番外編 その七
「澄香……。俺、昨日のことは全部夢だったんじゃないかって朝からずっとそう思ってた。でも信じていいんだよな? 俺たちこれからもずっとこうやって一緒に居られるんだよな?」
秀彦のすがるような声が澄香の首筋に熱い吐息とともに降り掛かる。
「本当はおまえを神戸に帰したくなんかないんだ。このまま一緒に朝までここに引き止めておきたい。でもな……外見てみろ」
澄香は秀彦の腕の力が緩んだのを確認して、言われるままに後ろを振り返りレースのカーテン越しに外を見た。
雪だ。
さっきまでやんでいたのに向かいのアパートが見えないくらい降り始めている。
「降ってるね、雪」
今度は向き合う形になって澄香が秀彦の目を見てそう言った。
「ああ。この調子だと、あと一時間も降れば高速道路も閉鎖されるかもしれない。電車だってどうなるか……。帰れなくなるぞ」
「そうだね。でも……。秀彦と一緒なら帰れなくてもいい。ずっとここにいる。明日帰ればいいよ」
澄香は秀彦の胸に顔をつけてためらいがちにそんなことを言ったのだが、声も身体も小刻みに震えているのを秀彦に知られてしまう。
「お袋さん、裏切れる?」
「えっ?」
「ここに泊まるってことがどういうことかわかってる?」
秀彦は自分の胸元で頭をもたせかけて震える澄香の背を撫でながら、髪の上から何度も口付ける。
「おまえのお袋さんに俺なら安心してまかせられるって言われた。つまり俺を信じてるから澄香を頼むってことだろ? なのにおまえをここに引き止めたらどうなる?」
「秀彦……。あたしだってこの先どうなるかってことくらいわかる。秀彦とそうなりたいと……思ってる。あたしも秀彦も、もう子どもじゃない。お母さんの顔色ばかり伺っていたら前に進めないよ」
澄香は秀彦を見上げるようにして、必死で自分の言い分を伝える。
澄香もわかっているのだ。母親の気持ちも、それに応えようとする秀彦の思いやりも。
でも八年越しの片想いがようやく実った今、お互いの想いを確かめ合うためにもここで引き下がるわけにはいかない。
秀彦が澄香の瞳をじっと見つめたあと優しく唇を合わせてくる。
夕べオリオン座の下で交わした口付けと同じように、それはとても柔らかく温かい。
ところがいつの間にかそれは激しさを増し、秀彦の動きが荒々しく変ってきた。
それ以上は澄香も経験の無い未知の世界だった。
そして気付いた時にはさっき座っていたベッドの上に押し倒されて……。
秀彦はこれ以上ないというくらい優しい声で澄香の頬を撫でながら言うのだった。
「こんなに震えて……。寒いばかりじゃないだろ? 俺だってここから先はもう引き返せなくなる。なあ澄香、俺たち、これからもずっと一緒だろ?」
「う、うん……」
「なら何も急ぐことはないよな?」
「……うん」
「なら、今夜はおまえを神戸に帰すよ。怖がらせてごめん……」
尚も澄香の髪に頬に口付けながら秀彦は澄香の返事を待った。
「秀彦……。こっちこそごめん。あたし、何あせってたんだろう。そうだよね。これからあたしたちずっと一緒なんだ……」
「そうさ。もう絶対におまえを離さないから……。このまま今ここで俺の想いを爆発させるのは簡単だけど、それ以上におまえのことが心配だし、何よりもおまえが大切なんだ。ようやく澄香と繋がりあえたこの気持ちを一瞬の高ぶりで無駄にはしたくないんだ」
澄香はベッドから身体を起こし、秀彦に再びしがみついた。
「わかった。ありがと、秀彦。今日はこれで帰るね。雪がひどくならないうちに……。だから……送ってくれる?」
「ああ、そうしよう。今夜はおまえの親父さんも帰ってくるんだろ? 澄香と結婚前提に付き合うってこと、ちゃんと言わないとな。そうすれば堂々と澄香をここに連れてこれるし。続きはそれからだ……よな?」
「ひ、秀彦! 続きだなんて……」
「明日は土曜日だぞ……。チャンスはたっぷり……っておい! いててて……」
まさか秀彦がそんなあからさまなことを言うだなんて……。澄香は、目の前のいまだかつて見たことのないデレデレした秀彦に衝撃を受けていた。
弟の信雅や吉山ならまだしも、秀彦までも?
澄香はおもいっきり秀彦の背中を強くたたいてベッドから飛び降りた。
「おい、澄香。何怒ってるんだよ? 俺何か気に障ること言った?」
「……。自分の胸に手を当ててよーく考えてみることね! あんまりそーゆーこと、はっきり言わないで。あたし、恥ずかしいんだからっ!」
秀彦は澄香のあわてようをようやく理解し、もう一度背を向ける彼女を抱きしめる。
「ごめん、ごめん。ああ、それにしてもおまえ、なんてかわいいんだろう。俺のことどう思ってくれてたのか知らないけど、俺、おまえが思っているより、かなりフツーだから。いや、おまえが恥ずかしいと思ってることばかりずっと考えてる、そんな男だよ。いけないか? 悪いけど、あきらめてもらわないとなあ……」
そして秀彦はくるっと身体を前に向けると、まだ怒っているような澄香のとがった唇に、軽く口付けた。
寮を出た後も雪は降り続き、吹田を過ぎたあたりで京都南インターが雪のため通行止めになったことを知る。危機一髪だ。
神戸に近付くにつれ雪はちらつく程度になり、速度制限も解除された。
澄香は途中車の中で、秀彦と一緒に家に帰ると母親に電話を入れておいた。夕飯も用意しているから早く帰っておいでとはしゃぐ母親の様子に、澄香は多少なりともうんざりしていたが、この後秀彦の口から語られるであろう結婚の話に、彼女の両親がどんなリアクションを取るのだろうと、密かに澄香は心躍らせていた。
右前方に六甲の斜面にきらめく夜景が広がる。それは神戸に戻ってきた合図でもある。
高速道路を降りた後、山側に向ってゆるい坂道を車が上がっていく。
幾分寡黙になっていた秀彦がようやく口を開いた。
「車、実家に置いていくけどおまえはどうする? 先に澄香の家の前で降ろそうか?」
「ううん、一緒に行く。あたし秀彦の家、まだ良く知らないの。だから場所だけでも覚えておきたいし」
「そうなのか? それじゃあ、一緒に行こう」
澄香の家の前を一旦通り過ぎて加賀屋家に向う。
車を車庫に入れた後、荷物を部屋に置きに行った秀彦が、怪訝そうな顔をして澄香の待つ玄関前に出て来た。
「親父もお袋も出かけてるみたいだ。誰もいないよ。食事にでも出てるのかな?」
澄香は少しほっとする。いい大人があいさつもせず立ち去るわけにもいかないから。
「それじゃあ行こう。さあお姫様。参りましょうか?」
秀彦はふざけたそぶりで澄香の手を取り、歩き出した。
澄香の家の前まで来ると、リビングの窓からは灯りが漏れ、賑やかな声が外にまで聞こえていた。
両親以外に誰かいるのだろうか? 澄香は恐る恐る玄関の戸を開け、ただいま、と声を掛ける。
そして出てきたのは……。
「ねーちゃん、お帰り。……っと、先輩、久しぶりっす!」
赤っぽく染めた髪をこれ異常ないくらいツンツン立たせた信雅が照れくさそうに頭の後ろを掻きながら二人の前に立っている。
「信雅。な、なんでここにいるの? いったいどうしたのよ!」
「どうしたもこうしたも……。オカンの命令でオヤジと一緒にさっき帰ってきたところ。先輩、どうぞ入ってください。あ、あの……」
信雅の煮え切らない口ごもった態度を裏打ちするように、リビングのドアのすき間から見慣れない二人が顔を覗かせる。
「おじゃましてます、澄香ちゃん。ヒデちゃん、遅かったじゃない! あたしたちも池坂さんにお招き頂いたのよ」
にっこり満面の笑顔のその二人。秀彦にそっくりな目をして微笑むそのおばさんは……。
「てめーらいったい何やってんだよ! どーりで家にいないと思ったら……ここかよっ!」
秀彦はすでに怒りを通り越し、やってられないとでも言うように小柄な母親と後ろにたたずむとんでもなく紳士な父親を力なく睨む。
この状況を作り出したのは……。澄香の母親の仕業であることは疑う余地もない。
彼女のとんでもなく強引な誘いで皆が池坂家に集合したのは間違いない。
当然澄香と秀彦は、それぞれの両親と澄香の大学生の弟信雅に散々からかわれ、果ては高校生の頃から付き合っていたにもかかわらず、親兄弟をだまし続けていたなどと捻じ曲げられた真実を押し付けられ、なじられる始末。
澄香が何をどう弁明しても、またまたあ、照れちゃって……と、全く聞く耳を持たない年長者たち。
先が思いやられる。これなら今までどおり、こっそりメールをしている方が良かったかも、などとすでに後悔し始める澄香だった。
バレンタインデーの翌日は家族を巻き込んでの大騒動。
そんな中、勇気をふりしぼって澄香の両親に結婚の許可を申し出た秀彦は、この日限りの無礼講とばかりに信雅にさんざん冷やかされていた。
夢のような宴も日付が変る頃終わりを告げ、加賀屋家一行が帰った後、澄香は自分の部屋のベッドの上でとんでもない失態に今ごろ気付くのだった。
──バレンタインチョコ、あげてないよ。秀彦に……。ど、どうしよう。
バレンタインデー当日は無理だったにせよ、遅れてでもあげるべきだったのではと肩をガックリ落とす。
澄香は次の日も、またその次の日もそのことを言い出せないまま、胸の奥にもどかしさを抱えてついにホワイトデーを迎えてしまったのだ。
胸が痛い。
きっと秀彦も澄香にもらえなかったことを、口にこそ出さないが、心のどこかに引っかかっているにちがいない。
三月十四日金曜日の夜、夙川にあるレストランで秀彦と向かい合わせに座り、どことなく居心地が悪そうな澄香がいた。
その時、秀彦が小さい包みを澄香の前にぽんと置いた。
「これ、バレンタインデーのお返し。今日はホワイトデーだろ? ほら、開けてみなよ」
な、なんて? 今なんて言った? 澄香は何かの間違いではないかと目の前の包みをじっと見つめる。
「ねえ、秀彦。あたし……バレンタインデー、何も贈ってないよ。チョコはもちろん、プレゼントも何も……。ごめんね。だから、これを受け取る理由もないんだけど……」
澄香はピンクのリボンのかかったその箱を秀彦の方に押し返す。
「はあ? まあそうかもしれないけど、俺にはこの上ないプレゼントだったんだけどな……。バレンタインのあの夜、おまえは俺の気持ちに応えてくれた。それ以上の何が必要だって言うんだい? 言っとくけど、俺、チョコは苦手だから。チョコより酒の方がいいよ。そして酒より……澄香がいい」
澄香は箱をもう一度自分の方に引き寄せると、胸元で抱きしめて小さくありがとうと言った。
そして大粒の涙がポロポロと頬を伝い、胸元の箱を濡らす……。
帰り道、二人が見上げた空にはやや西に傾いたところにオリオン座がいつもの形で瞬いている。
その時澄香の左手の薬指で、何かがキラリと輝いた。
宇宙の彼方から星のカケラが舞い降りてきて、澄香の指の上でそっと光を紡ぎ出したのかもしれない。
いつのまにかその手が、隣に立つ秀彦の大きな手にゆっくりと包み込まれた。
了 |