4.高校二年生 その一
同じ町内に住み小学校も中学校も一緒だったはずなのに、全く意識に存在しなかった秀彦が突然澄香の心に入り込んできたのは、初めて同じクラスになった高校二年の始業式の日だった。
前日にあれほど念入りに確認した提出プリントを見事に家に忘れてきた澄香は、放課後職員室に持ってくるように担任に言われ、ホームルームが終わるや否や部活のジャージに着替えて慌てて自転車で家まで取りに帰ったのだった。
家の下駄箱の上に置いたままにしてあったプリントを無事手にすると、母親のちょっと待ちなさいという言葉も聞かず、また学校に舞い戻ったのは十分後。
澄香は、この時ほど家と高校が近くてよかったと思ったことはなかった。通学定期への憧れも、この日ばかりはどこかへ吹き飛んでしまっていたのだから。
ほぼ同時に忘れ物仲間のクラスの男子も、彼女と同じように息を切らせて職員室に駆け込んできた。
握り締めたプリントを担任に手渡すと、怪訝そうな顔をしたクラスメイトと担任が澄香を凝視する。
「な、なななんですか? あたしの顔に何かついてますか?」
わけがわからず二人の様子を窺うように見ると、クラスメイトは噴出したように笑い出し、学校イチ気難しいという噂の担任までもが、含み笑いをしながら彼女にプリントを突き返す。
「これは、小学校の算数プリントだね。君の弟か妹のプリントのようだけど……」
確かにそこには分数の計算問題が……。
すっかり慌てていた澄香は、下駄箱の上のプリントを取り違えて持ってきていたことに今更ながら気付くのだった。
恥ずかしさと自分への怒りでこれ以上ないくらい真っ赤な顔になり、振り返ることなく職員室から飛び出したのはその直後。
再び家へ舞い戻ろうと学校の門を出たところで、家から彼女を追ってきた母親と出会った。
母親の手には、彼女のお目当てのプリントが。
──ああ、助かった、とホッとしてばかりもいられない。
パートから帰ってきたばかりで疲れているであろう母親に、ねぎらいの言葉をかけるでもなく、サンキューとだけ言ってプリントをつかむと、職員室に引き返す。
今度こそ正真正銘本物のプリントを手にした澄香は、担任のカミナリが落ちる前に大急ぎで提出しなければと、校舎内であるにもかかわらずかなりの速度で駆け抜けていった。
あとひとつ、そこの角を曲がれば職員室というところで、その事故は起きてしまったのだ。
こともあろうに、さっきのクラスメイトと、出合い頭におもいっきりぶつかってしまうという失態をやらかしてしまった。
「いったーーい!」
「ご、ごめん。って、おまえからぶつかったんだろ?」
走っていた澄香の右肩と向かいからやってきたクラスメイトの右胸あたりがちょうどぶつかり合って、前方不注意だった澄香がバランスを崩し、派手に廊下にころがったのだ。
ジャージ姿だったからよかったようなものの、制服だとあきらかにもっと恥ずかしい場面になっていただろう。こけただけならまだしも、おそらく回転レシーブ並に二回転半はころがったのだから。
その人物に手を差し伸べられ、やっとの思いで立ち上がった澄香は、クラスメイトのやけに馴れ馴れしい態度に礼を言うのも忘れ、不信感を募らせる。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
「気をつけろよ。おまえ昔っからそそっかしいところがあったからな。そうだ、さっきは笑ってごめん。クックック……それにしても、おまえっておもしろいな。昔から元気でユニークな奴ってのは知ってたけど、今日のは極上のグッジョブだったぜ。鬼教師の黒川を笑わせたのは、この学校でもおまえが第一号かもな……」
──この人、なんであたしのこと知ってるんだろう? 中学は一緒だったかもしれないけど、同じクラスになったこと、あったっけ?
澄香はますますわけがわからなくなり、頭の中がクエスチョンマークで溢れんばかりになっていた。
──さっきの忘れ物仲間の……えっと誰だっけ? 顔は知ってるんだけど……。
澄香は必死になって、目の前のクラスメイトの名前を思い出そうと、知っている限りの名前を脳内に羅列してみるが、どれも目の前の顔の人物とマッチしない。
額には、変な汗まで流れ出す始末。
とうとう澄香は、もう降参ですと言わんばかりの情けない顔をして、居たたまれなさのあまり、クラスメイトからスッと目をそらした。
「も、もしかしておまえ、俺のこと知らない……とか」
こくりと頷いた澄香にまたもや爆笑している目の前のおとこ……。
「あはは! 信じらんねえ。加賀屋秀彦だよ。小学校五年からずっと一緒だったろ? 確かに途中から俺、日本を出ちゃったけどな。それでも卒業アルバムには載せてもらったし、普通名前くらい知ってるでしょ? マジ?」
──かがや……ひでひこ。そうだ! 確か彼は野球部員で、友人のマキちゃんが最近気になるとか言ってたような……。
ようやく彼の存在を思い出した澄香は、テニス部の後輩もチームメイトもかっこいいとか言ってたあの帰国子女がイコール加賀屋秀彦だと顔と名前が結びついたのだ。
なんか時代劇にでも登場しそうな変わった名前の子……くらいの印象しかなかった彼女は、仲間たちがハートマークの目で彼を語っている時でも自分には関係ないことだと気にも留めてなかったのだった。
名前を思い出すのがあまりにも遅すぎたせいか、立ち止まって考えているうちにいつの間にか目の前にいた加賀屋秀彦はどこかに消え去っていた。
その時の彼の笑顔が、まるで瞬間接着剤で貼り付けたかのように、ピタッと澄香の心にくっついてしまったのだった。
その後の部活は完全に上の空で、友人達の寄り道の誘いも断り、猛ダッシュで自転車を走らせ、ただいまも言わずに自分の部屋に駆け上がる。
そして小・中学校の卒業アルバムを取り出し、加賀屋秀彦を確認したのは……言うまでもない。
夜ベッドの中で、目をつぶると浮かび上がる加賀屋秀彦の笑顔。ぶつかった時の、彼の胸の厚みと弾力性。
次々と湧き上がる彼の一つ一つの行動を思い出すたびにドキドキして、意味もなくいやーんなどと口走る澄香は、そんな自分の豹変ぶりにただただ驚愕する。
──これって、ひと目ぼれ? い、いや、でも昔からなんとなく彼の顔は知ってるし……。ってことは、ふ、ふた目ぼれ?
その日を境に、澄香の高校生活は一転するのだった。
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