僕はまた、いつも通りに目覚める。
誰かがそれを知らぬとも。彼女がそれに気づかずとも。僕はずっとそこにいるんだ。
* * *
ガチャリとドアが鳴った。もしくは閉まった。
その音が目覚ましになり、僕はベットから沈んでいた身を起こす。
「お帰り」
目にかかる前髪を無視して、優しく微笑む。
だが、彼女はそんな僕に気づいた風もなく自室へと足を運ぶ。僕は立ち上がり、彼女の背を追う。
これもいつも通り。何も変わりない。
彼女は自室に入ると、上着を脱いでそれを丁寧にハンガーへかけた。ドアを閉めるのはその後だから、僕はそっとそこへ入り込む。物音をたてないように、静かに。
実際、僕が音をたてたとしても、その音が彼女の耳に届くはずがないのだが。もし彼女に聞こえたりしたらと考えると、僕には彼女がこわがってしまう気がする。なにしろ彼女は昔から怖がりだったから、目に見えない自分以外の存在は恐怖するはずだ。だから僕は息をひそめ、そっと彼女を見守る。化粧台に向かう彼女を。
多分今日の化粧を落としているのだろう。
僕はその鏡を彼女の後ろからのぞきこんだ。
恐ろしくて、真に受けたくなくて。でもいつも見てしまう、現実という名の鋭いナイフ。それはいつもどおりに僕の胸を容赦なく傷つけ嘲笑うのだ。
―――その鏡に映るのは、一人だけ。
「・・・っ、」
唇を噛み、眼を瞑る。
痛い。
苦しい。
悲しい。
嫌だった。僕は彼女と一緒にずっといたかったんだ。なのに…。
化粧を落とし終えた彼女は、立ち上がり部屋の明かりを消す。
僕という一人がいることなんて知りもしないで、彼女は明かりの消えた部屋の戸を閉めた。
あぁ。この部屋はこんなに暗かったんだ。
僕の頬に、乾ききったはずの涙が伝った。
その後ろで閉められたはずの戸が音もなく開いていた。
帰って来て、化粧を落として、台所について。 それが僕の知ってる彼女の日課だ。
彼女の作った夕食を食べる。これは僕の日課だった。そう。
あくまで過去形。
とんとんとん、といつもの音が僕の鼓膜を震わせた。包丁がまな板を叩き、軽快なリズムを刻む音だ。
僕は調理を始める彼女を一歩離れた場所から眺めていた。
レンジを使おうと、彼女こちらをが振り向く。彼女の瞳が一瞬僕のそれと合った気がしたが、まぎれもない気のせい。彼女の瞳が僕を捉える事なんて決してないのに。なぜいつも僕はそれを期待してしまうのだろう。
僕は、ここにいる・・・。
きゅっと胸を押さえる。そして切なさに手を伸ばした。
こちらに、レンジへと歩み寄る彼女に、そっと。恐る恐る。
ふっ―――・・・・・・
音にするならそんな感じだろうか。
僕の身が彼女を逃した。彼女は僕の体を通り過ぎ、レンジへとまっすぐに向う。彼女の細い髪の毛が、僕の鼻先でふわりと流れた。
なんでだろう。
どうしてだろう。
僕はずっと悩んでいた。
あの日から、毎日毎日こんな日々が続く。
僕が目覚めるのは彼女の帰宅のドアの音。そこから僕の記憶は始まり、そしてまたいつの間にか僕は眠っている。
いつも、いつも。
飽きもせず繰り返す。
同じことの繰り返し。
それに気づいているのに、僕ではこのサイクルから抜け出せない。
行動、発言、悲しみという感情。
全部、毎日が一緒。
彼女がテーブルに食事を並べている。
僕のいない彼女の時間に、二人分の食事。
ずきり
胸が痛んだ。
それとともに迫りくる、焦るような不安。
僕の胸では、悲しみという恐ろしくも可哀そうな感情が暴れていた。
(くる)
そう。そろそろだ。
(くる)
あの時間。
月が泣いたように思えた。
星の瞬きが弔いの歌にも感じた。
一つの色を残して、全てがモノクロとなったあの時間。
(くる)
僕は耳を塞いで、眼を瞑った。
静かな時間。
何かが倒れた。
食器の割れる音。
椅子が倒れる音。
花瓶が床に落ち割れ、そこから溢れ出たような赤い液体。
全てが赤く染まる。
* * *
―――さようなら
僕が見た、悲しい笑顔。
* * *
毎日毎日繰り返される、何一つ変わらない同じ日常。それは言葉の通り何一つ変わらない。彼女の帰りを待ち、彼女の化粧落としを見届け、そこに僕しか映らない鏡を見る。真っ暗な室内で、そこにいるのは僕だけ。電気の点いた部屋は、あくまで彼女の記憶でしかなく、彼女の閉めた戸も記憶でしかなく、実物は消され、また、開け放たれたまま。
はたから見たら、きっと異様な光景だろう。暗い部屋、男が毎日同じ行動を繰り返しているのだから。そして、その男の毎日は同じ時間に終る。 僕の1日の終り。
それは彼女の死。
あの日、彼女は殺された。強盗という名の殺人鬼にこの世界から切り離された。
その時僕は、寝室で熟睡していたから気付けなかったんだ。同じ屋根の下。一緒の場所にいたはずなのに。なのに、気づけななかったんだ。だから強盗も僕には気づかなかった。
嗚呼、なんで気づいてくれなかったんだろう。
後ろから一刺し。
即死。
それは殺された本人も気づけないほどの出来事で、本人が気付けないことをどう僕が気付こうかというのもちょっとした疑問でもあって。けど。だけど。彼女を愛する者として、僕にはこの出来事に気づくべく責任があったんだ。
彼女が現れるようになったのは次の日からだった。
僕とは違う存在になった彼女。
目を疑う僕の前で、彼女はあの日を演じ続けた。そしてそれは今も。
僕が寝ていた時、何があったのか。彼女は僕に伝え続ける。そして、最期には必ず、僕と言う存在に気が付いてくれる―――
確かにその時だけは、「あの日」という次元を超えて、僕の目を見てくれる。僕の心を溶かす、笑顔をくれる。
その唇からは音は出ないが、形は僕にこう伝えるのだ。
―――ごめんね、さようなら
* * *
抱きたくて、…抱きたくて、
ただそっと腕を伸ばす。
僕を慰める君の笑顔。
ああ。君が気付いてくれなくても、僕はまた明日、同じ場所に。
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