番外編 その一
翌朝、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた澄香は、洗面所の鏡に映る自分の姿に愕然とした。
昨夜泣いていたのが一目瞭然だ。瞼が腫れ、頬も唇もどことなくむくんだ感じになっていた。
夕べ秀彦にタクシーで家まで送ってもらった後自分の部屋にこもった澄香は、寝る間際まで時折涙をこぼしながら秀彦と電話で話していた。
電話を切ってベッドに入ってからも、その日一日あったことをあれこれ思い出しては再び延々と涙を流し続ける。
まさか秀彦も自分のことを思ってくれていただなんて、青天の霹靂としか言いようが無い。これは何かの冗談ではないかなどと本気で思い始めるくらいに、澄香は混乱していたのだ。
秀彦の手のぬくもりや抱きしめられた時の腕の力強さを思い出しては涙ぐみ、そして重なった彼の唇の甘くて柔らかい感覚が蘇るたび……心臓が暴れ出し、おまけに息が止まりそうになる。
そしてまた、再び号泣する……というのを、明け方まで延々と繰り返していたのだ。
澄香は瞼に腫れぼったさを感じながら目覚めた時、やはり夕べのことは夢でも幻でもなく現実に起こったことなのだと改めて思い出し、無意識に指で唇をなぞるのだ。
会社に欠勤の連絡をして、洗面所で顔を洗い瞼を冷やしながら身支度を整えている。
なるべく母親に気付かれないよう、そーっと一階に下りて来たつもりだったのだが……。
「あら、澄香。今日は会社は? 休み?」
どうやら無駄な抵抗だったみたいだ。すぐに気付いた母親が澄香に近寄ってくる。
「う、うん。有給休暇取っちゃった」
「へえ〜。風邪も直ったっていうのに、有給取るなんて珍しいわね。……何か変よ。どうかしたの? 夕べちょっと様子がおかしかったから心配してたのよ。調子悪いの? もしかして、泣いた?」
毎朝変わりなく決まった時刻に起きて家事に勤しんでいる母親にそんな風に唐突に尋ねられ、澄香は面食らっていた。
すべて見透かされているのだろうか。確かに泣いていたのだから否定する理由も無く、澄香は結局素直にウンと頷くはめになる。
「バレンタインデーに何があったか知らないけど、そんな顔して落ち込んでてどうするの……。元気出しなさいな。またそのうち、いいこともあるって!」
などとおもいっきり慰めの言葉をかけてもらい、まるで失恋でもしたかのように丁重に扱われる。
いつもの澄香ならそのまま適当に話を合わせて、とっととその場を去るのだが、今日はこの後の予定を考えると逃げてばかりもいられないぞと、しぶしぶその場に踏みとどまった。
家まで迎えに来ると言った秀彦をどう説明しろと? もう逃げも隠れも出来ない。澄香は一大決心をすると、母親に真っ直ぐ向き直った。
「お母さん、心配掛けてごめん。あたしはすこぶる元気だよ! 昨日、ちょっと嬉しいことがあってね……。夕べ泣いちゃった。へへへ……」
澄香は腫れた瞼を物ともせず、母親に向ってにっこり笑い、そう言った。
母親はますます困惑の表情を浮かべ、澄香の謎の笑みに首を傾げるばかりだ。
「十時になったらちょっと出かけるね。そ、その……。友達がここまで迎えに来てくれるんだ」
「迎えに来てくれるって……。もしかして車で?」
今までの澄香なら、自分で車を運転して友達を乗せていくことはあっても、家まで誰かに迎えに来てもらうなんてことはあまりなかったのだ。
三宮や梅田に出る時は、尚更のこと、車だと駐車場の問題もあるので、もっぱら電車やバスを使うことが多い。
でもここで母親が澄香の期待通りに驚いてくれるのがちょっぴり嬉しかったりもする。
いよいよ話の本題に入らなくてはならない。
澄香は母親から鏡の中の自分に視線を移し、さりげなく、あくまでもさらりとこう言ったのだ。
「うん。カレが車で迎えに来てくれるんだ。ようやくあたしにも春が来たってところかな?」 と。
「へえ、そーなんだ……」
別に驚くでもなく、それ以上何を聞くでもなく……。母親は洗いたての衣類が入ったカゴを持ってテラスに向ったが、きっかりその五秒後、澄香の前に舞い戻って来た。
彼女にそっくりな大きな目をおもいっきり見開いて……。
「ええっ! す、すみか! いったいどういうこと? 彼が迎えに来るって、それに春だって? 何なの、それ」
「お、お母さん。びっくりするじゃない。洗濯物干しに行ったんじゃなかったの? どういうことって……。つまりその……カレが……」
「彼って……。もしかして彼氏が出来たの? 誰よ。一体誰なの?」
「あ、あとで紹介するから。……って言っても、お母さんの知ってる人かも」
澄香が最後まで言い終わらないうちに、母親は興奮状態で尚もまくしたてる。
「澄香のそんな話、生まれて初めて聞くのよね! まぁ〜どうしましょ。私までウキウキ春の気分だわ。知ってる人っていったい誰なの? 会社の吉山さん? それとも大学時代の福永先輩? それとも……。ね、ね、誰? さあ、リビングに行ってちゃんと話しを聞かせてちょうだい! ここは寒すぎるわ!」
母親はありったけの知人男性の名前を並べたあげく澄香の手を引いて、寒冷の地である洗面所から強引にリビングに連行していく。
福永先輩とは、澄香の学生時代のサークル仲間である。
一人暮らしの彼を、日頃お世話になっているお礼にと時々夕食に誘っただけの関係。
もちろん澄香の他の友人も一緒だったのだけど。
少なくとも澄香は彼は恋人ではないと思っていた。いや実のところプロポーズまでされたのだが一笑に付して取り合わなかったという気まずい過去もあるにはある。
こればっかりは秀彦には、いまだに告げられずにいるのだが。
でも事あるごとに母親が探りを入れてきて、澄香が福永と付き合っていると誤解してる時期もあった。
福永が勇み足で、澄香の両親に結婚を匂わすような事を言ったのがそもそもの誤解の始まり。
澄香は先輩と恋愛関係になるなんてこれっぽっちも考えられず、極力そのような話になるのを避けていたので、福永としては取り付く島もない澄香にしびれをきらせて、焦っていたのかもしれない。
卒業後はあきらめたのか、実家の家業を継ぐとかで島根に戻ったきり、音信不通になっている。
そんな過去の福永の名前を出してくる時点で、年頃の澄香にどれだけ浮いた話が少なかったかということを如実に物語っている気がするのだが。
「なんでそんな昔の話になるのよ! そんなわけないじゃない……」
「じゃあ、いったい誰なの? メールしてる人なんでしょ?」
「う、うん。そうだよ。カレがその、あたしのことをカノジョだからって……。す、好きだって言ってくれて……」
澄香は後悔していた。この目の前の興味津々な顔をした母親に、前もって言うんじゃなかったと。
秀彦が迎えに来てくれた時に、軽く紹介すればすんだことなのに。
「でも私が知っている人なんでしょ? 誰かしら……。ということは昔の同級生とか、ご近所の誰か……よね?」
母親は一向にあきらめる気配を見せなかった。それどころか徐々に確信に迫っていく勢いだ。
澄香は観念した。
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