第十二話 戦い
それは佐伯にとっては予想だにしなかった事だった。
男は土下座をしたのだ。
自分の足下に頭を擦り付ける男を見下ろしながら、彼は耳鳴りを感じていた。
何も言わずに体を丸めている若造を、いつもの佐伯ならば軽くあしらえただろう。
もし、男が自分に殴り掛かってきたとしたら、勝てたと思う。
もし、しっぽを丸めて逃げ出していたのならば、立ち直れない位叩き潰してやったとも。
それから、こんな屑みたいな見てくれだけの男に身を任せた砂羽の事をののしってやれただろう。
だが目の前の男は許しを乞うていた。でもそれは砂羽と寝た事じゃない。
佐伯に身を引く事を乞うているのだ。
その頭をかち割ってやれたならばどれだけすっきりするだろう。それとも全体重をかけてその腹を蹴り上げてやろうか。
しかし多分、彼はおとなしく蹴られるままに蹴られるのだろう。無抵抗で。
それは砂羽を守る唯一の手段だから。
これはきっと砂羽が望んだ結末なのだ。
そう思うと、どうしようもない苛立ちと脱力感が佐伯を襲った。握りしめていたはずの拳から力が抜け、自分よりも目の前の恋人同士が哀れになった。
哀れ?その感情は何だろう、と佐伯は戸惑った。可哀想なのは、自分の方じゃないか。
年明けには結納の日付も決まっていたのに。自分が再婚になるからと内々で話しを進めていたのだ。いつか二人の間に出来るはずの子供達の為に学資を貯めなければいけないな、などと考えたり、もし転勤になった場合、彼女は仕事を辞めてくれるだろうかなどと考えたり。
ふと佐伯は何故自分が彼女を選んだかを思い出していた。
控えめで押し付けがましくない思いやりを持つ彼女。必要以上に飾らない、古い言い方だけれど“
慎ましい女性”?
いや、それよりも、
“身の丈にあった。”
その言葉がキーワードだった。
砂羽と自分とならば、身の丈にあったこれからの人生を送る事が出来る、穏やかに年を重ねる事が出来る、そう感じたという事を。
うずくまっている男は一言も発せず、微動だにしなかった。
この男は砂羽に中に何を見いだしたのだろうか?
沈黙が見守る中で、彼はしばらくその男を見下ろした。
もし今ここで拳を振り上げ殴り掛かった相手が砂羽だったとしたら、彼はどうするだろう?
そう思った瞬間、佐伯は自分の肩がぴくっと動いたのが分かった。
と同時に、男の体に緊張が走るのが見えた。
宮内は男が発する怒気をそのまま全身で感じていた。
パニックを起こしそうになる頭に
“予期していた事だ。”
と何度も繰り返し言い聞かせた。
怒鳴り、猛り狂うはずの男は一言も発しない。その事が良い事なのか悪い事なのか、宮内には分からない。
ただ、砂羽の事をこれ以上傷つけたくはなかった。
今までさんざん弄んできた。自分の事を好きだって気づいていたのにそれを無視し、
都合のいいときだけ良い様に抱いてきた。
やっと人並みに幸せになろうとした彼女をまたしても踏みにじっている。
そして今更の様に気づく。彼女を傷つける事は、自分が傷付くより辛い事だと。
目の前に立ちふさがる男が自分を観察しているのがよく分かる。
その自分を失わない余裕のある態度が余計に彼の罪悪感を助長させた。
彼女はこの男と幸せになるはずだったのだ。
宮内は下げていた頭をより低く床に押し付けた。張り合わせの絨毯は荒く、繊維は彼の額に傷を作った。
俺の体で済むのならいくらでもくれてやるから。好きなだけ殴って、蹴りもしてくれ。
だから、砂羽には指1本でも触れてくれるな。
男の肩が微かに揺れ、来る と感じた。その瞬間、宮内の中の炎が揺らめいた。
やるならやれよ。だだし、彼女にだけは手出しさせるもんか、絶対に。その時は覚悟しろ。
ラプソディ・オン・ブルー つづく
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