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秀彦視点になります。
番外編 22.久しぶりね
 カーテンを開け、窓越しに空を仰ぎ見た。
 二月だと言うのに、うららかな陽射しが部屋の中までふり注ぎ、まるで春を思わせるような陽気に秀彦は大きく伸びをした。

 が、次の瞬間にはそれは落胆のため息に変わり、机の上の携帯を乱暴に手にして、ベッドに腰を下ろす。画面に表示させた名前はSUMIKA。家族よりも、誰よりも、今最も自分に近しい存在の女性の名だ。
 すかさず通話ボタンを押し、携帯を耳に押し当てた。
「もしもし、澄香か?」
『あっ、秀彦? おはよう。もうすぐ家をでるところだったの。信雅が駅まで送って……』
「澄香。悪いんだが……。今日、会えなくなった」
『えっ?』
 澄香が今どんな顔をしているのか、目に浮かぶようだった。大きな目をよりいっそう大きく見開いて、少し首を横に傾げるのだ。そして薄いピンク色の口元がかすかに開く。まるで自分を誘っているかのように、熱い吐息をもらしながら。
 声を聞いただけで、秀彦の胸の中は電話の向こうの彼女への思いでいっぱいになるのだ。
『ど、どういうこと? 会えないって……』
 澄香のとまどったような声のトーンが、秀彦を一瞬現実に引き戻す。今日会えなくなったと告げておきながらも、自分の腕の中で精一杯応えてくれた先週の夜の彼女を思い、秀彦は身体の奥が熱く疼くのを感じていた。
『ねえ、秀彦。聞いてる?』
「あ……。ごめん。聞いてるよ。今日、急に仕事が入って……。夜中に部長から電話があったんだ。アメリカの取引先のトップがこっちに来てるらしくて。彼らが京都観光をする合間に商談のアポイントが取れたんで、俺の通訳が必要だと言われた」
『そんなあ……。今日は絶対に大丈夫だって。仕事はないって言ってたのに……』
「俺はアメリカの商談には無関係な立場なんだけど。部長に直々に頼まれたんじゃあ、断ることも出来なくて。おまえには申し訳ないと思っている。俺だって会えないのは辛い。明日じゃだめか?」
 秀彦は左手でこぶしを作り、顔を歪める。この一週間、澄香に会えることだけを楽しみに、仕事に向き合って来たのだ。なのに、部長の突然の電話で、すべてが崩れ去ってしまう。
 出来るものなら断りたかった。休日に、それも自分の担当外の仕事であればなおさら、ノーと言っても咎められることはないようにも思われた。
 だが、この大きな商談の場に自分が指名されたことの意義が何であるのか、秀彦は薄々感じ取ってもいたのだ。
 東京本社から出向いてくる上層部の役員に、秀彦の名を知らしめる絶好のチャンスだと部長が判断してくれたこともわかっていた。
 まだ入社二年目の秀彦にとって、選択肢は一つしかないも同然だ。断ることなど、初めから設定されていないのだから。
『わかった……。明日まで、我慢する』
 意気消沈した澄香の声が秀彦の胸にチクリと突き刺さる。自分に会えないことをこんなにも悲しんでくれる彼女が愛しくて、今すぐにでも抱きしめたくなった。でも彼女は、ここにはいない。
『ねえ、秀彦?』
 しばらく沈黙が続いた後、少し明るくなった澄香の声が耳に届く。
「何?」
『その仕事、何時に終わる予定なの?』
「夕方には終わるけど。ただし、夜の接待に同行することになった場合、どうなるかわからない」
『そうなんだ。……わかった』
「澄香、ごめんな。明日は何があっても断るから。もう、こうなったら、クビになってもいいと思ってる」
『秀彦ったら……。あたしだって会社員の端くれだよ。仕事の大切さはわかってる。秀彦はきっと部長さんに期待されてるんだね。がんばってね』
「ああ。ありがとう。じゃあ、明日」
 じゃあねと言って澄香の電話が切れたのを確認して、秀彦は携帯を閉じた。いくら仕事とはいえ、こういうことが重なれば、彼女に愛想をつかされるというのはよく聞く話だ。
 自分ならば仕事よりも何よりも、彼女のことを一番に考えるだろうと、彼らの話を鼻で笑ったものだが、人ごとではなくなったのだ。まさか自分の身にそのようなことが降りかかろうとは思ってもみなかったので、澄香の思いやりのある言葉が心に染み入る。
 明日こそは、彼女の望みをすべて受け入れて誕生日を祝ってもらおうと、秀彦はふっと口元を緩めた。



 秀彦が予定通りに仕事を終えて、烏丸の支店に戻ったのは五時。これならば澄香に会えたかもしれないと思いながら、ぼんやりと携帯を眺める。
 今からすぐに神戸に帰れば、会う時間はまだ十分にあるはずだと突如思い立った秀彦は、意気揚々と帰り支度を整え始めた。
 会社からだと烏丸から私鉄の特急に乗って、神戸に向かうのが手っ取り早い。土曜日なので出勤している人はごくわずかだ。フロアにいる数人の先輩社員にお先にと声をかけ、エレベーターに向かおうとしたその時だった。
「加賀屋くん。ちょうど良かった。実はあなたが部長と出てる間に電話があって。これなんだけど……」
 秀彦の手に一枚のメモが載せられた。
「なんかさ、高校時代の関係者だとか言ってたけど。きれいな声の人だったわよ。私用の連絡って言ってたから、携帯に連絡しなかったんだけどね。ここに書いてある携帯に電話して欲しいって。この近くにいるって言ってたわ。もおっーー。加賀屋くんったら……」
 ほんと、モテモテなんだから……と主任の女性社員に力任せに肩を叩かれ、バランスを崩す。なんとか体勢を立て直し、携帯番号に横に添えられていた片仮名をじっと見る。

 カタギリ。
 秀彦はしばらくの間、その場から動くことが出来なかった。




「秀彦。久しぶりね。会社に電話なんかしちゃって、迷惑だったかしら?」
「いや、そんなことはないよ」
「今日は土曜日だし、会社には誰もいないかなって思ったんだけど、主任さんかしら? すぐに電話に出てくれて。おまけに今日、あなたが出勤してるって言うじゃない」
「ひとみの勘の良さは昔のままなんだな」
「昔のままなのは勘の良さだけ? 体型だって、大学の時とほとんど変わってないのよ。誰にもおばさんなんて言わせない」
「相変わらずだな……」
 秀彦は目の前に座る片桐の自信に満ち溢れた様子に、苦笑いを浮かべる。
「で、今日はどうしたんだ? 何か用なのか?」
「あら、いやだ。何か用がなきゃ、会っちゃいけないの? 秀彦ったら、アドレス変わったの教えてくれないんだもの。こうでもしなきゃ、会えないでしょ?」
「じゃあ、もういいだろ? 俺はもう行くよ」
 錦市場の一角にある古びた喫茶店で落ち着き無く足を組みかえる秀彦は、伝票を手にして立ち上がる。
「待って!」
 片桐の手が、秀彦の伝票を持つ手を押さえ込んだ。
「そうだわ。あなたが大学三年の時、フランス語の速習のテキスト、貸してあげたでしょ?」
「はあ? 俺にやるって言わなかったか? 借りた覚えは無いが」
「これから先、パリに飛ぶことが多くなるのよ。あのテキスト、もう絶版になってるし、返して欲しいの」
「急にそんなこと言われても。こっちにはないぞ。多分……実家だ」
 秀彦は寮のクローゼットの中に押し込んでいるテキストを思い浮かべながら、適当に返事をする。今の秀彦には、こんなところで言い合いをする時間などないのだ。
 今から電車に飛び乗れば、七時には神戸に帰れる。それから澄香に会っても遅くない。

 野球部のマネージャーでもあった先輩の片桐とは、高校時代からの腐れ縁ではある。何かと面倒を見てくれて、テキスト類も譲り受けたりもしていたのだが、まさかこの期に及んで返却を求められるとは思っていなかった。
 秀彦は目の前のフライトアテンダントの真意が全く理解できなかった。
「じゃあ、あたしも今から神戸まで行くわ。秀彦も明日は休みなんでしょ? おばさまにも久しぶりにお会いできるし」
「おい! 何を言ってるんだよ。そんなにあのテキストが大事なのか? なら明日にでも、おまえの会社に送るよ。それでいいだろ? 関空か? 成田か?」
「だめ。今すぐ欲しいの。じゃあ、あたしだけ神戸に行ってくる。おばさまに言えば、探してくれるわよね?」
 秀彦は再び椅子に座り、頭を抱え込む。
「わかったよ。返せばいいんだろ? それを受け取ったら、帰ってくれるのか?」
「どうしてそんなに冷たいの? あなた随分変わった。そりゃあ、昔からあたしにはちっとも興味を示してくれなかったけど、話くらいは聞いてくれたじゃない。朝まで飲み歩いたこともあった。今夜くらい一緒にいてくれてもいいでしょ?」
「なあ、ひとみ。俺にだって人生ってものがある。ちゃんと一緒にいて欲しい人もいるんだ。なのに、おまえといる理由なんてどこにもないだろ?」
「それって、どういうこと? 彼女がいるの?」
 片桐の顔色がさっと変わった。

 
   (HPです。)


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