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かくれんぼ
作:大平麻由理



20.先生に言わないで


 澄香の熱はその後三日間下がらず、週半ばにようやく会社に行けるまでに回復した。
 病院に診察に行くと、もっと早く治療してればこんなにひどくならなかったと注意を受け、母親からは自分の身体の管理が出来ないうちは一人暮らしは認められないと言われ、それはもう、澄香は散々な目に遭っていたのだ。
 会社でも同期のメンバーからカニがどれほどおいしかったか聞かされるたび、悔しい思いを味わわされる日々が続く。
 約束どおり翌日に仁太とチサが澄香を見舞うために土産を持って家に寄ったのだが、二階で澄香が寝ているのをいいことに、階下で澄香の母親と三人でカニすき鍋を囲んだことも、社内では語り草になっている。
 幸い澄香はインフルエンザではなかったのだが、熱が下がって十日以上経った今でも本調子ではなく、時折咳が出て、チサが心配そうに背中をさすっている姿が幾度となく目撃されている。
「ねえねえ、澄香。まだ例のメールの彼からお誘いはないの?」
「コホッ、コホッ……う、うん。コホッ。チサもういいよ、ありがとう……」
「ほんと澄香ったら、こんなにひどくなるまで我慢してるんだから。いくら熱が下がったからって無理しちゃだめよ。はい、のどあめ」
 チサは澄香の背中をさすりながら、咳の発作が治まるまで澄香のそばを離れようとしない。
「ああ、ちょっとましになった。チサにうつらなくてよかった」
「はいはい、なんとかは風邪ひかないっていうからね。でもあいつはしっかり澄香と同じ症状なんだから。あんたたちキスでもしたの? ってくらいにね」
 澄香は仁太の顔を思い浮かべ一瞬ドキッとしたが、あの時は無実だったと自分自身に言い聞かせ、やや顔を引き攣らせながらも、そんなバカな……とチサの肩をポンとたたく。
「チサ……。前に加賀屋君が言ってたでしょ? 話したいことがあるって。いったい何だったんだろうってずっと気になってたけど、最近ちょっと期待感が薄れちゃってるの。もうあたしに言ったことなんて忘れてるんじゃないかなってね」
「あれからずい分経つもんね。まだヒデヒコ君、京都に帰ってないの?」
「うん。札幌の仕事が長引いてるみたい。週末くらいには帰ってこられるかもって……」
「そりゃあ、大変だ」
「何が?」
「何がって、今週の木曜日は大事な日でしょ?」
 そんな大事な日があったっけ? と思案顔になる澄香にチサはあきれすぎてパタッと口を閉ざす。
「チサ……。木曜日って何日だったっけ? 次のプロジェクトの会議かな?」
「澄香、十四日だよ。二月十四日。あたしの振られ記念日。あんたもヒデヒコ君にあげなきゃね、チョコレート。遅れてもいいじゃん!」
「ああ、バレンタインデーか……。あたしには関係ないよ。三重の父と名古屋の弟に送るくらいかな」
 これは本当だった。澄香は義理チョコにすら興味がなく、去年新入社員であるにもかかわらず会社では一切配らなかったくらい徹底している。
「イケメンの弟君も元気?」
「うん、多分ね。正月もバイトだかなんだか言っちゃってさ、帰ってこなくて……。彼女の方が大事なのよね、家族より」 
 五歳年下の澄香の弟は名古屋の公立大に通っている。三重にいる父親とはよく会っているようなので母親も安心しているのだが、澄香と違い非常にモテ体質で、女性から恨みや反感を買わないか心配でならないというのが彼女の密かな悩みだったりもする。
「チョコ、いくつもらうんだろ? そんなモテ男はほっといて、澄香はヒデヒコ君にあげなきゃね。うじうじしてないで、この辺でビシッと決めちゃいなよ!」
「チサ……。だから彼には彼女がいるってわかってるんだよ。あげるわけないでしょ? それよりチサ、あんたは今年も吉山君にあげるの?」
「旅行に行く前はもうあげるのよそうと思ってたんだけど……やっぱあげよかな? なんてね」
「そうこなくちゃ! がんがん押していかなきゃ。もしかして旅行でいいことあった?」
 その瞬間、ポッと頬を染めたチサが恥ずかしそうに小さな声で言うのだ。
「おまえのチョコ待ってるぞ、って言われたんだ。澄香のことはまだ完全にあきらめたわけじゃないみたいだけど、自分の立ち入る隙はこれっぽっちもないってやっとわかったんだって。澄香、ほんとにいい? あたし、吉山が振り向いてくれるまでがんばることに決めたんだ」
「もちろん。応援する……」
 その時だった。澄香たちが食事をしている会議室の内線が鳴る。チサが手を伸ばし受話器を取った。
「はい、もしもし。畠元ですが。……あ、池坂ですね。おります。お待ち下さい」
 チサは受付と言って、澄香に受話器を渡した。
 会社のロビーに受付カウンターがあり、来客があった時などはこうやって呼び出されることもあるが……。
 澄香はこんな時間に人と会う約束もしていないし、この会社に勤め始めてからも、いきなり呼び出されるのは初めての経験なので、少し緊張がよぎった。
「はい、変りました。はい。……はい。ではすぐにそちらに伺います」
 受話器を元に戻した澄香に、チサが何? と目で尋ねる。
「誰か来てるって。村下とか言う人。若い女性らしいんだけど……」
「もしかして、前にあんたが言ってたイタズラメールの人? ヒデヒコ君の彼女とか? ちょ、ちょっと! 大変だよ。修羅場だよ。一緒に行こうか?」
「い、いいよ。大丈夫だって。そうと決まったわけじゃないしね。とにかく行ってみる。もし遅くなるようだったら、のぞきに来て。じゃ」
 澄香はカーディガンのボタンを確認して、背筋を伸ばし、一階のロビーに向った。

 カウンター内には受付担当が二人いる。一人は同期のミユキだ。
 同期一の美人で背もすらっと高く、それでいて気さくな面も持ち合わせた澄香の気の合う友人の一人でもある。
「澄香……あの人。村下さん。仕事関係じゃないって言ってるわ」
 ミユキは、ロビー隅のベンチに腰掛けている女性をそっと指差し、澄香に成り行きを説明する。
「若いわよ。それにちょっと危ない感じ。思いつめてるっていうか……。気をつけて」
 ミユキに背中を押され、澄香は大きく深呼吸してその人の前に向った。
「あ、あのお。池坂澄香さん……ですか?」
 先に声を掛けたのは、肩までのストレートヘアの似合う、和風美人な感じのする切れ長の目をした女の子だった。
 女性と言うにはまだあどけなさが残り、ほとんど化粧もしていない白肌が(けが)れを知らない少女のようで、澄香は少しとまどった。
「む、村下さんですね。あの、よろしかったら、受付横の応接室に行ってお話しませんか?」
「は、はい」
 消え入るような声で返事をしたその子はうつむき加減で澄香の後を付いて行く。
 昼休みに外で昼食を取っていた面々がそれぞれの部署に戻る途中、知り合いにその姿を目撃された。
 どうしたの? と何か言いたげな目をしてすれ違う人たちに澄香はいたたまれない気持ちになる。
 応接室の簡易ソファに向かい合わせに座り、そこに備えてあるポットと急須でお茶を用意して、女の子の前に置いた。
「村下さん。今日はどういったご用件で」
「あ、あの……。す、すみません。こんなところまで押かけてしまって」
「い、いや、それは別に……。あなた、高校生?」
「いえ、短大生です」
 ということは十九かハタチ……などと、澄香は目の前の女の子の年齢を予測して、少しホッとしていた。
 もし高校生だとしたら、この状況は少しヤバイんじゃないかと内心焦っていた澄香は、肩の力を抜き、持ち前の営業スマイルで応対を続ける。
「私に、何か用がおありなんですよね? お聞きしてもよろしいですか?」
「あ、はい。あの、あたし、婚約してるんです」
 澄香の顔が一瞬にして強張った。婚約? 誰と? でも流れから行くとチサの言うように秀彦の婚約者?
「婚約、ですか。それはおめでとうございます」
 澄香はいったい自分が何を言っているのか、さっぱりわけがわからなくなってきていた。
「あ、ありがとうございます。それで、先生があなたをまだ忘れてなくて……その、この先、先生の幸せを考えると、あたしは身を引いた方がいいんじゃないかと思って」
 そう……身を引くの……。って、これはただ事ではないと澄香も意識をしっかり取り戻し、女の子に向って真剣に問いただす。
「ごめんなさい、村下さん。話がみえないんですけど。それに会社で話す内容でもなさそうだし。今日、これから時間あるかしら?」
「はい。もう短大も春休みに入ったので大丈夫です」
「じゃあ、五時半にもう一度ここに来てくれる? その後、場所を変えてゆっくりお話を聞かせて頂戴」
「わかりました。そうします。……でも、この事、先生に……木戸先生に言わないで下さいね。お願いします」
 そう言って女の子は立ち上がり、小さく会釈をして応接室を出て行った。
 澄香は今女の子が言った言葉をもう一度繰り返していた。
 ──木戸先生に言わないで下さいね……。木戸ってあの木戸君? そしてあの子が婚約者?
 澄香は頭の中が混乱していた。そして気持ちを落ち着かせるために、自分で淹れたお茶をごくごくと飲み干した。





  
 



 

 







   





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