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かくれんぼ
作:大平麻由理



番外編  その六


 秀彦の勤務する会社の京都支店は四条烏丸にあり、そこから車で北に二十分ほど行ったところに寮がある。場所は左京区。
 祝日などの観光客が多い日は道が渋滞してもっと時間がかかるのだが、今日は平日の上に寒さが厳しいせいか車が少なく、わりとスムーズに大通りを抜けられたと、秀彦が満足そうに澄香に説明する。
 寮の近くは大学も点在していて、アパートやマンションも比較的多い地区になる。

 こちらも少し降ったのだろうか。芝生や生垣の上に薄く雪が積もっている。幸いアスファルトの上は融けていて運転に支障はない。
「京都の冬は神戸とは比べ物にならないほど寒いぞ。雪もよく降るし、毎年何度か積もることもある。今日の空はなんか怪しいな。この後降るかもしれないから早めに家を出ることにしよう」
 秀彦は澄香のさっきの決心などまるで聞いていなかったかのように雪の心配をしている。
 まだ着いたばかりなのにもう帰りのことまで気にしてるなんて……。
 でも澄香も実のところは、ほっとしていたのだった。泊まってもいいよなどと言っておきながらも、気持ちのどこかで未知の領域に対する不安を抱えたままでいるのは隠せない。

 いくらずっと恋焦がれた相手であったとしても、こうやって二人っきりでこんなに長い時間を過ごしたのは正真正銘、生まれて以来初めてのこと。
 それでいきなり朝まで一緒だなんて、心臓がドキドキしすぎて苦しさと恥ずかしさのあまり途中で白旗を揚げるのは目に見えている。
 夜にはちゃんと家まで送ってもらおう。そう思い直すことでようやく澄香は落ち着きを取り戻すのだった。

 管理人の許可証をもらった秀彦が寮の下にある来客用駐車場に車を停めた。
 秀彦の部屋は二階の東の端にある八畳くらいのワンルームで、作り付けのベッドと机、そして大き目のクローゼットが備えてあるだけのとてもシンプルな部屋だった。
 夕べ主の帰らなかったこの部屋はかなり冷えていて、エアコンの温度表示はたったの九度。
 秀彦は机の上のリモコンを手にするとボタンを押してエアコンを稼動させ、澄香のコートと自分の上着を椅子の背もたれに掛ける。
 そして玄関脇にある小さなミニキッチンに置いてあるコーヒーメーカーをセットしてスイッチを入れた。
 思えば秀彦の一人暮らしは大学時代に遡る。澄香よりよほど家事にも慣れているのだろう。とても手際がいい。
「このレギュラーコーヒーは神戸から持って帰っているんだ。お袋が近所の喫茶店で直接分けてもらってるらしいぞ」
「もしかして喫茶Fじゃない?」
「そうだけど。てことはおまえんちも?」
「うん。父が好きなの。あたしはインスタントでも何でもかまわないんだけどね」
「へえ。じゃあおまえだけこれにする?」
 と言って、御馴染みのラベルがついた瓶入りのインスタントコーヒーを澄香の目の前にぬっと掲げる。
「そ、そんなあ……。あたしも一緒がいい。秀彦ってホントはこんなにイジワルなヒトだったんだ。ヒドイよっ!」
「あははは……。おまえが言ったんだろ? 何でもかまわないって。そんなとこで拗ねてないでベッドに座って待ってろ。出来たらそっちに運んでやるから」
 ほいっ! と言って渡された住宅雑誌を受け取って、澄香はベッドのそばに立ち止まった。
 小説やマンガではよくある彼の家のベッドの上というこの展開に、やや緊張感が増したが、座るところといえばここか床しかない。
 カーペットも何も敷いていない床はひんやりとして、ストッキングしか履いていない澄香の足の裏はすでに氷のように冷たくなっていた。
 そこに直接座るのはどう考えても寒すぎるだろう。
 他の選択肢が無い状況で、澄香は秀彦に言われたとおりベッドに腰を下ろす。
 ついでに足もベッドの上に引き寄せて横座りになって雑誌を広げた。

 ところが必死に文字を追ってみても一向に内容が頭に入って来ない。
 気付けば全く関係のない泉北(せんぼく)枚方(ひらかた)方面のページばかりをめくっている。
 読むのを早々にあきらめた澄香は、コーヒーの準備に忙しい秀彦の後姿をそっと眺めながら、今までメールだけでは知りえなかった彼のいろいろなことを思い浮かべていた。
 車の中のクッションや今のレギュラーコーヒーのこと。
 同じ町内に実家があるのだから、それくらいの合致は珍しくもなんともないと言われるかもしれないが、ほんのちょっとの繋がりが澄香の心の中で大きな喜びに変換されるのだ。
 まだまだこれから明らかになっていくこともあるだろう。

 さっきまで拗ねていたことなどすっかり忘れて、うっとりと秀彦に見とれていた澄香は、彼がカップを手にしてこちらに振り向いた瞬間、あわてて住宅雑誌に視線を戻した。
「飲めよ。寒かっただろ? ここ端部屋だから余計に冷えるんだ。もうすぐしたらエアコンも効いてくるから。なあ澄香……。ずっと俺を見てたろ? 人に見られて嬉しいと思ったのは今が初めてだ」
 ──な、な、なんてこと言うのだろう。私がじっと見てたこと、バレバレだったんだ。恥ずかしすぎる……。
 澄香は今のことは何も聞かなかったことにして、出来る限り平静装う。
 秀彦に手渡されたコーヒーカップを両手で包むようにして持ち、ふうーっとさましながら一口飲んでみた。
 家のコーヒーと同じ味がする。そしてミルクもたっぷり入って……。
「さっき須磨の店でミルクどばーっと淹れたろ? まさかあそこまで淹れるなんて驚きだったけど、それでよかったのか?」
「う、うん。ありがと。とてもおいしいよ」
 冷えていた身体も温まり時折交わす秀彦の優しい視線に澄香の心も徐々に解きほぐれていった。

 秀彦が飲み終えた後もまだはふはふしながら飲み続けている澄香は、池坂家きっての猫舌だ。
「おまえ、おそっ。ちょっと貸せよ」
 そう言って澄香のカップを横取りした秀彦は、ふーっと何度か息を吹きかけて冷ました後、再び澄香に渡した。
「これで大丈夫だろ? これからミルクは冷たいまま淹れた方がよさそうだな」
「あ、ありがと……」
 秀彦に冷ましてもらったコーヒーをごくごくと飲んだ澄香の頬が、これ以上ないくらい赤く染まっていたのは言うまでもない。

 コーヒーを淹れてもらったお礼に今度は澄香が片づけを買って出た。洗うのはカップ二つとコーヒーメーカー周辺の器具を少しだけ。
 数分で終わるだろう……というのは誤算だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
 あと少しというところで突然秀彦に後ろから抱きしめられた澄香は、スポンジを持った手が空中に止まったと同時に、危うく呼吸まで停止するところだった。







   





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