8.高校二年生 その五
「加賀屋君……」
あまりにも突然な出来事に、澄香はとても平静ではいられない。
心臓は信じられないくらいドキドキするし、声は上ずるし、顔に至っては……。
自分では見えないけれど、きっとりんごより赤くなっているのだろう。
澄香は、この場をどう収めればいいのか皆目検討がつかないまま、野球のユニホーム姿の秀彦から目が離せないでいた。
春に比べれば少し伸びた髪が、額に貼り付いている。伸びたと言っても長めのスポーツ刈りだ。
サッカー部の人達のようにおしゃれなヘアースタイルは、野球部では禁止事項なのだろう。
でも澄香は知っているのだ。秀彦の髪が、緩くウエーブがかっていることを。
小学校の卒業アルバムに写っていた彼の写真は、集合写真の右上に一人分だけ切り取られて載せられていたのだけれど、長いまつげと少しクセのある髪が、まだあどけなさの残る表情と共にそこにかわいらしく写し出されていたのだ。
今では当時の面影はほとんど消え去り、精悍な顔立ちという方がぴったりくるくらい、ドキッとする程大人っぽくなっている。
「おまえも調査票? 迷ってるのか? 俺もさっき鬼クロから呼び出し喰らって、希望校、もう少し考えろって言われたんだ」
鬼クロ……。それは担任の鬼教師、黒川のニックネームである。
鬼のように厳しいから……というだけではなく、先生の着用している上着のタグに、某有名衣料チェーン店のロゴがあったのを見逃さなかった前方の座席に座る生徒の発案で、このネーミングが定着したのだ。
オニクロ……。一時違いで大違いだが、今や全校生にまでその知名度は広がる勢いだ。
その鬼クロに呼び出されて、調査票の書き直しを命じられた秀彦が、今ここにいる。
「そ、そうなんだ……」
最近ではあまり話すことがなかった相手なのに急に親しげに言葉をかけられ、澄香は戸惑いを隠せないでいた。
ペンと用紙を持った秀彦は、自分の席に着くのかと思いきや、澄香の前の席に後ろ向きに座り、向かい合う形になる。
澄香は、これでもかというほど大きく目を見開き、目の前の秀彦を凝視する。
「どうした? 俺、どっか変?」
──いえいえ、変だなんて、そんなこと……。ただちょっとびっくりしただけ……。
澄香はあわてて視線を反らし、何もなかったかのように調査票を睨みつける。
「なあ、おまえは大学どうすんの? 神戸? 大阪? それとも京都?」
秀彦との距離わずか二十数センチ。胸の鼓動はマックスを越えて……もう針が振り切れてしまうんじゃないかと思うほど激しく脈打つ。
「た、多分神戸市内。それか西宮あたりで」
「ふ〜ん。で、学部は?」
「あっ……商学部か経営学部。経済学部でもいいよ。そんな感じ」
「なんだ、一緒じゃん!」
──いっしょ? ってことは同じ学部? 澄香は、ますます緊張してしまい、その後の秀彦の大事な一言を聞き逃してしまうのだ。
「俺は多分東京に出る……。英語を武器に私立の推薦狙ってたけど、鬼クロの奴、国立にしろだと。まあ、その方が、親にも金の面で苦労かけずにすむしな」
──ってことは商学部。ああ、同じ大学に行けるのかな? どこ受けるんだろ……。
澄香の頭の中は、さっきの一緒じゃん! という秀彦の言葉で埋め尽くされてしまい、たった今冒頭で伝えていた、俺は多分東京に……という所を、完全に聞き逃してしまったのだ。
これは、後になってかなり後悔するのだが……。
「今日、木戸いないんだ」
「……」
舞い上がっていた気分もその一言で一気に下降し、なぜ急に木戸の話になるのか秀彦の真意を測りかねていた。
「今度ある地区大会の試合の抽選に監督と一緒に行ってる……」
木戸とは、春に付き合うような形になってから、別段進展もないまま秋を迎えた。夏休みに一度、図書館に行ったくらい。
そして一週間前、学校帰りにハンバーガーショップに行った時、このままうやむやにしてはいけない、木戸君とはどうしても付き合えない……とはっきり断ったのだ。
木戸も察知していたのか、すんなり了解してくれたと、澄香は思っているのだが。
秀彦がどこまでそのことを知っているのかは計り知れないが、木戸の口ぶりからは全て彼に話してるようにも思える。
だからと言って、秀彦の親友をふったなどと、今ここで澄香が言うのも場違いのような気がしていた。
なるべくそのことには触れないように当り障りのない会話を続けた。
「ねえ、加賀屋君は、いつまで部活やるの?」
「春までかな? 三年になったらちょっとは勉強しないとな。センター試験、結構キツイよ」
「そうだね。あたしは成績、かなりヤバイから、この冬休みから特訓講座受けるつもり」
「ふーん。まあがんばれよ。さあ、ちょちょっと書いて、早いとこ鬼クロに提出しないとな。なあ、四月の忘れ物、覚えてるか?」
──四月の忘れ物……。澄香は思い出した瞬間、恥ずかしさで、また赤くなってしまった。
「覚えてるに決まってるじゃない。せっかく忘れてたのに、また思い出しちゃった」
「あははは。あれはホント、最高だった。さすがにもう俺のこと覚えてくれたよな?」
「あたりまえじゃない。二度と忘れる物ですか」
そう。澄香にとって、忘れようにも忘れられない出来事。あの日から、澄香の心の中は秀彦でいっぱいなのだから。
「あの日……。あの時から」
「え? 何? あの時からどうしたの?」
「いや、いい。もういい。……いいんだ。何でもないよ」
何か言いたげに、そのまま言葉を呑み込んでしまった秀彦だったが、急にいたずらっぽい目つきで澄香を脅かす。
「さあ、おまえも早く書けよ。でないと、家に持って帰ったらまた間違えるぞ。算数プリントと!」
そんな捨て台詞を残して、お先いっ、と言って教室を出て行く秀彦。
その姿が眩しくて、胸が締め付けられて……。でも、聞けなかった。片桐さんとはその後どうなってるのなどとは。
澄香は、あれからも何度か二人が一緒に帰るのを見た。でも、野球部の中では二人の噂はその時に始まったものではなかったらしい。
秀彦が一年生の時から、公認の仲であったとも言われている。
たとえそうであったとしても、澄香はあきらめられなかった。
自分を見てくれなくてもいい。秀彦が他の人を好きでもいい……。秀彦と同じ教室にいて、同じ空気を吸って、時々視線を絡めて……。
それだけで幸せだったのだから。
窓が小さくカタッと鳴った。
グラウンドの隅にあるイチョウの木から、黄色く色付いた葉が風に舞う。一枚、二枚……と。
秀彦がいなくなった教室で澄香の瞳から涙がひとつぶ、ぽとんと小さな音を立てて、机の上にこぼれ落ちた。
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