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作:クナツ


 彼女は泣いていた。涙を流して笑っていた。眩しくてよく見えなかったがとても悲しい笑い顔に一筋、二筋と。流れ落ちた雫が光っていた。
「どうして泣いているんだ?」
 俺は見たことも無い彼女に何故か話しかけていた。
 彼女は答えない。ただ、笑って涙を流してる。
 すると彼女は口を動かした。だが俺には聞こえない。『ありがとう』と言っているかのようだった。
「聞こえない」
 俺は言葉を漏らすように呟いた――。

 ――太陽の光が出てきていない時間、俺は空からの大粒の雫が窓に大きく叩きつけられる音で目を覚ました。
 夢か……。
 時計を見ると六時を過ぎたばかりだった。
 雨音を聞くといつも複雑な気持ちになってくる。
 人は、涙を流す。
 流れた涙は約八十年後に雨になって大地に戻ってくると聞いたことがある。
 それ以来、雨音を聞くたびにこう思うようになった。
 八十年前の人達の嬉し涙、悲しみの涙、悔し涙……。
 どれだけの人間がどんな感情で、涙で頬を濡らし、どんな決意をし、どんな喜びを感じ、どんな安堵を感じ、どんな喪失感を感じ、どんな絶望の淵に流されていたのだろうか。
 そんな思いをはせ、眠気覚ましのコーヒーと紫煙をくゆらせながら、ゆっくりと口に含みやや熱めの温かさをのどで感じる。
 光が差し始め、俺は、軽い朝食をとり、退屈な毎日。いつもの場所へと行くために今日も電車に乗る。
 車窓には、流れる背景を背に斜線を描いた雫が見える。
 目的の駅に着き電車から降り、白い息を吐く人ごみの一部と化しながらホームを歩く。
 雨は、まだ降り続いている。
 改札口から出て傘をさし、点滅を始めている信号に急かされながら小走りで横断歩道を渡ろうとする。
 するとランドセルを背負っている小さな男の子が黄色い傘を持ちながら全身を使って走り、無理矢理渡ろうとしていた。
 危ないな。
 俺も同じ事をしようとしていたが、先に男の子が渡る。
 突然スピードを緩めていない赤い大型の自動車が左折をしてくる。
「危ない!!」
 俺は咄嗟に傘を捨て、足に力を入れ、男の子のランドセルに腕を伸ばし、体を使って押した――。
 
 ――男の子は助かったのか?
 気が付くと視界が上から下へと流れていた。
 まぶしい。どこだここは……。
 そんな事を考えていた。
「先生! 怪我人の意識が戻りました!」
 先生? 怪我人?
 俺は体を動かそうとするが、なかなか動かない。
「動かないでください!」
 なんか騒がしいな。俺はどうなったんだ? 男の子は――?
 
「イッテー!」
 俺は今、病室のベッドの上にいる。
「だから大人しくして下さいって言ったんです」
 怪我は左大腿骨骨折とただのたんこぶが出来た程度の全治二ヵ月だった。幸い、足の骨は比較的綺麗に折れており、くっつきやすいとの話だ。気を失ったのはただの脳震盪だったそうだ。
「あははは」
 笑い声の主は俺の左側のベッドで体を起こしている女の子だ。
「笑うなよ」
 彼女の病名は教えてくれはしなかったが長期で入院しているらしい。ベッドの位置は窓側にあり、夕日の赤い色に病室は染まっていた。彼女の表情は逆光でよく分からなかった。
「あはは。ごめんなさい」
 まったく。
 そういえば男の子は大丈夫だったのだろうか? 結局分からないままだ。多分これからもずっと分からないままだろう。
 俺は、入院初日に彼女と仲良くなった。理由は単純だ。歳が近いのと、ただ隣だったからだ。彼女は十七歳らしい。俺とひとつ違いだ。彼女は高校に入った事が無いらしい。俺が高校生だった時の馬鹿話をよく聞いてくれていた。その時は本当に楽しそうに笑うもんだから、つい調子に乗って誇張してしまう。だが、それもほんのわずかだ。ただ馬鹿の度合いを大きくしているだけだ。彼女の笑い顔は見ていて飽きない。小さな子供のようにケラケラと笑う。俺も楽しい。それに、夕日で陰っている横顔が綺麗だと思わせる。
「今から屋上に行かないか? 今なら夕日と一緒に町も見下ろせるぞ」
「そうね。行こうよ」
「よし。決まり」
 そう言って俺は松葉杖を手に取り、バランスを取りながら立ち上がる。
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。じゃあ、行こうか」
「うん」
 子供のような無邪気な笑顔だ。
 階段を昇る時、彼女は俺を支えてくれた。そのか細い腕がなんだか頼りない。
 俺達は屋上のドアを開けオレンジから赤、やや紫へと何重にも重なった、物悲しい夕日を視界いっぱいに入れた。
「綺麗だね」
 彼女は風に遊ばれた髪を押さえながら呟く。
「そうだな」お互い無言の、それはゆっくりとした時間が流れていた。「なあ」
「なに?」
 俺の方を向く。俺は今の彼女の、オレンジに赤を足したような優しい光が微妙な陰りを見せていた。それは一枚の絵のような光景に見え、心臓の鼓動が高鳴った。
「お、俺達が退院したらどっか遊びに行かないか?」
 彼女の表情に陰りが見える。
「そうね。遊園地に行ってみたいな」
 悲しげな微笑を浮かべながら言葉を呟いた。
「……行こうな」俺はそれしか言えないのか。「絶対に治るって!」絶対ってなんだ? 「治る! 俺が保障する!」保障って何だ!? 「治る!!」 
 何の根拠も無い保障をして自分を心の奥底にある引っかかりから、白い息と一緒に逃れようとしていた。
「ありがと」俺の根拠の無い言葉に微笑を返してくれた。「治すから。絶対に治すから」
 黒い闇に輝く点が見え出し、だいぶ寒くなってきた。
「もう中に入ろう」
 何の病気か分からない。でも、悪くさせるわけにもいかない。
「そうね」
 彼女の瞳にはさっきまで無かった力が宿っている。そして病室へと戻っていった。

 それから二日後。俺が入院して二週間が過ぎようとした。時計の短い針が九を過ぎようとした時、彼女は手術室へと運ばれていった。
 彼女のいないベッドを見ながら、俺は成功を願った。
「何で病名を教えてくれないんだろう」
 と、無意識に呟いてしまった。

「まだ手術は終わらないんですか?」
 時間が長ければ長いほど不安はつのってゆく。この病室を担当していた看護士にどうしても訊きたくなった。
「まだ終わってはいないみたいです」
 術後、彼女の病室はかわり、呼吸器をつけた彼女が戻ってきた頃には三時を過ぎていたそうだ。
 看護士の話では手術は成功したらしい。
「良かったな」
 自分だけに聞こえるように呟いた。
 退院したら一緒に行こうな。

 彼女は意識が戻り、経過も順調なようだ。別室になり、いつでも話せなくなった俺達は中庭は寒いので病院内の待合室でよく会うようになった。俺の馬鹿話にも前よりも笑い声に力がある。
「それでさぁ、俺があの時すべってさぁ――」
 俺はこの時間がいつまでも続いたらいいと思った。こんなに心から笑ったのは久しぶりだったから。
 でもそれじゃあ約束の遊園地には行けないよな。
「あははっ! そうなんだぁ。それでそれで?」
 この笑顔が好きなんだ。今なら確信が出来る。声にも力がある。このまま治れば良いな。

 このごろ彼女はセキをする回数が多くなってきていた。手術は成功したんじゃないのか? 成功はしたけどまだどこかが悪いのだろうか……。
「大丈夫か?」
 俺は心配になり話しかける。
「うん。大丈夫よ。風邪でも引いたかな?」彼女は無理をして明るい声を出しているようだった。「あ、雪が降ってる」
 窓の外に目を向けるとふわっとした雪が風に流されながらゆっくりと舞い降りてきていた。
「雪だな……」
 …………。

 俺が退院間近の夜。
「ねえねえ」
 俺は寝ているところを耳元に小声で揺さぶられ起こされた。
「あれ? どうしたんだ一体?」
「今から星空を見ない?」
 目をこすりながら、
「どうしたんだよ。いきなり」
「どうしても見たいの」
「今夜じゃないと駄目なのか? それに体の方は大丈夫なのか?」
「別に違う日でも良いんだけど……今日は調子が良いの」
 暗くて表情は見えなくても彼女の声で分かった。でも、今日はって……。
「分かったよ。見に行こうか」
「ありがと」
 そう言って俺達は、屋上へと向かった。階段を昇る途中、彼女の助けはいらなくなっていた。ドアを開けると、
「……」改めてみると言葉が出てこない。冬の澄んだ空気が視界いっぱいの星空を描いていた。「……すごいな」
「でしょ?」二人で白い息を吐きながら、彼女は無邪気に小声ではしゃいでいる。「貴方と見たかったんだよ。――思――出――て」
 最後の方はボソッと言ったため、俺には聞き取りづらかった。
「最後なんて言ったんだ?」
「教えない」
 いつもの無邪気な笑顔だ。この顔をされると何も言えなくなる。この表情が好きだから。
「……教えろよ」
 いたずらな笑顔で彼女を見る。
「おしえな〜い」
 そう言って、大きく両手を広げ胸を反らし、空を仰いだ。俺の好きな笑顔で夜空に輝く星の全てを掴もうとしているかのように。
「ケチ」
「ケチでいいもん」
「ケチ」
「いいもん」凛とした静寂に俺達の小さな笑い声が広がる。「いつまでもこの時間が続けばいいのに」
「それじゃあ、ずっと行けないじゃないか」寒いがこれも良いな。「……お前と見れてよかったよ」
 自然と笑みがこぼれる。
「え?」
 俺の方を振り向く。
「一緒に見れて良かったって言ったんだ」
 心からそう思うよ。
「そう」
 はにかんでいるがどこか悲しげだった。
「遊園地……行こうな!」
 俺は無理矢理力を白い息と込めて言葉を発した。
「うん」
 行こう……な……。
 
 彼女との入院生活は本当に楽しくあっという間の時だった。
 予定の二ヵ月が経ち俺は無事に退院をする。
 彼女はまだ入院をしている。病室内、彼女のベッドの前で俺は「絶対に見舞いに来るから」と、言うと「うん」と、彼女の表情からは何かこらえている物があり、声が震えていた。
「すぐに見舞いに来るからさ、そんな泣きそうにするなよ」
「うん」
 一生懸命笑おうとして目を細めると耐え切れなくなった涙が一筋、二筋と流れていった。
「お、おい泣くなよ」
「泣いてないもん」
 精一杯の意地を張っていた。
「すぐに来るから。な」
「うん」
 その声を聞いて俺は病室を出た。彼女は日に日に顔色が悪くなっていっていた。

 次の日曜日、彼女の所へと見舞いに行った。
 あいつの病室は――あった。
 だが、病室には彼女の姿が見えない。俺は強烈な不安に襲われ、よく世話になった看護士が通りかかったので急いで訊いた。
「……」表情は暗い。目を合わせてくれない。俺は最悪のシナリオを予感した。「貴方に渡したい物があります。ついて来て下さい」
 と言われ、ナースステーションについて行くと一通の手紙を渡された。とても簡単に包まれた中身。そしてハートのシールで止めてある入れ物。
「これを貴方に」
 それだけを言われ、俺は否定したい感情と戦いながら封を開けた。
 手紙には、『ありがとう』と、書いてあった。数箇所なにかの水滴でにじんでいる。文字は歪んでいた。

 俺は泣いた。


手術待ち、感染の可能性が無い患者、男女同室は病院に都合によって実際にあります。

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