烏孫公主劉細君の『悲愁歌』を私流にアレンジしたものです。
鸚鵡が詠った太和公主帰還の詩は、李敬方が作った『太和公主还宫』です。中国語から訳したので、間違っている可能性大。











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