番外編3 18.恋の予感
「チサさん、吉山さん。今夜はありがとうございました。おい、さくら。おまえもちゃんと礼を言わないと」
「あ、ありがとうございました」
木戸に促され、さくらがぴょこんと頭を下げる。
「じゃあ、僕たちはこれで……」
チサに励まされ、元気をもらったのだろう。すっかり落ち着きを取り戻したさくらを伴い、木戸は今から実家に帰るという。
ホテルでの宿泊はすでにキャンセルしたらしく、そんな強引な決断を下した木戸に、意外にもさくらが素直に従っている姿に、澄香は目を見張った。
「先に下りているから……」
秀彦が澄香にそれだけ言うと、チサに会釈して、木戸とさくらの後に続きエレベーターホールに向かう。
玄関先に取り残されたようにたたずむ澄香に、にやっとするチサと、さっきから何もしゃべらずに突っ立っているだけの仁太の視線が浴びせかけられ、ますます居心地が悪くなる。
「チサ、吉山君。今夜は迷惑かけちゃって、ごめんね」
今澄香が言えるのはこれだけだ。澄香自身のことならまだしも、第三者である秀彦の友人のいざこざにまで巻き込んでしまった上、過去に告白された同僚と秀彦が鉢合わせしたのだ。
この微妙な空気はちょっとやそっとでは拭い去れないだろう。
それに。チサは木戸との過去も知っている。
澄香に関する全ての駒をその手に握っているチサには、もう手も足も出ない。早々に諦める方が身のためだと悟る。
「迷惑だなんて……。澄香ったら、なに言ってんのよ。それにしてもこういうことになってるなら、なんで電話の時に言ってくれなかったの? さくらさんとは、二月のあの時以来、結構頻繁にメールで連絡取り合っててさ。チサさんを結婚式に呼べなくてごめんなさい……だなんて、つい三日前にも彼女らしいかわいいメールをもらったばかりなんだから。しっかり祝電も打ったっていうのに、このままあの二人が別れたなんてことになってたら、あたし、ショックで寝込んでしまうところだったし」
「チサ……。だって、チサは吉山君と、その……。大切な時間を過ごしてたんだし。巻き込んじゃ悪いかなって、思って」
「んもう! 澄香ったら、水臭いよ。吉山君とは別に今夜だけじゃなくても、いつだって会えるんだし。ねえ、吉山君?」
突然話を振られた仁太が、たじろぎながらもこくこくと頷く。
「さくらさんは、一生の一大事だったんだよ。電話の時、澄香の様子がおかしかったから、なんか気になって。早めにマンションに帰ってみれば、ありえないほどのイケメン君とさくらさんがエントランス前にいるんだもの。もうびっくりしたのなんの。あたしは前に一度紹介してもらったから、すぐに秀彦君だってわかったけど。それにしても、初めて彼を見た吉山君の驚いた顔ったら。ホント、澄香にも見せたかったな~」
からからと笑うチサの隣で、仁太が苦笑いを浮かべる。
「チサ、その話はもう……。でもチサが帰って来てくれて、本当によかった。秀彦だけじゃ、さくらさんを説得できなかったかもしれないし。二人には、感謝してもしきれないよ。ありがとう。チサ、吉山君」
「あっ、いや、そんな。感謝されるほどのことでも……」
照れながらも、ようやく澄香に向かって仁太が口を開いたのだが。
「そんなの、澄香が気にすることないって。それより、澄香。あんたたちさあ、ちょっと変じゃない?」
瞬く間にチサが仁太を遮り、痛いところをチクリと衝いてくる。
「変? えっと、あんたたちって言うことは、あたしと……」
「そう。澄香と秀彦君。なんかさあ、よそよそしいっていうか、距離を感じるっていうか。ねえ、澄香。何かあった?」
「あっ、う、うん、まあね。ちょっと行き違いがあって。でも、もう大丈夫だから。えっと、そうだ。いつまでもこうしてるわけにはいかないし。あたしもそろそろ行かなくちゃ。それじゃあ来週、会社でね。またメールする」
これ以上話すと帰れなくなってしまうのではないかと不安になった澄香は、玄関のドア越しに半身を覗かせるチサに手を振り、足早にエレベーターホールに向かった。
「澄香! メール待ってるよ。心に溜め込まないで、何でも相談してよね。わかった?」
チサの声が、澄香の背中を追う。
「わかった。チサ、ホントにありがとう。絶対にメールするから……」
廊下の端でもう一度振り返り、携帯を持った手を掲げるようにして声を抑えつつ答える。それでも静まり返ったマンション内に、澄香の声がはっきりと響き渡った。
チサの優しさに胸が熱くなる。
澄香はエレベーターに乗り込み、とにかく秀彦の元へ行こうと急いだ。
雨が上がり、街路樹の葉から雨のしずくがしたたり落ちる。
車が水しぶきを上げ、澄香のすぐそばを走り抜けた。
その時、前を歩いていた秀彦が振り向き、ったく……とつぶやくように口走り、澄香の手を掴んできた。
車道側に立った秀彦が、何もなかったように歩いていく。
いつものように。お互いの指を絡ませながら。
「遅かったな」
秀彦は前を向いたまま、ぶっきらぼうにそう言った。
「うん。ごめんね。チサといると永久に話が終わらなくて……」
「だろうな」
「さくらさんたちは?」
すでにどこにも姿が見えなくなっている二人の行方を訊ねる。
「帰った。木戸のやろう、待ってる仲間たちに、さくらさんの口から謝らせると言ってきかないんだが、もういいと言って無理やり帰らせたよ。これ以上、彼女に負担をかけるのはよくないだろ? 待ってる仲間に連絡入れたら、おまえももう戻ってこなくていいと言われた」
「そ、そうなんだ」
今から片桐に真相を訊ねるつもりだったのに、肩透かしを食らった気分になる。
二人の間に沈黙が訪れる。秀彦は何も言わない。すれ違う車の音しか聞こえなかった。
口をつぐんだまま、繋がった手だけを頼りに、駅に向かって歩いていく。
「あの二人。もう大丈夫だろう。さくらさん、チサさんの言うことを素直に聞いていたぞ。あの人、おまえのメールでイメージしていた人と、いい意味で違うんだよな。気さくで、優しい人だな。で、一緒にいた吉山ってやつとチサさんはうまくいってるのか?」
あまりにも唐突に話しかけてくるものだから、すぐに言葉が出てこない。
「えっ? あ、う、うん。少しずつだけど、進んでるみたい」
「そうか」
信号で立ち止まる。またもや話が途切れた。
さくらさんを探している時に言い争ったことがまだ尾を引いているのだ。いっそのことはっきりと訊いた方がいいのかもしれない。
あのことを。片桐とまだ連絡を取り合っているのか……と。
青に変わり、さっきより人通りが多くなった濡れた道を、黙々と横断する。
このまま電車に乗って、それぞれの駅で降りて。
わだかまりを抱えたまま、今夜は別れてしまうのだろうか。
「かがちゃーん。おーい、かがちゃーん!」
JRの高架下までやって来た時、思ってもみない瞬間が向こうからやってきたのだ。
それは何の前触れもなく、突然の出来事だった。
「なんや、おまえらまだここにおったん? 今日はご苦労さんやったな。池坂も、大変やったなあ。探してくれて、サンキューな。木戸に成り代わって、お礼申し上げます……あははは」
「お、大西君!」
「大西君やあらへんで。なあなあ、これ見てーな。このボストンバッグ」
大西が差し出したのは、さくらが持っていたボストンバッグなのだが。なの……だが……。
澄香の視線は、大西の隣でほろ酔い加減でまとわりつくように腕を絡める、よく知ったその人。そう。片桐に向けられたまま、ほんのわずかたりとも動かせなくなってしまったのだ。
どうして片桐が大西の隣に?
それも、まるで恋人同士のように腕まで組んで……。
「木戸に連絡したら、今から取りに戻る言うねんけど。どうせ、俺の家もあいつの実家の近くやから、ほな、持って行ったるわ、って言うてしもてん。俺ってホンマ、天使のような男やと思わへん? しょうがないから、今からあいつのとこに届けに行くわ」
「んもう、ヒデトったら、どこまでも人がいいんだから。ってことで、今から行ってきます。秀彦、池坂さん。またね」
酔っているのは間違いない。
が、しかし。
今確かに片桐が言ったのだ。ヒデトと。大西の名前は、ヒデトと言うのだろうか。
そして、恋人同士のようにぴったりと寄り添って、頬を染めて目を合わせる二人。
と言うことは、片桐が電話をかけていた相手が、大西だったとでも?
澄香の頭の中は、何がどうなってしまったのか、全く考えがまとまらなくなっていた。
大西と腕を組んでいた片桐。そして、大西の名前はヒデト……。
「あっ、そうや。かがちゃん、クッスンと新田やけど。これから二人で飲み直すんやて。明日の結婚式のサプライズはあいつらが企画してくれるそうや。次はおまえらの結婚式やな。池坂。頼むから式の前日に逃げ出さんといてな。おまえらの後は、俺と先輩が続くから。楽しみにしといて。じゃあな」
「ひ、ヒデト。あなた、今なんて言ったの? あたし、了解した覚えはないわよ!」
「う、る、さ、い! もう、おまえは黙っとれって。俺の言うとおりにしとったらええねん」
「そんな……。横暴すぎる。あたしはね、そんな簡単に誰にでもなびく女じゃないんだから。それにあたしの理想は、ヒデトみたいに熊みたいな人じゃなくて……」
「だーかーらー。ほんまにおまえは、ぐちゃぐちゃとうるさいんじゃ!」
「ヒデトが……なのよ! ほんとにあなたって人は……」
「はいはい、俺は……ですよ……」
言い争いながらも仲睦まじく遠ざかっていく二人をぼんやりと眺めていると。
ふふっと秀彦の小さな笑い声が澄香の耳に届く。
「秀彦……」
「なに?」
秀彦が笑いを堪えるようにして、澄香を見る。そして。澄香も秀彦をじっと見つめて。
「今夜、西宮のマンションに……。泊まっても、いい?」
つないだままの秀彦の手が一瞬硬直したように動きを止めたあと。
慈しむようにふんわりと。澄香の指が秀彦に優しく包み込まれた。
番外編3.六月の嵐は18話をもちまして、完結いたしました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

(HPです。)
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