10.卒業の日 その二
クラス四十名中三十五人もの参加で始まった卒業パーティーは、簡単なオードブルとソフトドリンクの乾杯で幕開けとなり、なんと座席中央にはあの鬼教師、黒川の姿まであったのだ。
「頼むからアルコールは飲まんでくれよ。俺の首がとぶからな! はあ……。こんなところまで来るつもりはなかったんだが、まさかこの俺を誘ってくれるとは。ほんとに俺なんかがここにいてもいいのか?」
鬼クロは困ったような、それでいて嬉しそうな顔をして、そんなことを言う。
「センセーのおかげっすよ、俺が卒業できるのも。なので、サンキューです」
クラス内でも一番担任を手こずらせたワルの一人がしおらしく謝辞を言ったりするものだから、鬼クロの目から予想外の大粒の涙が零れ落ちる始末。まさしく鬼の目にも涙だ。
マイクを離さない者、鬼クロのナキのツボを押さえて、ますます調子に乗って泣かせる者、おしゃべりに夢中な女子のグループに、大音量が苦手なのか耳を塞いでいる者まで、どの顔も澄香にとってはかけがえのない大切なクラスメイトだったのだと思うと、こみ上げてくる物で鼻の奥がツンとする。
明日からはもうこのメンバーと会えないのだと思うと、ふと一抹の寂しさがよぎるのも無理はない。
すると、澄香と同じようにクラスメイトとの別れを名残惜しむ者があちこちで声をあげる。
「なあなあ、これからも定期的にみんなで会おうぜ。そーだ! クラス同窓会の幹事を決めよう!」
「それ、賛成! 男は……かがちゃん?」
「んじゃあ、女子はマキ!」
「それいい! かがちゃんとマキで決まりぃー!」
前々から団結力のあるクラスだとは思っていたが、まさかここまでとは。
誰にも文句を言わせないほどのベストセレクションであっという間に幹事が決まった。
もちろん選ばれた二人にするしないの選択権など一切無く、鬼クロの頼んだぞ! の一言で議題は即、可決されるのだ。
で、連絡を取り合うためのアドレス交換がやんややんやの騒ぎで佳境を迎える。
マキが幹事であれば、今更アドレスの交換という間柄でもないわけで、澄香は遠巻きにみんなの騒ぎを眺めることに専念する。
その時、すっとテーブルの上の澄香の携帯に誰かの手が伸びた。
「俺のアドレス登録しとくから……。何かあったら連絡してきて」
瞬く間にアドレスを入力した秀彦が、携帯を澄香の手に載せると再び騒ぎの輪の中に消えていく。
澄香は何度も目をこすった。今見たのは幻? それとも夢?
携帯を確認すると、そこには初めて見る澄香が一番欲しかったものが、英数字となって表示されていた。
聞きたくても聞けなかった秀彦のメールアドレス。
ヨークシャーという地名と数字が組み合わされたそのアドレスは、無駄がなくシンプルでそれでいてひねりが効いているシロモノだった。
でも浮かれるのもここまで。
あくまでも秀彦はクラス同窓会の幹事なのだ。今ここにいるほぼ全員が彼のアドレスを登録したはず。
澄香だけが特別知ったわけではない。
そう思ったとたん、彼女の身体から熱いものが急激に鎮まり、多分これから先送信されることのないだろう新しいこのアドレスにどこか虚しさを覚えるのだった。
予約していた二時間が目前に迫り、カラオケルームの店員が時間切れを告げに来たのは、それから間もなくしてからだった。
二次会に行く人! と高らかに声が上がるが、国公立の二次試験や後期試験を控えている人も多く、半分にも満たない人数の手しか上がらない。
これから先またどこかに繰り出していくのだろうか。
マキにしっかり腕をとられた澄香は、もちろん帰宅組。
「あたしの言うとおりにすればいいからね」
マキは何かを企んでいる目で、澄香の耳元でささやいた。
そうなのだ。さっきマキに背中を押されたあのこと。告白タイムが迫っているのだ。
本当に言えるのだろうか……。澄香の胸は不安でいっぱいになる。告白するぞ! と決心したさっきの勢いはどこへやら。
マキに引き摺られるようにして駅に向う澄香の顔色は、きっとありえないくらいに青ざめているはずだ。
すると、前方の男子グループの方から携帯の着信音が聞こえてくる。
「もしもし……。ああ。う、うん。今終わった。あと五分ほどで、三宮駅。わかった、言っとくよ……」
立ち止まり携帯を耳に当てているのは秀彦だった。そして澄香と目が合う。
「池坂。ちょっといい?」
澄香は何だろうと首を傾げるが、咄嗟にマキは彼女の腕を離すと、秀彦にこの子差し上げますと言わんばかりに押しやる。
「手間が省けてよかった。かがちゃん、この子、煮るなり焼くなりよろしく! ってことで、じゃあね!」
そう言って、何やらヒューヒュー言ってる他のクラスメイトを引き連れて、二人を残したままマキはその場から消え去ってしまった。
澄香は秀彦のちょっといいの意味がわからず、その場に立ちすくむことしか出来ない。
「あっ、ごめん……池坂。その……ちょっとついてきて」
澄香に合わせるように少し歩幅を狭めてゆっくり歩き出す秀彦の後ろをとぼとぼとついて行く。
駅の前まで来たところで立ち止まり、秀彦の曇った顔から信じられない事実が告げられたのだ。
「もうすぐ木戸が来る……。おまえに会って、話がしたいって」
──木戸君? いったいどういうこと? 澄香は秀彦の言っている意味がさっぱりわからないとでも言うように今にも泣きそうな顔をして、食い下がる。
「そ、そんな。加賀屋君も知ってるでしょ? あたし、木戸君とはその……」
「別れたって? そうみたいだな。でもケンカとかしたわけじゃないんだろ? 顔も見たくないほど嫌いになったってわけでも……。あいつ九州の大学行くから、最後におまえに会いたいんじゃないのか? 会ってやれよ……嫌?」
とても秀彦が本心で言っているとは思えなかった。いや思いたくなかった。
別れた? 別れるも何も、そもそも澄香は木戸と付き合っていたとは思っていない。
木戸は二人の関係をそんな風に秀彦に言っていたのだろうか。
「ねえ、加賀屋君。何か誤解してるよ。あたしたち……あたしと木戸君は……」
澄香が震える声で、やっとの思いで秀彦にそう言いかけた時、黒のダウンジャケットを着た木戸が、笑顔を浮かべながら走って秀彦に近付いてきた。
「待たせたか? ごめん。俺のクラスもさっき終わったところ」
「いや、俺たちも今着いたところさ。……じゃあ、俺行くわ」
秀彦が一瞬何か言いたげに澄香を見たが、すぐに踵を帰して一人改札をくぐろうとする。
「ま、待って! 加賀屋君」
すがるような澄香の声に即座に反応した秀彦は、立ち止まり振り返った。
「何? どうした?」
「い、いや……別に。何も。引き止めてごめんなさい。あ、あの……」
澄香のただならぬ様子に秀彦はまた彼女のそばに引き返してきた。
「あの……この後、あたしどうすれば……」
「ははは。そうだよな、俺に呼び止められて、おまけに木戸と二人きりにされて……。おい、木戸。おまえちゃんと責任取れよ。池坂は俺の大事な幼馴染だからな。泣かしたら承知しないぞ」
そう言って、澄香の頭をぐしゃっとかき回し、また改札に向う。
澄香は突然の秀彦の行動にまたもや固まってしまった。
学校ではふいに肩を抱かれ、今また頭をかき混ぜられ……。
手も繋いだことのない秀彦に、澄香の心臓までかき乱される。
「池坂、何かあったらすぐに連絡しろよな。……木戸はおまえが思ってるよりずっといい奴だから。そんじゃあ」
なのに、そんなことを言う秀彦。
海外生活を経験した人にとってはあの程度のスキンシップは日常茶飯なのかもしれない。
木戸はおまえが思ってるよりずっといい奴だから……。その言葉を最後に秀彦が澄香たちの方を見ることは、もうなかった。
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