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気がつけばいつもそこに君が
作:やくも



Second Day(3):風呂上がり雨上がり




 湯船の中の体から疲れが抜けていく。
「ふぅ……」
 一日……いや、具体的に言えばまだ半日も経っていないが、やはり一日の締めくくりは風呂に限る。
 時々、自分の精神年齢が異常なほどに老化しているんじゃないかと思ってしまうときがある。
 だがそんな雑念も、湯船の中で足を伸ばしていれば気にもなりはしない。
 大して疲れなど溜まってもいないはずなのに、湯船に浸かった体はなかなか強情だった。
 体も髪も洗い終わり、少しお湯に浸かってすぐに出るはずだったのに、いつの間にかリラックスしてしまっている。
 そもそも俺が風呂にやってきたのは、あの食卓での恥ずかしい会話から逃れるためだけのことであって、入浴が目的ではなかった。
 普段、風呂に入るときも俺は最後に入るようにしている。
 これは別にそうする理由らしい理由があるわけじゃないが、言うなればアクシデントの事前対策とも言うべきか……。
 早い話が、一つ屋根の下で年頃の男女が生活を共にするというのは色々な意味で危ない。
 まぁ、この家の場合は母さんがいてくれるから問題はないんだけど。
 今でこそ俺達三人の生活は当たり前になっているが、それはこの生活の始まりが今から十年も過去のことだからだ。
 当時は俺も七星もまだ七歳。
 当然年頃でもなんでもないし、その時点ではただの幼馴染の延長上のものでしかなかった。
 が、十年も経てば話は別だ。
 七星はどうか知らないが、少なくとも俺はそう思っている。
 十七歳という年齢は子供でもなく、かといって大人でもない。
 ようするに中途半端なわけだが、それでも大人に向かって進んでいる途中だと俺は思っている。
 この年齢になれば、一つ屋根の下で生活を共にするということがどういう意味を持つのか嫌でも理解させられる。
 それは決して嫌悪感を抱くようなものじゃないけど、俺だって間違いを犯さないようにといくらか慎重にもなる。
 形は家族といっても、俺と七星に血の繋がりはない。
 そんな因果関係が拍車をかけたというわけじゃないが、俺は時々、七星を異性として意識していることがあるんだと思う。
 もちろん、全部に自覚症状があるわけじゃないけど。
 もしかしたら七星も、そういうことがあるのかもしれない。
 今までは当たり前のように共に生活をしてきたから、それを意識しなかっただけで。
「……って、何考えてんだよ俺は……」
 ここが風呂場だということを差し引いても、俺の体温はわずかばかり上昇しすぎだ。
 さっさと上がって、湯冷めしないうちに着替えてしまおう。

 最後に軽く顔を洗う。
 よし、さっぱりした。
「隼人、いる?」
 湯船から出ようと浴槽の底に手をついたとき、洗面所から母さんの声が聞こえた。
「うん、いるけど?」
 曇りガラスの向こうに、母さんが何かを腕に抱えているようなシルエットが見えた。
「いつも使ってるタオルがまだ乾いてないから、代わりのを洗濯機の上に置いておくわね」
「ん、分かった。ちょうど上がるところだったから」
 そうは言いながらも、母さんがそこにいるんじゃ出るに出れないじゃないか。
 親子とはいえ、見られたくないものがある。
 仕方なく俺は、もう一度湯船の中に体を預けることにする。
「ねぇ、隼人」
「ん、何?」
 風呂場という密閉空間にいるせいだろうか、俺の言葉は浴室の壁に反響して大きく耳に届く。
「さっきの話の続きなんだけど」
「……うん」
 正直、やめてくれと言いそうになった。
 母さん、その我が子をいじるクセは直した方がいいと思う。
 しかし母さんの言葉は、俺にとって予想外のものだった。
「……まだ、悪い夢を見るときがあるの?」
 その問いに。
「…………」
 俺は、言葉を失った。

 視線が虚ろになる。
 目の前にあるのは、体温よりも少し暖かいただのお湯なのに。
 揺れるその、水面が。
 いつしか轟々と、渦を巻いて。
 ゆらり、と、歪んで。
 視界が霞む。
 目の前の色という色が、黒く塗り潰されていく。
 黒く、黒く、どこまでも黒く。
 呼吸さえ忘れて、その色に視線は釘付けになる。
 やがてその黒色の液体が、わずかに光に映える。
 黒が薄れて、新しい色が現れる。
 それは。
 赤く、赤く、どこまでも赤く。
 深紅と呼ぶに相応しいその色合いは、まるで生きているように蠢いた。
 脳裏を掠めるイメージ。
 一瞬だけ、心臓が破裂しそうなほど高い鼓動を鳴らす。
 ドクン。
 体が熱い。
 体温が上昇しているわけじゃない。
 お湯の温度が上昇しているわけでもない。
 熱いのは、周囲。
 もう一つの真紅。
 猛る炎が、いつの間にか周囲を焼きながら迫っていた。

「……隼人、隼人、どうしたの?」
「……っ!」
 その声に、俺は意識を取り戻す。
「え……何、母さん?」
「何って……何度呼んでも返事がないから、てっきりのぼせちゃったのかと思ったわよ」
「あ、ああ……ごめん。大丈夫だから……」
「そう? ならいいんだけど……」
 母さんにはそう返したが、正直大丈夫ではないかもしれない。
 すっかり抜けきったはずの疲労が押し寄せるように逆流し、俺の体は鉛のように重かった。
 呼吸もどこか荒く、体内の酸素が著しく減っている。
 心臓は何かに驚いたように活性化し、慟哭のような鼓動を繰り返す。
 湯船の中だというのに、正体不明の寒気を感じた。
 にもかかわらず、触れた額は焼けるような熱を持っていた。
「ごめんね。母さん、余計なことを聞いたわ……」
「……いや、大丈夫だから。気にしないで」
「……ええ」
 それだけ言うと、母さんのシルエットは洗面所から消えた。
 スリッパが床を叩く足音が、廊下の向こう側に遠ざかっていく。
 俺の中の正体不明の熱と疲労は、未だに体内でくすぶっている。
 ……正体、不明?
 おいおい、笑わせるなよ。
 誰かが耳元で囁いた。
 心当たりなんて、一つしかないだろう?
 幻聴にしては、やけに痛いところを突いてくる。
 俺はもう一度顔を洗って、重い体を浴槽の外に引き上げた。



 雨は上がっていた。
 縁側に座り、俺は夜というにはまだどこか明るい夏空を見上げている。
 ところどころにまだ厚い雲が浮かんではいるが、紺色の澄み渡る空にはいくつかの星が姿を覗かせている。
 水溜りの残る庭の上を吹きぬける風が、火照った体に心地よい涼風を送ってくれる。
 これでスズムシの泣き声でも聴こえてくればかなり風流なのだが、あいにくとこの住宅街にそれを望むのは難しい。
「…………」
 方膝を抱えるようにして座っていた俺は、軽いめまいを覚える。
 風呂上りからずっとこうして夜風に当たって休んでいるわけだが、なかなか体の重苦しさはなくならない。
 風呂場のときに比べれば、それでもずいぶんとマシになったのだが。
「……っ、ダルイな……」
 スポーツドリンクを一口含む。
 のどは一時的に冷たさで潤されるが、胸の辺りでは未だに熱がくすぶっていた。
 その熱が時折、言葉にはできないほどの猛烈な吐き気を促す。
 とはいっても、それは普通の嘔吐感のようなものとは全くの別物だ。
 まるで胃の中の胃液や臓器、血管から血液までのその全てをぐちゃぐちゃにかき混ぜられているような。
 腹の中に自分以外の何者かの手があって、それがあらゆるものを握りつぶして回るような、そんな悪寒じみた感覚。

「……っ!」
 めまいと吐き気が同時に起こる。
 俺は背中を壁に預けて、片手で頭を、もう片手で胸を鷲掴みにする。
 皮膚に爪が食い込む痛みも気にならず、ただ不快感だけを掻き毟るように指先が軋む。
「う、あ……っ!」
 たまらずに悲鳴が漏れる。
 そのまま苦悶の時間が流れる。
 数字にすれば、それはたった十秒足らずの出来事。
「はっ、は……あ、はぁ……」
 呼吸が荒い。
 消えかけた体内の熱が、再び沸騰したお湯のように上昇していた。
 その代わりに、押さえつけている頭と胸からは痛みは消えていた。
 これほどの熱さを体は持っているのに、流れた汗は驚くほどに少なかった。
 額の汗を袖口で拭おうと、腕を上げる。
「痛っ! な、何だ?」
 持ち上げた左腕、いや、その先。
 ちょうど左肩の辺りから、鋭い痛みが走った。
 衣服の下に隠れて、その部分は地肌を晒していない。
 だが、分かる。
 その下には、大きくも小さくもない傷跡が一つ、今も消えることなく残っている。
 痛み出したのは今日に始まったことじゃない。
 今までにも何回も、何の前触れもなく突然痛み出したことがあった。
 それは、十年前のあの日に負った傷。
 俺が今まで生きてきた十七年という短い人生の中で、恐らくもっとも大きな罪を犯した日。
 傷口はとっくに塞がっている。
 ただ、傷跡だけが戒めの刻印のように未だに消えない。
 その傷跡が疼くように、時折こうして鋭い痛みを告げるのだ。
 まるで、俺に語りかけるように。
 囁くように、一言。

 ――人殺し。

 と。

「ふー、さっぱりしたー」
 そんな声に横を振り返ると、そこにはちょうど風呂上りの七星の姿があった。
 体からはまだ微かに湯気が立ち上り、頬も紅潮している。
 いつもならそんな姿を見れば、俺は少なからず目のやり場に困っていただろう。
 だけどこのときは、まだ少し頭の中が混乱していたのかもしれない。
 気がつけば俺は、口を開いていた。
「……なぁ、七星」
「ん? 何、隼人?」
「お前、さ。覚えてるか?」
「何を?」
「その……」
 言いかけて、俺は言葉に急ブレーキをかけた。
 傷跡の残る、しかしもう痛みのない左肩を右手で押さえ、沸き上がってくる言葉を必死で呑み込んだ。
「……隼人?」
 俺の様子がおかしいのに気付いて、七星が一歩俺に寄る。
「……悪い。やっぱ、なんでもない」
「……変なの」
 そう言うと七星は、手にしていたアイスティーを一口含み、リビングに戻っていった。
 ……バカか、俺は。
 よりによって七星にそんなことを口にして、どうなるっていうんだ。
 あの出来事を掘り返されて一番辛いのは、七星だって分かってるだろう。
 それなのに、俺は……。
「…………」
 疲れているのかもしれない。
 こんな風に連日、あの日のことで苛まれるなんてのは今までなかった。
 そうだ、疲れているんだ。
 そう自分に思わせることでしか、今の俺は平静を保つことができなかった。

 一日が終わる。
 どうして今頃になって、あの頃の夢を見るようになったんだろう。
 終わりが見えない悪夢に、俺は今夜も苛まれるのだろうか。
 一人で眠る夜を不安に思うことも、今まではなかったはずなのに。
「…………」
 考えたところで答えは見つからない。
 明日になったら、何もかもを忘れ去ってしまいたい。
 そう、願わずにはいられなかった。



 助けてと、呼ぶ声がした。
 だけど、体が動かない。
 痛みという感覚だけが、唯一俺の視界をクリアにしていた。
 悪魔の手は、容赦なく、ためらいもなく振り下ろされる。
 助けなくちゃいけない。
 痛みに歪む視界の先。
 助けなくちゃいけない。
 誰かの泣き声が聞こえてた。
 助けなくちゃいけない。
 分かってる。
 分かってるのに、どうしてこの体は動かないんだろう。
 分かってた。
 俺なんかじゃ、ヒーローにはなれないことなんて。
 ずっとずっと前に、分かっていたことなんだ。












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