番外編3 8.思い出のアイランド その1
木戸の実家は神戸の南東に位置する六甲アイランドにある。
新交通システムの六甲ライナーに乗って海を渡り、埋め立てられて出来た人工島に建つ高層マンションが彼の育ったところだ。
父親の転勤で神戸に来る前は、山口県に住んでいたらしい。
木戸家のマンションからそう遠くないところに、マキの家もある。
ここには他の同級生や先輩後輩も大勢住んでいるため、澄香もこれまでに数え切れないくらいこの街を訪れていたのだ。
おしゃれな店も知っている。おいしいパスタの店も、ホテルのスイーツバイキングも。
秀彦とも一緒に来て、海の見えるレストランでワイングラスを傾けたこともある。
きちんと区画整理された街並みは目を見張る美しさで、北に六甲の山並みを望み、周囲は海に囲まれ。
マキの家に泊まった時にマンションの窓から垣間見た夜景は、二度と忘れることができないほどの素晴らしい眺めだったことを今でもはっきりと覚えている。
澄香は四つ目の駅で六甲ライナーを降り、人の波に合わせて歩みを進める。
まずは歩きながら駅構内を見渡してみた。しかし、さくららしき女の子はどこにも見当たらない。
スカイウォーク(空中回廊)を足早に歩く人たちは家族の待つ家に帰っていくのだろう。
デートを楽しむ二人連れの歩みはゆっくりで。これから食事をして、映画を観て。きっと二人だけの幸せな時間が待っているに違いない。
スカイウォークから外に出て、木戸の実家のあるマンション周辺をぐるりと一周してみた。
一階は店舗になっていて、明りが眩しい。
彼女らしき人物を求めて、店の中も覗き込んでみるが──。やはりどこにもいなかった。
澄香は薄々気付いていた。きっとさくらはここにはいないんじゃないかと。
もしこのあたりにいる可能性が高いのなら、木戸が真っ先に駆け付けているはずだ。
無駄足だったのかもしれない。
それとも、もうすでに宿泊するホテル付近で、木戸とさくらは出会っているのではないだろうか。
期待を込めて携帯を覗いてみるが、残念ながら、着信はなかった。
カップルが手を繋いで歩くすぐ後を、澄香はあてもなく歩みを進める。
ここはリバーモール。ビルの谷間を人工の川が流れ、水面に街灯の明りが反射して揺らめいていた。
いつもより湿っぽい風が舞う夜は、行き交う人も次第にまばらになっていく。
昼間はきっと大勢の買い物客や、観光客で賑わっていたのだろう。
高校時代に制服姿のまま靴下だけ脱いで、マキと一緒に水場ではしゃぎ回った記憶が蘇る。
マキは今夜も、どこかの誰かと誰かを幸せにする手伝いの真っ最中なのだろうか。
あれは確か、ゴールデンウィークが終わってすぐの休日だったと思う。
午前中なら家にいるという木戸の家族の約束を取り付け、秀彦と一緒に結婚祝いを届けるためこの街に足を踏み入れた時の出来事だった。
澄香は秀彦と一緒に、野球部全員からの祝いの品と、彼と連名で包んだ祝儀袋を持って木戸の実家を訪問した。
だが、息子の結婚がもうすぐだというのに、木戸の両親が浮かない顔をしていたのがずっと心に引っかかっていたのだ。
木戸にそっくりな大柄な父親は、終始厳しい表情を崩すことなく無言でソファに座り、接待に勤しむ母親にも心からの笑顔はなかった。
「あの子が決めたことです。私たちは、それに従うだけですからね。向こうさんは、まだまだお若いし……」
まだ結婚は早いんじゃないのって引き止めたんですよ……と暗にこの結婚を認めたわけではないというようなニュアンスの内容を語り始めるのだ。
父親はひたすら黙ったまま、時折り母親に同意するような咳払いをして、紅茶をすすっていた。
「でも、もう決めたの一点ばりで。聞く耳を持たないんですよ。九州の大学に進学する時も、広島で就職する時も。いつも何も相談もなく、決まってからの報告でね。教員になるなら阪神間でも学校はいっぱいあるのにと助言しても知らん顔。あの子、地元が嫌いなんでしょうか。それがね、あの子の上に二つ年の離れた姉がいるんですけど。加賀屋君は知ってるわよね」
看護師をしている木戸の母親と目を合わせた秀彦が、はいと控えめに頷く。
「娘が言うには……。あの、こんなこと私が加賀屋君に言ったって、あの子には言わないで下さいね。とにかく気難しい子で。ただ、野球の話をする時だけは楽しそうにしてるんですけど」
ここに木戸がいるわけでもないのに、母親が急にひそひそ声になる。
「えっと、どこまでお話したかしら。そうそう、娘の話だったわね。実は娘が……。翔紀は失恋して、気持の整理をつけるために神戸から離れたって、そう言うの。なんかその方、とてもかわいらしいお嬢さんだったらしくて。でも翔紀にはあのとおり野球しかないし、彼女とうまくやっていくなんて芸当はとてもできそうにないと思うのよ。なら案の定。その彼女さんに全く相手にしてもらえなかったって聞いてるわ。加賀屋君はそのこと、ご存知だった?」
「あっ、いや。それは……」
秀彦が返答に詰まる。
澄香は蘇る過去に息苦しくなり、その場で俯いて唇をかみしめ、話題が変わるよう祈ることしか出来ない。
「そりゃあ若いうちにはいろいろあるのが当然だと思っているわ。でも、たったそれくらいのことで神戸から逃げ出すなんて、信じられなくて。あの子、悩んでるそぶりなんてちっとも見せなかったから……。そんな馬鹿なことがありますかって、私も初めは取り合わなかったんだけど。どうも娘の直感が間違っていなかったみたいで。その忘れられない彼女さんの存在で、さくらさん……あ、翔紀のお嫁さんの名前ね。彼女との喧嘩が絶えないみたいなの。今どきのお嬢さんって、しっかりなさってるのよね。私のところに直談判してくるのよ。お母さん、先生のこと何とかして下さいって。翔紀はさくらさんが勝手に騒いでいるだけだからほっとけって言うし。こっちはお嫁さんに泣きつかれるし。結婚前からこんなことでは先が思いやられるわよね。その点、加賀屋君はこちらのお嬢さんと結婚されると伺って。とてもお似合いよ」
突如秀彦に矛先が向けられ、澄香の心臓がドクッと跳ねる。
「えっと池坂さん? っておっしゃったわね。お歳は? お若く見えるけど、さくらさんより一つか二つ上くらいかしら」
「あっ、いえ。同級生です。中央高校の……」
母親が何も知らないようだと気付いた秀彦が慌てて答える。
「まあ、そうだったの? いやだ。翔紀はそんなこと何も言わないから。じやあご実家も神戸なのね。お住まいはどちらかしら?」
「は、はい。あの……」
澄香に視線を移し訊ねてくる木戸の母親には、何も悪気はないとわかっている。わかっているのだが。
でもすぐには言えなかった。木戸の姉が澄香のことをどこまで知っているのかは定かではないが、実家の場所を答えると、すべてが露呈してしまうような気がして、思うように言葉が出てこないのだ。
「あら、いやだわ。私、池坂さんに何を聞いてるのかしら。ごめんなさいね。翔紀の同級生だと伺ったら、ついつい親しみを感じちゃって」
「うちの近所です。彼女とは小学校からずっと一緒でした」
秀彦がすかさず答えた。きょとんとしている母親をまっすぐに見ながら。きっぱりと。

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