22.もういいかい?
その夜澄香はチサの部屋に泊り込み、何度も缶を掲げて乾杯の音頭をとった。
木戸の婚約に、そしてチサのあさってのバレンタインの二度目の告白に……。
ただし、病み上がりであることは澄香も充分に承知していたので、零時を回った頃にはちゃっかりチサのベッドにもぐりこみ、ぐっすり眠ったのだった。
チサのマンションから会社までは徒歩十分という近さ。八時まで寝ても余裕で間に合う。
たとえ昨日と同じ服で出勤したとしても、みんな心得たもので、澄香ったらチサんちに泊まったんだ、ホント好きだね、お、さ、け……などと朝の挨拶代わりにからかわれるのがいつものパターン。
誰も澄香が別のまっとうな理由で朝帰りするなどとは夢にも思っていないところが少々痛くはあるのだが。
昨日思ってもみない来客に度肝を抜かれ仕事どころの騒ぎではなかった分、今日はかなりしわ寄せが来ているようだ。
普段ほとんど残業をしない澄香も、今日ばかりはそうも言ってられない。
同じフロアの残業仲間五人で近所の店から中華のデリバリを頼み、夕食をとった後も商品受注の伝票の入力や発送の手配などでなかなかデスクから離れられず、家に帰り着いた時はもうすでに真夜中になっていた。
澄香はあまりの疲労感に携帯の充電が切れたままであるのも忘れて、そのまま寝入ってしまったのだ。
そして迎えた運命の二月十四日。
朝の情報番組を見ながら、しまった……と顔をしかめる。
「どうしたの? 仕事のミスでも見つかった?」
コーヒーを飲む手を止めて、澄香の母親が尋ねる。
「あっ、いや……。今日はバレンタインデーだと思ってさ」
「そうね。ついこの前、お正月だったのに。ホント早いわね、月日が経つのって」
と、澄香の真意とはズレたところで、母親が同意の言葉を口にする。
「そうじゃなくて……。あたしさ、お父さんと信雅にチョコ送るの忘れちゃった」
「あら、そうだったの? まあ、別にいいじゃない。風邪で寝込んでたんだし、仕事も忙しかったのでしょ?」
「そりゃあそうだけど……」
いつもやっていることをしないと、どこか物足りないというか、心もとない感じがするのだ。
「それにいつまでも家族ばかりに贈ってたってしょうがないでしょ? チョコレートなんてものは澄香の大切な人に贈らなきゃ意味ないじゃない。前からちょくちょく顔見せてくれる吉山さんだっけ。彼はどうなの? いい人そうに見えるけど?」
朝っぱらからいきなりストレートパンチを食らわす母親に澄香は危うくトーストを喉に詰まらせるところだった。
「ちょ、ちょっと! お母さんったら。吉山君はあたしとは何も関係ないわよ。それを言うならチサの方がよほど……」
「チサさんと? なーんだ、そうだったの。澄香ったら、そうやってぼんやりしてたら、どんどん周りのみんなに追い抜かれていくわよ。澄香はホントに誰もいい人がいないの? ちょっとは信雅と入れ替わってればよかったのにね。そうそう、今日は前に中学でPTA役員してたママさんたちとランチに行くのよ。澄香も知ってるでしょ? 高校も一緒だった加賀屋さん。彼女が車で迎えに来てくれるの。息子さん、京都だっけ? あまり神戸に帰って来ないって、なんだか寂しそうよ。」
母親の口から語られる愛しい人の名前。ただそれだけなのに澄香の心臓はドクドクと大音響で鳴り始め、目の前の母親の顔すら凝視できなくなる。
さっさと仕事に行かないと、いつまでもここにいたら心の奥底まで見透かされそうで……。 澄香は朝食を全部食べ終わらないうちに席を立ち、バッグを手にして玄関に向った。
そして手にした携帯を開いて愕然とする。うんともすんとも言わない真っ暗な画面のそれは、見事ガス欠の様相を呈していたのだった。
会社に着き、仕事用と私用を兼用している携帯の特例で会社での充電が認められている澄香は、慌ててデスクにあるコードに繋ぎ、充電を開始する。
しばらくしてメールの確認をするが、大して重要な用件もなくいつものように仕事を続けるのだが……。
社内の様子がどことなくいつもと違う。
何も変わりないはずなのに、男性社員が妙にハイテンションだったりするのは気のせい?
昼休みになる頃、その理由が判明する。
そうなのだ。今日は泣く子も黙るバレンタインデー。澄香は去年と同様、誰にもチョコは用意していない。
チサはファミリーサイズの大袋入りのチョコをカバンから出し、各デスクに男女関係なく配り始めた。
そして、いかにも義理という地味なオーラーに包まれた手のひらに収まる小さなチョコがあちこちに飛び交うのだ。
と思えば、給湯室の陰で、廊下の片隅で、あるいは非常階段の踊り場で、本命チョコも密かに動きを見せている……らしいのだが。
もう勝手にやってくれとばかりに、午後の仕事も順調にこなした澄香は、昨夜の残業のおかげで定時に会社を出ることに成功したのだ。
今日ばかりは澄香は誰も誘わない。いや、誘えない。きっとチサは仁太に再アタックするだろうし、他の同僚たちもあれこれ忙しそうだから。
澄香は遅れてもいいやと気を取り直して、父親と弟のチョコを選ぶために三ノ宮センター街に繰り出した。
バレンタインデー当日であるにもかかわらず、どの店も盛況で、客足は途絶えない。
センター街のアーケードが途切れると冷たい風が吹きぬけ、どこからともなく雪も舞い始める。
コートの襟を立て、寒さに身を震わせながら、いろいろな店をのぞいてみる。
洋酒の好きな父にはウィスキーボンボン風のがいいかな? 段ボールが山盛りいっぱいになるくらいプレゼント攻めに遭う信雅は、少し値の張るトリュフを二粒くらいでいいか……。
などと考えるうちに、次第に、気分も高揚してくる。
でも……。もしこれが想い人へのプレゼントならば、もっと胸躍る瞬間なのだろうなとも思う。秀彦ならどんなチョコが似合うのだろうか……と。
お腹もすいてきたことだしお気に入りのケーキショップで何かセットメニューでも食べようかと急に思い立ち、生田筋を南に下りていった。
ケーキだけでなく軽食も置いてあるその店は、チサや会社の仲間ともよく行くところ。
ここもご他聞に漏れず、大勢の客が陳列ケースをのぞいていた。
チョコを使ったケーキやクッキーなどが所狭しと並べられ、ラッピング待ちの行列が出来ている。
澄香は人と人の間をすりぬけ、かわいらしい制服に身を包んだ店員に案内されて二人掛けの席に着いた。
そしてサンドイッチとケーキとフルーツが盛り合わせになったプレートを選び、注文をする。
混雑しているので少し時間がかかると言われたが、別に急ぐ用があるわけでなし、いいですよと笑顔で答え携帯を取り出す。
澄香は六年前の四月から欠かさず秀彦にメールを送り続けていたのだが、あろうことか昨日、それを忘れてしまったのだ。
こんなことは初めて。熱があろうと、お気に入りのドラマがあろうと、最優先で送り続けていた秀彦へのメールが初めて途絶えたのだ。
残業が済んで家に帰ってからメールをしようと思っていたのに、気がついたら朝だったという失態をやってしまった上に、今朝の充電ミス。
おまけに木戸のことをどこまで知らせるべきか悩んでいたのもあって、一昨日のメールもほとんど内容のないものになっていたから……今夜こそはとはりきって打ち始めたのだが。
今日はバレンタインデー。もしかしたら秀彦の彼女が札幌まで駆けつけて、二人だけの夜を楽しんでいるのかもしれない。
まあいいか……と、今日の社内でのバレンタイン騒動をかいつまんで知らせる。加賀屋君はチョコをいくつゲットした? などとありきたりの冷やかしの文章も添えて。
送信ボタンを押した後紅茶を一口飲んで、きゅうりのサンドイッチをつまむ。
少し客足が引き、見通しが良くなった陳列ケースを横目で見ながら、よし、あれにしようと帰りに買って帰る親族向け義理チョコの品定めも忘れない。
すると、携帯に着信のランプが……。
メールではなく。それは秀彦から直接の電話だった。
なぜかわからないが、澄香の背筋に緊張が走る。
メールのやり取りに気付いた秀彦の彼女からかも……。もしそうだったらどうしよう。あれこれ澄香の脳裏に不測の事態がよぎって携帯を持つ手が大きく震えた。
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