15.涙のハーバーランド
それはやはりというか、当然というか、秀彦には彼女がいる……というのをこの会場にいる全員に知らしめた結果となった。
澄香は、隣に座る話題の中心人物に祭り上げられた男をちらりと見た。
グラスには彼自身の手で赤ワインが注がれ、まるでビールでも飲むように、一気にそれを口に運ぶ。
赤ワインで濡れて光る秀彦の紅い唇が、澄香の胸をより一層締め付ける。
テーブルの上に飾られている真紅の薔薇と見まごうようなあの唇が、誰か他の女の名を語り、その誰かを覆い尽くす……のだ。
大学の後輩? それとも会社の同僚……。
そんな風に考えるだけで、ムカムカしてくるのを押さえられないでいた。
決して澄香の名が彼の口から語られることはないとわかっていても、それを心のどこかで望んでいた自分自身がいたことに、澄香は愕然とするのだった。
澄香の脳裏に浮かぶのは、会社の同僚、吉山仁太の顔。彼のように秀彦を慕う職場の女性がいてもなんら不思議はない。
きっと次の同窓会で彼は誇らしげに彼女を紹介するのだろう。
澄香は、もう二度と自分は同窓会に出席することはないだろうと、確信めいたものを感じていた。
隣のマキにちょっとトイレと耳打ちして、座っている場所から立ち上がり、とにかくその場から離れようと試みる。
それに気付いた秀彦が、どうした? と澄香にたずねるが、ちょっと……としか言わない。
迷うことなく手にはしっかりコートを持ち、誰の目からみても、もう帰るのだとわかる格好で、会場を抜け出す。
化粧室に入り、とりあえずメイク直しをして、携帯を取り出した。
マキに身体の調子が悪くなったので先に帰ると伝えるためだ。
会費の徴収はすべて終えて、会計担当の男子に渡してある。鬼クロへの色紙もマキに預けた。
今、自分がここからいなくなっても、もう誰にも迷惑はかけないだろうと、澄香の決心は揺らぐことはなかった。
マキへの送信が終わったと同時に着信ランプが点滅する。
秀彦からだ。
──さっきの言い訳? 澄香は疑心暗鬼になりながらも画面の文字を拾い読む。
『気分でも悪いのか? まさかもう戻って来ないとか?』
そんなことを秀彦が尋ねてくると思ってもみなかったので、澄香はあわてて化粧室内を見渡す。
幸い誰もいない。
『ちょっと頭痛がするの。明日も友達と約束があるから今夜は先に失礼するね。じゃあ』
送信したあと、大急ぎで店を後にした。
誰かが追ってくるとも限らないから……。
神戸の夜は冷える。北野の背後にはすぐ近くに山が迫り、県内の地元球団の応援歌にもあるように、この時期、六甲おろしが吹き荒れるのだ。
その夜も北よりの季節風がいつにも増して強く吹き荒れ、澄香の身体を震わせる。
コートの襟を立て、首をすくめるようにしてイルミネーションが灯る北野坂を駆け下りた。
すれ違うのは腕を組んだ二人連ればかり。
今までにも幾度となく出くわす光景なのに、たった一人で駆け下りる自分がなんだかみじめで、情けなくなる。
それは澄香が今までに味わったことのない例えようのない寂しさだった。
たとえ腕を組む相手がいなくても、秀彦のメールが彼女の心の支えだった昨日までは、羨ましいとも何とも思わなかったのだ。
でも今夜、秀彦の口から直接彼女の存在を聞いてしまった以上、もうメールも続けられないだろうと思っていた。
いや、実際それがあたりまえのことであるし、いつ彼女に知られるともわからない状況で、誤解を招くような言動は極力避けるのが、大人としての最低限のマナーであるというのもわかっていた。
途中、中山手通りの交差点を西向きに曲がり、三宮とは違う方向に歩みを進める。
どこかでこの気持ちを落ち着かせなければ、到底、このまま家に帰ることなどできないと澄香は思っていた。
公共放送局の建物を右手に見ながらトアロードを海側に向って下っていく。
そしてデパート前の交差点を渡り、元町商店街のアーケードをコツコツと靴音を響かせながら西に向って歩いていた。
時計を見ると、九時前。
西に進むほど、シャッターを降ろした店が増え、人通りもまばらになる。
いつしか商店街を抜け、人気のない中央郵便局のビルを曲がった後、ハーバーランドにまで来てしまったことに気付くのだ。
海沿いの遊園地にある観覧車のネオンが、色取り取りのカラーを放ち、夜の幻想的な空間を静かに演出する。
澄香は、モザイクの東側のデッキに立ち、ポートタワーとホテルのライトアップを眺めながら写真と一緒だ、などとなるべく現実的なことを考え、出来るだけ秀彦のことは考えないようにした。
ここで泣くわけにはいかない。
気持ちをしっかり持って、この冷たい北風に今までの秀彦に対する全ての思いを吹き飛ばしてもらうためにも、決して泣くわけにはいかないのだ。
でも、ここでも周りにいるのは、肩を寄せ合う恋人同士ばかり。
澄香は徐に携帯を取り出し、会社の同僚のチサに電話をかけてみた。
今夜は会社仲間で、来週の終末にある同期旅行の打ち合わせを兼ねた飲み会があるはずだ。
今からでも間に合うなら、合流させてもらおうと澄香は期待しながら通話ボタンを押した。『もしもし……池坂?』
「う、うん。そうだけど」
確かに今澄香は、チサの電話番号を表示させて通話ボタンを押したはずだ。なのに……。
『どうした? 同窓会終わったのか? ならこっちに来いよ! 今新長田で飲んでる』
その声は間違いなく、仁太だった。
「吉山……君なの? どうして……? チサは?」
『いるぜ。気持ち良さそうに酔ってやがる。みんなもいるし来いよ。今どこ? 三ノ宮?』
「は、ハーバーランド」
『ハーバー? どうした。なんでそんなところにいるんだよ。おい、池坂、おいっ!』
澄香は、声に出して言おうとしたのだ。ちょっと酔い覚ましに風に当たっているだけ……と。
思いがけない仁太の声に、今まで張り詰めていた物がプチッと切れたと同時に、堪えていた涙が堰を切ったように零れだすのだった。
『おい! 何があったんだよ! 泣いているのか? そこどこ? ハーバーのどこだよ!』
「も、モザイクの……一階東側のデッキの……ところ」
『わかった。絶対そこ動くなよ! すぐに行くから』
澄香は半ば呆然としながら、電話を切った。
──あ、あたし、何を言ってるんだろ。吉山君が来ちゃうよ……。そんなつもりじゃなかったのに。泣いてる場合じゃないのに……。
あわてて涙をぬぐうと、風の当たらない建物の陰に身を潜めるようにして、仁太が来るのを待った。
仁太の気性を知り尽くしている澄香は、彼がすぐにここにやってくるだろうことは簡単に想像がつく。
息を切らせた仁太が、いつものように鼻を真っ赤にさせながら澄香の前に現れたのは、それからきっかり二十分後のことだった。
|