21.幸せか?
澄香は今、チサのマンションで昼間会社に押し掛けてきた女の子と向き合っていた。
チサを交えて簡単な自己紹介をして、彼女が村下さくらという名前であることを改めて知る。
チサの部屋はクローゼットの他には、ベッドとパソコン、ドレッサーがあるだけのシンプルなワンルームマンションだ。
彼女の実家は神戸の北部と隣接している三田市にあるが、通勤に時間がかかるというのを理由に一人暮らしを謳歌しているのだ。
ラグの敷いてあるフローリングの床にみんなで座り、テーブルの上にはチサが淹れたコーヒーが香りを放ちながら静かに湯気を立てていた。
「さくらさん……。あなたもしかして広島から来たの?」
「はい。そうです」
木戸は九州の福岡にある大学に野球推薦で進学し、そこで教職課程を履修して社会の教員になったというのは、マキの情報で澄香もそれとなく知っていた。
その後、就職は広島で……というのも秀彦とのメールで知らされてはいる。
ただしどれも人から聞いたものばかりで澄香が本人に確かめたものではない。
つまり木戸とは、大学の時にはたまにメールが来ると2〜3行返すという程度のやり取りはあったが、就職してからは、一切音信不通だったのだ。
とっくに二人の関係は終わっているし、目の前の村下さくらと名乗る女の子の言っている意味がいまだに澄香には理解できないでいるのだった。
「それで、あなたの婚約者は……木戸君なのよね?」
「は、はい。でも、先生はこの頃ちっとも会ってくれなくて、電話で話しても楽しくなさそうで……。あたしのこと嫌いになったんだと……思って」
「木戸君、高校の先生?」
澄香は話の流れからいってそうだろうと思い、彼女に問いただす。
「どうしてそんなこと聞くんですか? まさか今更先生のこと知らないとか言うんじゃないですよね?」
「ちょっと待って、さくらさん。あなた何か誤解してない? もちろん木戸君は高校の同級生だし知ってるわ。でも、大学に行ってからの彼のことはほとんど何も知らないし、今は広島にいるってことだけはわかるけど、勤め先がどこなのかは知らないの。ほんとよ」
澄香は、嘘偽りないことを証明するかのようにさくらの目を見ながらはっきりと言い切った。
「で、でも……。先生のケータイにはあなたのアドレスもあったし、あたしと付き合う前にはあなたのことをとても楽しそうに話してた。大学で遠距離になって、会えなくなって……それで二人は別れたんですよね?」
澄香はさくらの話す内容に衝撃を受ける。遠距離も何も、元々付き合ってもいないのに……だ。
「さくらさん。はっきり言っておくわね。あたしは木戸君とはあなたが言うような恋人同士の付き合いは全くなかったの。だから遠距離もないし、別れるとかありえないの。いい?」
「そ、そんな。そうだったんですか? あたし、てっきり恋人同士だったと思ってました」
さくらは驚いて目を丸く見開き、澄香を穴が開くほど見つめる。
「で、さくらさんは木戸君の教え子なの?」
「そ、そうです。一昨年の春三年生になった時、先生があたしのいる高校に赴任して来て、野球部の顧問になって……。あたしはマネージャーやってたんです」
「そうなの……。それで?」
「去年のバレンタインの時にダメもとで先生に告白して、卒業してから先生と付き合うようになったんです」
澄香はこの目の前のおとなしそうなさくらのいったいどこに、そんな行動力があったのだろうと不思議な気持ちになる。
恋は信じられないようなパワーを授けてくれるとでもいうのだろうか。
「そうなんだ。それで、最近木戸君が冷たいからあたしと寄りを戻したんじゃないかって、そう思ったのね?」
コクリと頷いたさくらの頬に、うっすらと赤みが差してきた。
「さくらさん、木戸君のことすっごく好きなんだ」
またもやコクリと頷き、まだ一度も見せたことのない笑顔が少しだけ口元に浮かんだ。
「ねえねえ、さくらさんとやら……」
突然話を割って入ってきたのはさっきまで黒子に徹していたチサだった。
「高校のセンセーってさ、結構忙しいんだよね?」
「は、はい」
「実はさ、あたしの姉もそうなんだけど……。特に三学期は受験や進学なんかがいろいろ重なってすんごく多忙なわけ」
「はい。……そうみたいです」
「ならちょっとくらい冷たくされたからってすぐに浮気とか考えちゃうの、まずくない?」
チサはいつの間にかさくらの手を握って、まるで姉が妹に諭すように話しかけている。
「大丈夫! 彼は浮気してないって。あたしが証明してあげる。この澄香お姉さまはね、昔から大好きな人がいて、ずーーっとウジウジしてんの。いい年してメールだけやって一喜一憂してんだからね。その人のことしか考えてなくて、悪いけどあんたの彼氏には一ミリだって恋愛感情は持ってないのよ。だから心配しなくていいからさ」
「ちょ、ちょっと! チサ。いくらなんでも、それは……」
澄香はたとえそれが真実だとはいえ、さくらに聞かせるには恥ずかしすぎる内容に慌てふためく。
「澄香は黙ってな! さくらさん、彼と澄香にはなーーんもないから。安心しなよ……」
最初はだまって神妙に聞き入っていたさくらだったが、大粒の涙を二粒こぼした後、声をあげて泣き出した。
「ごめんな……さい。あたし、こんなことしちゃって……。ほんとにごめんなさい。澄香さん、前にメール送ったのあたしです。先生のケータイこっそり見ちゃって、あたし、てっきり先生が澄香さんのことまだ好きなんだと思いこんじゃって。本当にごめんなさい……」
さっきのチサののっぴきならない暴言への怒りが、さくらの涙によってどこかに消えてしまった澄香は、こんなに一途でかわいい彼女に愛されている木戸がちょっぴりうらやましくもあった。
その時さくらの携帯が鳴り、まだ涙声のままの彼女が電話に出る。
はい……はい……と頷いた後電話を切ったさくらは、彼がたった今新神戸に着いたところだなどとのたまう。
彼女の母親から行き先を聞いた木戸が、夕方学校を出て新幹線に飛び乗ったということらしい。
チサはやってらんないとばかりに、その辺にあった雑誌をウチワ代わりにして扇ぎ始める。
今はまだ八時過ぎ。広島に向う新幹線はまだ何本かあるので大丈夫だろう。
澄香はチサのマンションを後にすると、さくらを木戸との待ち合わせ場所である市役所前の花時計のところまで連れて行く。
花時計を背に白いダウンを着て立っている背の高い男性を見つけるや否や、澄香の横にいたさくらが駆け寄って行った。
そして軽く抱擁するような形になったあと、木戸は視界のなかに澄香を確認し驚いたように凝視する。
「木戸君、お久しぶり」
「い、池坂……。どうして……。おい、さくら。いったいどういうことなんだ?」
何も事情を知らない木戸は、さくらと澄香を交互に見て、まだ狐につままれたような顔をしておろおろしている。
「ちょっといろいろあってね。そうそう、木戸君。彼女との婚約おめでとう」
「あ、ありがとう。でも、なんで……」
「さくらさん、かわいいわね。木戸君が最近冷たいから寂しいって。じゃああたしはもう行くわ。詳しいことは彼女から聞いてね。それじゃあ、さよなら」
「お、おい……池坂。何が何だか俺にはさっぱり……。とにかくこいつが世話になったみたいで、すまない。君は今、どうなんだ?」
「どうって?」
「……幸せか?」
木戸はさくらをさっきよりもっとしっかり抱きしめるように傍らに寄せながら澄香に尋ねる。
澄香はとびっきりの笑顔で答えた。さくらのためにも、そして自分自身のためにも。
「もちろんよ。とても幸せ。仕事も、恋も、それなりに……ね?」
「そうか……なら良かった。六月に式の予定なんだ。加賀屋にも来てもらうつもりだ。君にも招待状出すよ。じゃあ、また」
澄香は花時計の前に立ち止まったまま、時折振り返るさくらに手を振った。
何年ぶりかに見る木戸の目から、少しだけ昔の熱い視線を感じた澄香だったが、さくらを抱きしめる力強い彼の腕にゆるぎない確かなものを見た気がした。
澄香は近くのコンビニに行き、ビールとつまみを買うと携帯を取り出しチサに電話を掛ける。
「ごめん。引き返してもいい? 今夜は飲みたい気分なの」
『そうこなくちゃ! じゃ待ってるよ』
チサの明るい声に胸がいっぱいになった澄香は、灯りの消えたビルの谷間から覗くオリオン座を見上げ、雪と氷の大地にいるかの人に思いを馳せると、つうーっと涙が一筋、頬を伝うのだった。
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