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秀彦が澄香にほのかな思いを抱き始めた頃の物語です。
秀彦視点になります。
特別編 3.アイシテル…… その1
「池坂!」
 秀彦は下り坂の途中、自転車で追い抜きざまに澄香に呼びかけた。すると次の瞬間、背後でギィーっと急ブレーキをかける音がする。
 自転車を止め、あわてて後を振り返る。澄香が自転車から降りて立ち止まり、不思議そうな顔をこちらに向けているのが見えた。
 何も彼女を引き止めるために名前を呼んだわけではない。それは軽いあいさつ代わりで、そのまま彼女と一緒に学校まで自転車で走っていければラッキーという程度のノリだったのだ。
「おい、池坂。何してるんだよ。そんなところで止まってると、学校に遅れちまうぞ」
「あ……。うん」
 秀彦の行動が余程意表をついたのか、びっくりしたように目を見開いたまま、彼女がこくっと頷いた。
 ボックスプリーツのスカートの裾を気にしながらも、すぐにサドルにまたがり、再びゆっくりと坂道を下り始めた。
 彼女が横に並んだ瞬間、恥ずかしそうに目を伏せる。最近、いつもそうだ。教室で友人たちと楽しそうに話している時でも、秀彦と視線が絡んだとたん、口をつぐみ目を逸らすのだ。
 もしかすると、まだ始業式のあの出来事を気にしているのかもしれない。職員室前の廊下でぶつかって派手に転んでしまった彼女は、あの日以来、どうも秀彦を避けているように思えるのだ。
「なあ、池坂」
 秀彦は、斜め後を走る彼女の速度に合わせるように、ブレーキをかけながらゆっくりと自転車を走らせる。そして、沈黙し続ける彼女の気持をほぐすように、冗談めかして訊ねてみた。
「俺の名前、覚えてくれた?」
 新学期が始まって、もう二週間以上経つ。彼女が名前を知らないはずがないと思いながらも、唯一の共通の話題として、問いかけてみたのだ。
 もう、加賀屋君ったら。覚えたに決まってるよ。あれから何日経ったと思ってるのよ……と、軽く返してくれればいい。他愛のない会話から少しずつ、クラスメイトとして適度に親しくなっていければ、それでいいと秀彦は思っていた。が……。 
「えっ?」
 澄香が短くそれだけ言ったとたん、またブレーキ音がこだまする。彼女は当惑顔で、またもや自転車ごと止まっていた。冗談が通じなかったのだろうか。それとも、まさかとは思うが……。まだ名前を覚えていない?
 秀彦は澄香を前に、自分の無力さと存在感の薄さを思い知り、みるみる自信を喪失していった。
 だがここでへこんでばかりもいられない。今こそ、もう一度自分をアピールするチャンスなのかもしれないと、意識を奮い立たせる。
「ったく、池坂。車道で、そんな急に止まってばかりいると、後の車に追突されるぞ」
 すると澄香は、ひゃっ! とすっとんきょうな声を上げ、身体をびくっと震わせた。交通量の少ない住宅街の道路の真ん中で、あわてて後を振り向き、きょろきょろと辺りを見回す。車などどこにもいないというのに……。
 秀彦は、澄香の一連の動きから目が離せなくなった。おもしろい。こいつ、かなりユニークなやつなのかもしれないと、澄香をまじまじと覗き見る。
 きょとんとした顔も、驚いた顔も。もちろん、笑顔も、恥ずかしそうな顔も。彼女にまつわるすべてがおもしろくて……。そして、ありえないほど、かわいい。
 どうしようもなく愛らしくて、飽きることなくいつまでも眺めていたくなる。
「いいか、池坂。俺は、加賀屋だ。本当に覚えてくれたのか? まさか、まだ知らないとか言うんじゃないだろうな」
 ついからかってみたくなり、秀彦のいたずら心が次第にエスカレートする。
「う、うん。覚えた。やだ、あたしがまだ加賀屋君のこと、知らないとでも思ってたの?」
 澄香が突如、饒舌になる。つややかな唇から、滑らかな語り口調で、言葉がつむぎ出されていくのだ。
「あのあと、すぐに思い出したんだから。小学校の時、途中でいなくなって、中学でいつの間にか戻って来た人だよね。時代劇に出て来そうな珍しい名前だったから。名前はずっと憶えていたんだよ。憶えていたんだけど……。同じクラスになったことなかったし、遊んだこともないでしょ? だから……」
「そういえばそうだな。池坂も俺も、ずっと一緒の学校だったのに、不思議と一度も同じクラスにならなかった。でも俺はおまえのこと、よく知ってたぞ。なのに、池坂ときたら……」
「ご、ごめんなさい。でもね、あの日。うちに帰ったらすぐに昔の卒業アルバム引っ張り出してきて、ちゃんと確認、したんだ。加賀屋君の……こと……」
 いつしか彼女の頬が薔薇色に染まり、風船がしぼむように声が小さくなって消えていった。
 そうだったのか。彼女は、転んだことよりも、クラスメイトの顔と名前がすぐに一致しなかったことを気にしているのだ。秀彦はそうとわかると、これ以上あのことで彼女を冷やかすのは得策ではないと思い、話題を変えようとしたのだが。
「あ、あの。あたしって、ホント、そそっかしいんだ。二年になったら忘れ物はしないって決めてたのに、早速やっちゃうし。体操服だと思って、私服のTシャツを学校に持って行くこともあるし。ローファーとサンダルを履き間違えて学校に向かってて、なんかペダルの感触が違うなあって、途中で気がついて。それで大急ぎで家に引き返したことだってあるし……。加賀屋君になんて思われたんだろうって、あたし、恥ずかしくて」 
 ……えっ? そっち?  秀彦は次から次へと失敗談を披露する澄香を見て、ますます愉快な気持になる。そしてとうとう、堪えきれなくなり……。
「ぶっはははは……! 池坂、おまえ、おもしろい。めちゃくちゃおもしろいよ。はあ……。ごめん、笑いすぎた。でもな、よーく考えてみろよ。なんで俺がおまえを変に思ったりするんだ? そこらへん、おまえが激しくズレてるような気がするんだけど。気のせい?」
「だ、だって。弟のプリント持って来ちゃったんだよ。あの鬼のような黒川先生が、怒るのを忘れてしまうくらいのことを、やってしまったんだから!」
「ならさ、なんで俺があそこに一緒にいたわけ?」
「えっと……。なんでだっけ?」
「はっはっは……。おまえ、ホントにおもしろいっ! あのな、俺も忘れたの。例のプリント。部屋の机の上に、ごちゃごちゃっと置いていた荷物を全部カバンにぶっこんで、よし、これで大丈夫と胸を張って学校に行ったら、入ってなかったんだよ。プリントが。床に落ちてたらしくて、危うく、親に捨てられるところだった。そんな俺が、なんでおまえを変に思うんだよ。俺とおまえ、同罪じゃないのか?」
 はっとしたような顔をして秀彦を見た澄香に、ようやく笑顔がもどってくる。
「そっか、そうだったよね。あの時はわかってたのに。今はすっかり忘れてた。加賀屋君、当番日誌でも持ってきたのかなーって。そんな風に思ってた。な~んだ。同罪だったのか。ふふふ。加賀屋君も常習犯なんだ」
「いや、それは違う。あれ以来、忘れ物はやってないし、靴も履き間違えたりしないぞ」
「あ、あたしだって、あれから、ひどい忘れ物はしてないんだから」
 そう言って不服そうに口を尖らせる彼女の横顔がふいに秀彦の視界に入り、それと同時に彼の心がざわめく。これ以上澄香といっしょにいたら、どうにかなってしまいそうなくらいに。
「じゃあ、お先。おまえと一緒だと遅刻してしまう。教室でまた会おうぜ!」
 秀彦は次第に大きくなる心音を隠すようにして、早口で澄香にそう告げた。ペダルを深く踏み込みながら、猛スピードで澄香のそばを離れて行く。
 ちょっと、加賀屋君、なんで行っちゃうの、待ってよ……と困惑しているような彼女の声が聞こえてくるが、それも瞬く間に遠のいていき……。角を曲がる頃には、もう澄香の姿は見えなくなっていた。
 校門の横手にある駐輪場に自転車を止め、校舎脇の水道に駆け寄る。秀彦は顔から頭まで一気に水をかぶり、しぶきを振りまきながら、まぶしい朝日を仰ぎ見た。やっぱり澄香が好きだと心の中で叫びながら。

 秀彦から遅れること五分くらいだろうか。澄香がクラスメイトと一緒に談笑しながら教室に入って来た。彼女の声が耳に入ったとたん、秀彦の心臓がドクッと鳴る。そんな自分にあきれながら、ふっとあきらめにも似たため息を漏らした。
 秀彦はさっき廊下ですれ違った木戸の決意めいた表情を思い出していた。
 やっぱり、近日中にあのことを決行するのだろう。いや、今日かもしれない。秀彦はどうすることもできない自分のふがいなさをなじるように頭をかきむしり、机の上に突っ伏した。


 昨日、部活の帰り、珍しく木戸が夕食をおごると言って秀彦を誘ってきたのだ。大方、澄香のことで何か相談があるのだろうと予想はついていたが、木戸の澄香への狂おしいほどの思いを考えるだけで、秀彦はひどく気が重かった。
 立ち寄った店は、中央高校の生徒なら誰でも一度は行くというお好み焼きの店だった。大きなメインの鉄板を囲むように十人くらいが座れるようになっていて、壁際には小さな鉄板つきのテーブルと椅子がいくつか並んでいて、そこに木戸と向かい合って座った。
 水滴で曇ったグラスの水を一気に飲み干した木戸が、意を決したように口を開いた。頬は幾分紅潮し、視線は定まることなく、あちこちに動き回る。秀彦は、いまだかつて、そこまで落ち着きのない木戸の姿を見たことがなかった。
「なあ、加賀屋」
 木戸の上ずった声が、秀彦にまで緊張をもたらす。
「なんだ」
 秀彦は大きく息を吸い込み呼吸を整え、何食わぬ顔をして木戸の言葉を待った。
「俺、夕べもずっと考えていたんだ。やっぱり、おまえのクラスの池坂と、付き合いたい」
「そうか……」
 秀彦は予想通りの流れに言いようのないほどの空しさを覚えながらも、木戸に悟られないよう薄く微笑んでみせた。
   (HPです。)


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