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かくれんぼ
作:大平麻由理



2.ミズナ


 二人が降り立ったビルの五階にあるその店は、昭和の時代にトリップしたような、なつかしい感じのする小料理屋だった。
 店の名前なのだろう。やよい、と流れるような行書体で書かれた文字が印象的な、浅葱あさぎ色の暖簾のれんをくぐり中に入ると、まだ客の姿はどこにも見当たらない。
 カウンター横の壁には、ビール会社のポスターが、ジョッキを手にした女優の笑顔と共にそこに貼り付いていた。テープを貼った後が茶色く変色して、年月の経過を密かに物語る。

 女将だろうか。三十代前半くらいの小柄な色白美人が、忙しそうに手元を動かしながらカウンターの中から仁太に声をかける。
「いらっしゃいませ。まあ、吉山さん。お久しぶりやね」
「ヤヨイさん、久しぶりっす! 年が明けてからは今夜が初めてかな? 今年もがんがん通いますからね」
「まあ、嬉しいわ。でもね、ここにばっかり来ててもええの? 若い人にはもっとふさわし場所がいっぱいあるやろに……」
 そんな二人の親しげなやり取りに、自分だけ蚊帳かやの外におかれたような疎外感を感じた澄香は、仁太の誘いを受けてしまったことに早くも後悔し始めていた。
「あら、今夜はかわいらしいお客様も一緒やねんね。お飲み物は何にしましょか?」
 優しそうな笑顔と人好きのするのんびりとした柔らかい関西弁の話し声とは裏腹に、ヤヨイの手際のよさは天下一品であることが見て取れる。
 澄香の前には、あっという間にはしと小皿が並べられ、次の瞬間には白和えの盛られた小鉢がちょこんと左脇に添えられていた。
「んじゃあ、ビール。池坂は?」
「えっ? ああ、飲み物ね。じゃあ、あたしもビールで」
 言い終わるや否や、もうすでにグラス二個とビールの大瓶が一段高くなったカウンターに差し出され、何お出ししましょ……と、注文まで促される始末だ。
「たこの酢の物と、揚げだし豆腐。あと、今日のオススメで」
かぶのスープ煮やけど、よろしい?」
「うわー。うまそっ! じゃあ、それ二つ。池坂は? 他に何か食いたい物は?」
「そうね。なら、ミズナのサラダとみそ田楽でんがくをお願いしようかな?」
 それを受けて、ヤヨイの顔がぱっと輝いた。
「若い女の子が来てくれるとなんや嬉しいわ。ミズナのサラダは、常連さん、あんまり注文してくれへんからね。この店のミズナは京都から取り寄せてるねん」
「京都から?」
 その地名に反応した澄香は、密かに顔を赤らめた。
 そう……京都。ここ三ノ宮からはJRを使えば新快速で五十分ちょっとで着く。近いのに、澄香にとっては遠い街でもあった。
「シャキシャキして、みずみずしくて、ほんまにおいしいねんよ。京都産のミズナ。特製のごま醤油ドレッシングであえて……はい、どーぞ」
 澄香が京都に思いを馳せている間に、ヤヨイの右手は素早く冷蔵庫のドアを開け、洗って適当な大きさに切られたサラダの材料が取り出されると、みるみるガラスの器に盛られて、ドレッシングが回しかけられる。
 澄香が気付いた時には、もうすでにミズナサラダが目の前に鎮座していたのだ。ごまの香ばしさがほのかに漂い、たとえ箸を付けていなくてもこのドレッシングが澄香の好みであることは、すぐに直感でわかっていた。
 仁太がビールを注ぐ間も澄香は上の空で、危うくグラスが傾き、中身をこぼしそうになる。
「おい、しっかりしろよ。ははは、びっくりしただろ? ほんと早いよな、ヤヨイさんの料理は。そんでもってうまい。俺がここに惚れ込むのわかるだろ?」
 そんな澄香の小さな心の揺れに気付くはずもなく、満足げな仁太が、自分のグラスにもビールを注ぎ澄香のグラスにそれをコチッと合わせる。
「乾杯! 初めてのデートに」
「か、乾杯……。言っとくけど、デートではありません! ただの食事なんだから!」
「なあ池坂、肩の力抜けって。俺がデートだって言ってんだからそれでいいの」
「もう! よかあないわよ。なんでそうやってあたしに絡むかなあ?」
「そりゃあ決まってんだろ? おまえが好きだからさ。ずっと言ってるし」
「だから、あたしは吉山君のこと、何とも思ってないって言ってるでしょ?」
 いつも繰り返されるこのやり取り。初めて仁太に告白された時は、それなりに嬉しくもあった澄香だったが、ただの同期としか思っていない彼女にとってはそれだけのこと。ましてや恋人同士になるなんてことは、たとえ天地がひっくり返ったとしてもありえないと思っている。

 そのうちあきらめるだろうと適当にあしらい続けていたが、結局一年間、ことあるごとに繰りかえされる告白に、そろそろ嫌気がさしているのも事実だ。
「なんで俺じゃあ、ダメなのさ? おまえ誰とも付き合ってないし、暇だろ? ためしに……ってのでもダメ? 」
「だめ」
「そ、即答かよ。なら……。来週の日本海温泉&かにかにツアーは参加するだろ?」
 変わったネーミングだが、これでもれっきとした大手旅行社のコピーなのだから仕方ない。
「うん。だってそれは行かないと、みんなに迷惑かけちゃうしね」
「ちぇっ! その日までにおまえとラブラブになって、みんなに見せ付けてやりたかったのによ」
「何、それ。勝手に妄想しないでよ。そういう吉山君こそ、チサの気持ちにそろそろ応えてあげなさいよ! あたしには到底理解不能なんだけど、チサったら、あなたがいいって言ってるんだからさ」
 澄香と同期の畠元千沙こと通称チサは、仁太に好意を抱いているのだ。
 社内の全部署に澄香の同期は十二人いる。その中だけでも恋愛も含め、さまざまな人間関係が交錯している。世の中どうしてこうもうまくいかないものだろうと大きくため息をついたところで、澄香の携帯がブルルと震えた。
 瞬間、仁太と目が合う。その目はどこか寂しそうで、何か言いたげに彼女をじっと見つめていた。
「……おまえのケータイだろ? 見れば……。畠元が言ってたぞ。おまえ、そのメールの相手に片思いなんだってな?」
「な、何よ。そんなの別に誰だっていいじゃない。どーせ会社の誰かからよ」
 明らかに挙動不審になった澄香は、今着信があったばかりのメールの送信相手だけを確かめるとパタンと携帯を閉じ、乱暴にカバンにしまう。
 そして小鉢の白和えを忙しげに口に運ぶのだった。

 仁太の言ったとおり、その送信相手は、澄香がずっと忘れられない京都の……あの人だった。







   





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