1.澄香と仁太
終業の知らせを告げるチャイムが鳴ると同時にデスク回りをざっと片付け、向かいに座る主任に軽く会釈をして会社を出る。
時計を見ればきっちり五時四十分。
澄香は、判で押したような変わり映えのしない毎日に多少の嫌気はさしていていても、この生活から抜け出そうとは思っていなかった。
仕事を家に持ち帰ることもなく、残業もほとんどない。
事務用品を扱うこの会社は、地元の人なら大抵知っているが、もし全国統計をとったとすれば首を傾げる人が八十パーセントは占めるであろう程度の知名度しかない。
たとえ大企業ではなくとも、不景気にも左右されず地道に今の地位を築いてきた功績は、認められて然るべきであると澄香をはじめ大抵の社員がそう思っていて、ある意味優良企業ではあるのだが。
もともと官公庁や教育機関への商品の納入が売上のほとんどを占めていたのだが、昨今の自治体の財政難が影響して注文は年々減っている。
しかしそこでくじけないのがこの会社のすごいところだったりする。
ネット販売に目をつけた上層部の機転で独自性を前面にだし、発展の著しい中国やインドへの需要も見越した方向転換が、功を奏したというわけだ。
年末のボーナスも昨年よりきっちりアップしており、ここでも会社を辞める理由は見つからない。
たとえ平凡な毎日であったとしても、それさえ我慢すれば、ここで働くことに何の支障もないのは容易く証明できる。
もちろん結婚後も仕事を続けている社員は多い。
かといって、澄香に結婚の予定があるわけではないのだが。
澄香は、変化がないことが逆に最高の幸せであるのだと、そうやってどうにか自分を納得させ、寄り道をすることもなくひたすら駅を目指す……のだが。
さっきからなんとなくではあるが、背後に人の気配を感じていた。
誰かに見られているような、後をつけられているような……。
とにかくその得体の知れないモノから少しでも離れようと、歩幅を広げ速度を上げる。
「池坂。いーけーさーかーっ。待てよ!」
池坂澄香、二十四歳。独身。後ろで叫ぶ聞き覚えのある声に、足を踏み鳴らし、立ち止まった。
「……ったく、なんでそんなに逃げ足……いや帰るのが早いんだよ! なあ、今夜こそ付き合ってよ。ね? 軽く一杯でいいから」
澄香の目の前に立ちふさがり両手を合わせて拝む男。吉山仁太、二十四歳。同じく独身。
澄香に入れ込んでもうすぐ二年。食事に誘い続けて一年。ダメ元で澄香に声をかけ、撃沈を繰り返す。
「吉山君。何度も同じこと言わせないで。この後、ちょっと用事があるのよ。悪いけど、あたし帰る」
「わかったよ。わかたから。じゃあ、こうしよう。おまえのその用事とやらが終わるまで、俺、時間つぶしてるから。その後一時間だけ、いや、三十分だけでいいから俺に付き合ってくれ。誘うのも今夜で最後にするから。な? 哀れな吉山に、一度だけ、夢と希望を与えてくれないか?」
──今夜で最後にする? ほんとうだろうか。いい加減誘われることにうんざりしていた澄香は、腕を組み、思案顔になる。
ことごとくこの目の前の男の誘いを断り続けてきたのだが、今夜で最後となると、話しは違う。
澄香は、黒目がちな瞳で、チラッと仁太を盗み見た。
ヒールを履いた澄香と並ぶとあまり違わない身長のこの男は、スーツの上にコートを着ているにもかかわらず、それでもまだ寒いのか冷えた手を口元に持ってゆき、ハーと息をふきかけている。
昨夜雪混じりだった雨が、六甲の山頂付近では完全な雪だったのだろう。
朝、電車の窓から見た山は、空に近い部分が白く輝き、そこだけ雪国を思わせるような光景だったのだ。
今夜もかなり冷えている。整った顔立ちにそぐわない仁太の鼻は、近くのネオンに負けないほど真っ赤になっていた。
滑稽な姿にうかつにも笑みをこぼしてしまった澄香は、あきらめにも似たため息をひとつ漏らすと、仁太に向かって口を開いた。
「じゃあ、今夜だけよ。それも一時間だけならね」
よっしゃーっ! とガッツポーズを決めた仁太は、すかさず澄香の腕を取り、そのまま引きずるようにして三宮駅の北側の東門筋に向かって歩き出した。
「ちょっ……離してよ! 話が違うわ。あたしは先に用事が……」
「んなもん、嘘だろ? 俺の誘い断るための。こんな願ってもないチャンス、俺は逃すつもりはないからね」
いつもふざけてばかりいる男のたまに見せる真剣な目は、どんな一言より効き目がある。
仁太の本気を感じ取った澄香は、ついに観念して抗う事をやめた。
いつの間にか手を繋がれて、緩みっぱなしのでれでれした笑顔を浮かべているこのどうしようもない同期の男と、雑居ビルのエレベーターの中に乗り込んでいたのだった。
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