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かくれんぼ
作:大平麻由理



19.八度五分


 澄香がうたた寝から目覚めて自分のベッドに入ったのは、深夜の二時ごろだった。
 その後眠りが浅かったのか七時に起床した後もすっきりせず、職場に向う途中も文庫本すら開く気にならなかった。
 けだるさを感じながらもなんとか仕事をこなし、決まった時刻に家に帰る。
 その日は弁当だけでなく栄養ドリンクも夕食に添えてみた。
 そのお蔭か翌日は少し体調がましになったような気がしていたが……。

 澄香の母親は三重に行ったっきりまだ戻ってこない。
 パートを辞めてからは時折まとまった期間、父親の元へ身を寄せることがある。
 インフルエンザにかかった夫の看病という大義名分を掲げて、二日酔いの澄香を半ば置き去りにするように姿を消した母親だが、それもまあ夫婦仲のいい証拠だと、あきらめざるを得ない。
 いつもなら澄香も鬼の居ぬ間に洗濯……と、母親の留守は大歓迎だったりするのだが、体調の芳しくない今回は親のありがたみがひしひしと身にしみるのだった。
 だからと言って少しばかり体調が悪いからと母親を呼び戻すのも、澄香のプライドがそれを許さない。
 そろそろ一人暮らしがしたいと思っている澄香にとって、親に弱みを見せてしまうと、ほーらみろとばかりに、家を出ることに反対されかねない……というリスクを恐れているのだ。
 言うことをきかない身体にムチ打って最低限の家事をこなし、恒例の秀彦とのメールのやり取りをしてベッドに入る。

 ところが最近体調のことだけでなく、澄香にはもうひとつ気がかりがあったのだ。
 ベッドに入った後もそのことが気になり、なかなか寝付けない日もあるくらいに。
 それは知らないアドレスからの意味不明なメール。
 澄香は自分の携帯を仕事用にも兼用で使っているため、登録番号以外の着信拒否設定をしていない。
 なので以前ほどではないにしても、イタズラっぽい内容の迷惑メールも紛れ込むことがある。
 最初はそのメールもそういった(たぐい)のものだと思い気にしていなかったのだが、あまりにも頻繁になり、とうとうこのアドレスを着信拒否にせざるを得なくなったのだ。
 ただその送信者というのがどうも澄香を知っている人物のような気がして不気味さが増長する。
 彼女の名前はもちろん、従事している仕事内容もかなり詳しく知っている様子なのだ。
 でもその相手から伝わるメッセージには、全く心当たりがない。
『彼のことをあきらめてください』だの『アドレスを替えてください』だの。
 かと思えば、『あたしではダメなんです。澄香さんでないと……』とか『先生を捨てないで』とか……。もちろんそれは同一人物から届くのだ。
 もうそれは昼ドラの域を超えるような内容で、とても冷やかしで済まされるようなものではないのだ。
 澄香には付き合っている相手もいないので、嫉妬されること事態どう考えても不自然であるのだが。
 つまりそのメールは恋人をとらないで……とか、あるいは、やっぱりあなたでないと……みたいなニュアンスが繰り返され、文面からは怖いほどの真剣さが伝わってくる。
 澄香はタイミングからいって秀彦関係だろうかとも思っのだたが、女の勘とでもいうべきか、どうもそれも違うだろうと今では確信めいたものを感じているのだ。

その相手が女性であることは容易に想像できるのだが、文体や時折垣間見える小文字の使い方などから、十代後半の女の子のようなイメージが浮かび上がる。
 それと決定打は先生という人物像。
 澄香の身近には先生と称する人間は限られているし、秀彦は先生ではない。
 誰のことなのか皆目見当もつかないが、メール送信者が澄香を三角関係の一角に見据えているのは間違いない。
 見えないシナリオに不安になりながらも相手にする必要もないだろうと拒否設定にして丸一日経った。
 もちろんそれっきりその不可解なメールは姿を消したのだが……。

 明日は土曜日。
 いよいよ会社の同期との親睦旅行を目前にして、ますます重くなる身体を引き摺りながら、澄香はカバンに着替えを詰め準備を整えていた。
 でもその日の身体のだるさは尋常ではなかった。寒気を通り越して悪寒が走り食事もほとんどのどを通らず、そののどにも違和感があった。
 まさか……とは思いながらも、澄香は救急箱から体温計を取り出した。
 子供の頃から使っているデジタル表示のクリーム色の体温計は、瞬く間に電子音を鳴らし、体温を示す。
「はちど……ごぶ……」
 澄香は三十八度五分の熱を確認したとたん、身体じゅうの力が抜け落ちたようになり、這い(つくば)るようにしてベッドにもぐりこんだ。
 もちろんそんな状況の中でも秀彦にメールを送るのだけは忘れない。
 ただし、とても短い。

『ごめん。風邪ひいたみたい。熱があるのでもう寝るね。オヤスミ』
 その後、風邪をひいた時の対処法などをこと細かに返信してきた秀彦のメールに、意識が朦朧としながらも澄香は心癒されるのだった。

 澄香は夢の中で何かを聞いていた。それはよく聞き慣れた音で、とてもリズミカルなもの。
 はい、はい。今行くから……などと夢の中で返事をしている。
 そしてベッドの隅の敷布の下からくぐもったように聞こえる携帯の呼び出し音。
 澄香はようやく目を開けると、そこには見慣れた天井がぐらぐら揺らめいて見える。
 なんとか身体を起こし、携帯を探し出して通話ボタンを押す。
「すみか! 何してるの? 早く出てよ。 あたし、チサ!」
 携帯の向こうで何やら騒がしい声がする。そうだ。チサの声だ……とその状況が呑み込めた瞬間、今もなり続けているのが、インターホンの音であることに気付く。

 澄香は慌てた。部屋の時計を見ると九時を過ぎている。
 そうなのだ。今日は親睦旅行。そして九時に仁太が澄香を迎えにくることになっていたのだ。
「ご、ごめん。すぐに出る……」
 澄香はふらつく身体で立ち上がり手すりを持ちながら階段を下りて、なんとか玄関にたどり着いた。
 少し目の前が黄色い感じになりながらも鍵を開け、チサと仁太の姿を見たのだ……が。
 澄香の記憶もそれまで。
 次に彼女が目を開けた時、そこはすでにベッドの上で、目の前には心配そうな表情の同期仲間の顔がふたつ並んでいた。
「おい、池坂。大丈夫か?」
「澄香……。すごい熱だよ。さっき玄関で倒れて、吉山君と二人でここに運んだの。勝手に上がっちゃってゴメン。ところで澄香のお母さん、まだ留守なの?」
「う、うん……」
 のどが腫れているのだろうか。ほとんど声にならないような掠れた弱々しい返事しか返せない。
「澄香、ここんところずっとしんどそうだったからさあ。無理したんじゃないの?」
「おまえ、我慢強いのもほどほどにしろよ。そうだ。……前の土曜日、ハーバーなんかに行くからだよ。おまえの身体、冷え切ってたろ?」
 などと口走った後仁太は、隣のチサの瞳に炎が燃え盛ったのを見逃さなかった。
「よしやま……。あんた澄香になんかした? なんで身体が冷え切ったとか、わかんのよ? ねえ、なんとか言いなさいよ!」
「あ、そ、それはその……」
「っとに、どうしようもないんだから! 澄香には大事な人がいるんだから、そこんとこ、よーーく考えなさいよ。あああ、なんであたしこんな奴に気持ち傾けてるんだろ。もう今年のバレンタインはあんたに義理チョコすらあげるのよそうかな……」
 去年のバレンタインに仁太に告白して振られたチサは、めげることなく地味にアタックし続けているのだが、澄香に執心な仁太はそんなチサをうまくかわし続けている。
 ただしそんな夫婦漫才のような二人のやり取りにはいっさい険悪なムードはなく、逆に微笑ましいと常日頃澄香はそう思っていたりするのだ。
「ち、チサ。ゴメン。吉山君は、悪く……ないから」
 澄香はありったけの力を込めて二人の(いさか)いを鎮めようと心を砕くが、やはりうまく伝わらない。
「澄香ったら……。こっちこそゴメン。ケンカなんてしてる場合じゃないよね? どうしよう……。みんなも待ってるし、そろそろ行かなくちゃならないよ。澄香、あんたは今回の旅行は無理しなくていいよ。いや、絶対行ったらだめだって! ちゃんと身体直して、それから会社にも来ること! いい?」
 澄香は掛け布団からちょこっと顔を出して、うんと頷く。
「そうだな。あああ……残念だけど、これじゃあ行けないよな。でも畠元。こいつの看病どうするんだ? 親もいないんだろ? こりゃあ一人じゃ、無理じゃねえか? なんなら俺残って看病しようかな……」
「って、あんた何言ってるの。それならあたしが残るわよ!」
「ふ、二人ともありがと。あたしは大丈夫だから……。母に連絡してみる。それにマキもいるし……」
 澄香はできるだけ笑顔を作って二人に言った。
「ほんとにいいの? なんならヒデヒコ君に言ってみなよ。今日、休みでしょ? 京都からならすぐ駆けつけてくれるって」
「チサったら……。そんな冗談ばっかり。彼は今、北海道だよ。それにあたしは彼女じゃないって……」
「ヒデヒコか誰だか知らないけど、池坂の一大事にも知らんフリする奴のことなんて放っておけよ。俺が明日旅行の帰りに寄るからな。だからそれまでじっと寝てるんだぞ。いいな!」
「ありがと、吉山君。チサももう行って。二人ともほんとにありがと……」
「澄香、ゴメン。心配だからさあ、空メールでいいから送ってよ。生きてるかどうかそれだけでもわかれば安心するから。じゃあ……行くね」

 澄香の部屋にあるビンゴ景品を携えて、嵐のように二人が去っていった。
 澄香はそんな二人に感謝しつつ、最後の(とりで)である母親にSOSのメールを送ったのだった。










 

















   





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