9.卒業の日 その一
センター試験、私大入試も無事終え、澄香は今、卒業式を迎えていた。
体育館の舞台右寄りには大きな花器に生けられた春の花が厳かに飾られ、中央の演台には燕尾服姿の学校長が、やや緊張した面持ちで生徒一人一人に、卒業証書授与を行なっていた。
音楽教師によるピアノ伴奏で仰げば尊しを歌う頃には、あちこちからすすり泣く声が聞こえてくる。
泣くまいと決めていたのに、真っ赤な目をしてピアノを弾いている新卒の音楽教師の涙に誘われ、最前列の澄香もとうとう涙をこぼさずにはいられなかった。
中学三年の時、死に物狂いで受験勉強をして入ったこの神戸中央高校での三年間は、澄香にとって、それなりに実りあるものだった。
学校での成績はあまり振るわなかったけれど、楽しい仲間に囲まれ、親友にも恵まれた。
そしてなんと言っても秀彦に会えたこと。
顔見知りであったにせよ好きだと思える人に出会えたことは、澄香にとって大きな喜びでもあった。
幸運なことに澄香は、三年生になっても秀彦と同じクラスになれたのだ。
たまにではあるけれど、神様は彼と話をするチャンスも与えてくれた。
先に卒業した野球部マネージャーの片桐との関係も気になりつつ、秀彦に問いただす勇気もないままとうとう今日という日を迎えてしまうのだが。
残念なことに大学は秀彦とは離れ離れになる。
澄香は地元の私立の大学に、そして秀彦は東京の国立大に進学予定だ。
国立大の二次試験はこれからなのでまだ決まったわけではないけれど、噂によれば秀彦はセンター試験の点数を九割近く取ったと言う話だ。
模試の合格判定もAだと言っていたので、東京行きは大方間違いないのだろう。
澄香が秀彦の東京行きを知ったのは、年が明けて一月になってから。
たまたま座席が隣同士だったので、これはチャンスとばかりに、どこの大学受けるの? と尋ねた澄香に秀彦は驚いたようにこう答えたのだ。
「東京のH大だけど? あれ? 言ってなかったっけ」
H大。確かに国内でも最高峰の商学部がある。
「き、聞いてないと……思うよ」
澄香は、なぜか自信がなかった。
秀彦が商学部希望というのは、はっきりと聞いた記憶がある。ただしH大に行くなんてことは聞いていない……はずだ。それも東京に行ってしまうなんて……。
二年の秋に進路調査票を提出した時、彼から聞いたような聞いてないような……そんなあやふやな記憶しかない。
その時、澄香の前に突然野球部のユニホーム姿で現れた秀彦に、嬉しさと緊張感で舞い上がってしまい、彼の言ったことなどほとんど耳に入ってなかったというのが、今もたらされている悲しい結末の原因なのだ。
──もしもっと早く秀彦が東京の大学に行くとわかっていれば、あたしも向こうの大学を受けたのだろうか……などと思ってみても、もう遅い。
「おかしいな。俺、東京に出るつもりだって言ったはずだけどな……。おまえはこっちに残るの?」
「うん」
「そうか……」
それっきり、秀彦はそのことは話さなかった。
澄香は、秀彦の恋人と噂される片桐の進学先までは知る由もなかったが、秀彦が東京行きを選んだ理由のひとつは、彼女が東京の大学にいるからなのかもしれないとも思った。
あくまでも推測の域を出ないものではあるのだが……。
そんな後悔の念も含めて、澄香の涙は滝のごとく次から次へと流れ落ちるばかりだ。結局、仰げば尊しは、ワンフレーズたりとも歌えずじまい。
秀彦と会えるのは、今日で最後になるのかもしれない。
澄香は、この日が来るのをわかっていながらも、彼と会えなくなるなんて思いたくなかったのだ。
でもその時は、着実に一歩ずつ近付いて来る。
瞼を閉じれば思い浮かぶ彼の笑顔が、今となっては苦しみの源でしかない。
足元もおぼつかないまま、マキに支えられるようにして教室にもどった澄香は、すべての卒業式の行程が終わったのを知る。
「それでは君たちに、希望の春が訪れることを祈りつつ、私の卒業の祝いの言葉とさせてもらう……」
鬼教師黒川らしい締めくくりの言葉とほぼ同時に教室内に歓声が沸きあがり、それは撮影大会の始まりの合図となった。
誰彼となくかたまりになってピースサインをしたり、変顔をしたり……とそれぞれの今の高揚した気持ちをフレーム内に形作る。
携帯とカメラのフラッシュの嵐の中、澄香はふいに誰かに肩を抱かれる。意味ありげな視線を澄香に向けながらカメラを構えていたマキが、もっと右! とか、あと少し寄って! と叫び、次々とシャッターを切る。
澄香は、恐る恐る、横の人物を見上げてみた。やっぱり……。彼だった。
夢にまでみた秀彦の腕が澄香をそっと抱き寄せるように包み込み、彼のブレザーが彼女の頬にぴとっと当たる。
その時、背中から回された彼の左手が澄香の左腕を握るように添えられているのがわかった。
最初は恐る恐る掴んでいたその手に次第に力が入り、彼の指ひとつひとつの動きまで身体じゅうで感じることが出来る。
今までに経験したことのないような激しい胸の高鳴りに、なすすべもない澄香だったが、教室内の喧騒はそれをうまく隠してくれる。
ドキドキするのは、回りのみんなが騒いでいるせい。
顔が赤くなるのは、さっき泣いたせい。
震えているのは……寒い……せい。
澄香は、ブレザー越しに伝わる秀彦のぬくもりをこれから先も絶対忘れる事のないようにと、全身で受け止め、心の奥深くに刻み付けるのだった。
一旦家に帰った澄香は、私服に着替え、集合場所である三宮駅北側のデコボコ山に向った。
今からカラオケルームで、クラス全員での卒業の打ち上げパーティーが開かれるのだ。
澄香は、なぜか式以降、始終機嫌のいいマキにとんでもないことを耳打ちされたのだった。
「澄香、チャンスだよ! 今日こそ告りなよ。かがちゃんだって悪い気しないって。あわよくば片桐から奪えるかもよ」
去年の卒業式で、お目当ての水泳部の先輩に告白して見事思いを成し遂げたマキは、自信満々にそんなことを言ってのける。
澄香は、さっきの写真の時以上の緊張感を隠し切れず、マキにすがりつく。
「む、無理。そんなの言えないよ。ダメだって……」
「はいはい、だから心配いらないって。あたしにまかせなさいってば……。あんたたち帰る方向一緒なんでしょ? 他の奴が邪魔しないように、うまく二人っきりで帰れるようにしてあげるから。その時に……ね?」
パーーン!と、マキに思いっきり背中をたたかれた澄香は、少しだけ前向きな気持ちになる。
もう後悔はしたくないというのが本心。自分の気持ちに素直になれば、何かが違ってくるのかもしれない。
たとえ片桐さんという人がいたとしても、告白するのに遠慮なんかいらないはずだ。
ただの噂なのかもしれないし……。
澄香はようやく決心した。秀彦に自分のありのままの気持ちを伝えようと。たとえそれが実を結ぶことがないとしても……。
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