16.夜の観覧車
「池坂……。いったいどうしたんだよ」
澄香の前に立ち止まった仁太は、何のためらいもなく腕を伸ばし、彼女の頬に伝う涙の跡をそっと指でなぞる。
「おまえさあ、ちゃらちゃらスカートなんか穿きやがって、なんでこんな寒いところにいるんだよ」
「う、うん。ちょっとさ、いろいろあってね。……さっきはゴメン。泣くつもりなんてなかったんだけど、一人でこんなとこいると、なんだか心細くなっちゃって……」
澄香はさりげなく一歩後退し、頬に添えられた仁太の指をかわす。
「それで、畠元に電話かよ。おまえの例の男はどうしたんだよ。今夜一緒だったんだろ?」
「……だから、あたしの男とか、そんなんじゃないんだから。ただのともだ……」
最後まで言い終わらないうちに……。澄香は仁太に抱きしめられていた。
あまりにも突然の仁太の行動に、澄香は、ただ身を任せることしか出来ない。
でも想いの外仁太の胸は、広く温かいことを彼女は知るのだ。
このままもうしばらくこうやって彼のぬくもりに包み込まれていたいとも思ったが、次の瞬間少し身体を引き離され、仁太の目が澄香を見つめた後、次第に彼の顔が近付いてくるのがわかった。
本能だろうか。危険を察知したような信号音が澄香の耳元に鳴り響く。
咄嗟に下を向いた澄香に、仁太は大きくため息をつき、抱きしめていた腕をそっと離した。
「ご、ごめんな。つい、その……」
「あ、あたしこそ……ごめんなさい。吉山君の気持ちはとても嬉しい。でも、その、こういうことは、違うと……思うの」
「わかってるよ。おまえが俺を見てないってことは……。ああー。なんでうまくいかねえのかな。あっ、おまえが悪いんじゃないからな、こればっかりはどうしようもないもんな」
「う、うん。ごめん」
「謝るなよ。もういいって」
二人は微妙な距離を取りながら、優しい灯りに包まれたガス燈通りを並んで歩いて行く。
背後には、そんな二人の心の内を知る由もない観覧車のネオンが、ただひたすら闇夜に光のグラデーションを放ち続けていた。
そのまま神戸駅から電車に乗り、みんなのいる新長田の居酒屋に向った。
そこには澄香の同期が七人ほど集まり、仁太が戻ってくるのを今か今かと待ち構えていたのだ。
土曜出勤の仁太を待っての飲み会は、八時ごろにやっと始まったらしい。
その前からハイペースで飲み始めていたチサは、仁太が顔を出した頃にはもうすっかり出来上がっていて、すでに澄香が声を掛けてもほとんど反応がない。
「あ〜らしゅみかちゃ〜ん。いっらい、どこにいっれらの?……」
タイミングよくチサが顔を上げたと思えば、呂律の回らないままそれだけ言って、またテーブルに突っ伏した。
彼女はこういう場は好きなのだが、本来はめっぽうアルコールに弱いのだ。
吉山が澄香を迎えに行った後も、チューハイをグラス一杯飲み、その後はほとんど意識不明になってしまったという。
一度涙を流した後は、気持ちも幾分すっきりして、澄香の声もいつもの明るさを取り戻していた。
日本酒を皮切りに、その後チューハイを軽く三杯。間にビールも交えながらいつになく酒豪ぶりを発揮した澄香は次第に意識が遠のいていく。
とにかくその日の澄香はいつになく饒舌になり、来週末の親睦旅行の宴会係を率先して引き受け、始終上機嫌だったのだ。
だがこれは翌日、チサに聞かされて、初めて澄香が知ることになるのだが……。
居酒屋を出た後カラオケに行き、元気を取り戻したチサに代わって今度は澄香が撃沈寸前になった。
三宮にワンルームマンションを借りているチサは、とりあえず澄香を自分の家に連れて帰ろうと試みるのだが、聞いているのかいないのか、家に帰らなきゃ……を繰り返すフラフラの澄香に半分お手上げ状態だった。
「俺が送っていく」
そう言って、澄香をひきずるようにしてタクシーに乗せると、同僚達から、
「よっ! 送りオオカミ! 健闘を祈る!」
などととんでもないエールを受けた仁太は、自分の肩にしな垂れかかる澄香の横顔を、複雑な心境で眺めていた。
車の外では、仲間達に羽交い絞めにされたチサが何やら叫んでいる。
「あたしも、行く〜〜!」
「こら、やめとけ、畠元。池坂のことが心配なのはよーーくわかってる。でもな、哀れな吉山にちょっとくらいチャンスをやれよ!」
などと、チサの本心を知らない同僚の心無い叱咤が飛び交う。
自分の周りで何が起こっているかなど何も気付かないまま澄香は、仁太の横でただひたすら眠っていたのだった。
携帯に登録していた住所を頼りに、仁太は澄香の家の前までタクシーを乗りつける。
降りる時になっても澄香の目はまだ閉じられたままだ。
「ちょっとここで待っててもらえます?」
と仁太が運転手に頼んだ後、開いたドアから入り込んで来た真冬の冷気にようやく意識を取り戻し始めた澄香が、目を丸くして隣の人物を見る。
「よ、吉山くん?」
澄香の背中でドアが閉まり、停車している車のエンジン音にやっと自分の置かれている状況が理解出来たのか、おぼろげながらも自分のやらかした失態を思い出し、バツの悪そうな目線を遠慮がちに仁太に送る。
「いろいろあったんだろ? おまえ、何も言わないけどさ……。さっきタクシーの中で、聞いちまったよ」
トクン。と澄香の心臓がひとつ鳴った。いったい何を言たのだろうと、一抹の不安が脳裏をかすめる。
「おまえの男、……ヒデヒコって言うのか?」
「あっ……」
澄香は、もう何も答えられなかった。居酒屋で飲み始めて以降、すっかり意識から消え去っていた秀彦の存在が今新たに呼び戻される。
仁太に支えられながら、中から母親が鍵を開けてくれた玄関に入ると、そのまま一段高くなった廊下に座り込む。
澄香の頭上で、母親と仁太が何やら話しているようだが、もう澄香の耳には何も入ってこなかった。
車の発進する音が聞こえ仁太が帰ったのを知った澄香は、母親の小言も適当に受け流し、力なくトボトボと二階の自分の部屋に向うのだった。
|