6畳3部屋。5階建ての1階。築10年。月5万。
唯一コメントできる事といえば「広い」ということ。俺にとってその場所は普通すぎるほど普通だった。
新しい季節を迎え早四か月。今は8月だ。草々は青々と地面を覆い、その下で沢山の虫が羽根をこすり鳴らしていた。俺の家から見える山は、来た時にはまだ無かった葉が、木々の枝という枝から芽吹き、茶色い地肌も見せない位に一回り上から覆いかぶさっていた。俺は、生まれて20年目のこの夏、山は「夏」という季節には緑に変色し、更に一回り大きくなるということを初めて知ったのだった。
「あっちぃ・・・」
一人のこの家。連休ということもあり、俺は3部屋の内の1部屋で、大の字になり伸びていた。この暑さだ、仕方がない。
汗は肌から地味に滲み出て、この下にある畳はじっとりと湿り気を帯びていた。
「なんなんだよこの暑さ、」
そろそろエアコンを買わなければ。
そう思うものの、俺の財布が口を開けることはなかった。そりゃそうだ。いくら開けようとも中から出てくるものは何もないのだから。
「今日も吹きさらしか」
溜息のような自分の呟きに、俺むなしくなり肩を落とした。
(まぁ、学生の一人暮らし何かこんなもんか。)
うんうんと一人頷き、結果的に得たのは無理やりな納得だった。
夜。俺は窓を開ける。窓という窓を全てだ。
電気を消し、カーテンが風を遮らないようにまとめる。閉め切りの窓ガラスなんかもってのほかで、それを全て網戸へと切り替える。これが俺の「吹きさらし」という言葉が示す意味だ。その「吹きさらし」の効果はなかなかで、自然の風はクーラーなどという電気器具の人工的な涼しさよりも勝る・・・のだろうか。
何とも原始的な涼み方だ、と内心ため息な俺の髪を、夜の透明な風が撫でた。
(はぁ…)
そう。涼しいには変わりがない。
金があろうが無かろうが、別にこれはこれで全然問題はないではないか。昔の人なんか着物という重苦しい布をまとい夏を過ごしていたのだ。それに比べたらパンツ一丁で過ごそうと思えば過ごせる現代ははるかに楽だ。
「そうだな。別にクーラーなんかなくったって、」
・・・本当は欲しいところだが。
苦し紛れに視線を上げれば、万点の星空が俺を待ち構えていた。
良い夜だ。
静かな室内に真上からの物音がひしひしと伝わり始めた。もう上の人が帰ってくる時間らしい。隣の家ではたった今電気が消された。お隣さんは早くも就寝か。
俺はこのご近所にまだ一度も挨拶をしていない。管理人には一応、来てすぐに挨拶したのだが。面倒臭がりの性格が足を引いているのだ。
隣は確か若い夫婦がすんでいて、上は1人。その隣も1人。その階より上となるともう俺の想定外だ。たった5階。されど5階。低い作りのアパートだが、俺の近所付き合いよりは全然広い。3階でもうその住民を把握しきれていない俺の記憶力はピカ一だ。実際一人暮らしだと思っている上と隣も、実際のとこはどうなのか知らない。何しろ本人たちに聞いてたしかめたことはないのだから。
「ははは。まあその内挨拶しにいくか」
その内がいつを指すのかは不明だが。
* * *
ざ、ざ、ざ…
窓を開け涼んでいた俺だが、やっと、いつの間にか耳に馴染んでいた奇妙な音に気付いた。
ざ、ざ、ざ…
俺は耳を済ます。
…足音だ。
そう。多分、相撲取りの摺り足とかいう感じだろうか。簡単にいえば、足を引きずりながら歩いているようなそれ。
ざ、ざ、ざ…
いかにも重たそうに足を引きずり、けど歩は絶対に止めない何か。
ざ、ざ、ざ…
俺は耳を澄ました。
ざ、ざ、ざ…
(ベランダからだ)
ベランダがあるのは今俺がいる部屋の隣の部屋だ。襖を開けっ放しの俺には、窓に背を向けて真後ろを見れば動かなくともベランダの様子を眺めることができる。
(何だ?)
窓から視線を移し、音の元凶を確認せんと後ろを振り向く。振り向くのに躊躇が無かったのは、素直に疑問に思ったからだ。
「………っ!?」
女だ。
髪の長い女。それがなぜ自分のベランダにいるのか、全くの不明。心当たりも無い。
現代という時代の流れを思うと、あの白い着物はとても不自然だ。
下をうつむいた顔を、垂れ下がった長い髪が隠していた。それが変に俺の恐怖心を煽った。
ベランダの窓という限られた四角の中、その女が現れては消える。女はひたすらベランダを往復しているのだ。端から端へ。端に行き着いたら、また反対の端へ。終わりの見えない反復運動をずっと。言葉もなく。この部屋の住民である俺の了承もなく。
ざ、ざ、ざ…
言葉がないのは俺も同じだった。
体が硬直し、動けない。
ざ、ざ、ざ…
ただ女が、「窓」という枠の中に現れては消えるのを眺める。
怖い。
正直にそれを受け入れた時、俺は腰を抜かして床に座り込んでいた。体中の体温が大気へと抜けて、寒いとさへ感じた。
女はそんな俺を無視してさも歩き続ける。
窓枠の外へ消え、その外に続くベランダの壁へと歩き、行き着くとまた来た道を戻る。そしてまた窓枠という画面の中に現れ、反対の枠の外へと消えていく。
端から端へ。
ざ、ざ、ざ…
また、端から端へ。
ざ、ざ、ざ…
終点の無い、無限に続く動作。
ざ、ざ、ざ………ざ
止まった。
足音が消えた。
俺は硬直した体をゆっくり持ち上げた。
どうする。
根拠のない恐怖心を脱ぎ捨てようと、拳を強く握り締めた。
あれが「幽霊」という存在だろうか。俺は頭を振る。そんなはずない。だって、足音がしたということは実態があるということだ。
そうだ。実態があるものを「幽霊」という言葉が示すなら、その「幽霊」という存在は「人間」となんら変わらないではないか。まあ、「幽霊」というものが何なのか、自分には知識も無いし真面目に知ろうとは思わないが。
(とりあえず・・・、確かめるか?)
ごくりと喉が鳴った。
俺は抜けた腰を引きずりながらなんとか窓へ向かう。怖い。怖いが確認しなければ。
震える手を壁につき、網戸のなかから外を覗く。
何も、無かった。
―――良かった。
へなりと床へ腰をつき、安心のため息を漏らす。
ピンポーン
胸を撫で下ろす俺の耳に、インターホンの音が響いた。
まさか。
ピンポーン
またインターホンが鳴る。
物音の消えた室内。何でだろうか。俺は何かを警戒していた。どうせならこのまま居留守を使ってもいい。
「おーい、直人」
その声は俺の警戒という警戒を全て解いた。
…健司だ。
(そう言えばあいつ、今日も泊めてくれとか言ってたっけ)
「おーい、直人」
「あ、あいよ、ちょっと待て」
抜けきってへなへなになった腰に力を入れ、俺はなんとか立ち上がる。慣れ親しんだ友人の訪問に言い知れない安堵を覚えた。
「おーい、直人」
「はいはい、待てっつうの」
鍵を開け、ドアが軋む。
「おーい、直人」
ギィィィ…
「おーい、直人」
ドアは開いた。
「おーい、ナオト」
そいつは正面にいた。
「おーい、ナオト」
「お前人の名前呼びす…ぎ」
俺は目を大きく見開く。
「オーイ ナオト」
ソコニイタノハ
アノ女
「ぅっ、…ああぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!」
* * *
絶叫。狭い階段にびんびんと俺の声が反響した。
「お、おい。わかった、わかったからもういいって」
自分の声で痺れた耳に、届いたのはやはり聞き慣れた友の声だった。
その出所は目の前に立つあの女。混乱して頭の中が真っ白な俺に、目の前の女は身を折り曲げて腹を抱えた。まるで笑ってるかのよう。
「おい、お前、まだわかんないのかよ」
勿論だ。理解できない。
「お前、…くく、ははは、マジウケるし、」
目の前の女。
だがこれは健司の声。
だとすると、
これは、
まさか、
やられた。
ようやく今の現状に俺の頭が回ってきた。それを読んでか女は笑うのを止め髪を「脱いだ」。
その下から現れたのはにやにや笑いを満面にたたえた健司の頭。
「ば、バカじゃねーのお前!!人間やっていいことと悪いことってのがあんだよ!」
顔を真っ赤にして怒っているのは、まんまとこいつにのせられてしまった悔しさと恥ずかしさからだ。
「ははは。安心しろって。今のは俺の中でやっても良い範囲だ」
「お前基準に考えてたらだいたいの凶悪犯罪も許されるっつうの!」
がちゃ
健司の後ろでドアが開いた。隣の若い奥さんが顔を覗かせ恨めしそうにこっちを見ていた。
うるさい。こんな時間によくもまぁ堂々と騒いだものね。
じとりとしたその目はそう言っていた。
健司はお隣さんと合った視線を俺に戻す。
「ま、まあまあ、とりあえず上がれよ。積もる話しは中でゆっくり語ろうじゃないか」
「俺の家だ。お前が言うな」
「まあまあ、」
健司は取り繕うように俺の背を押した。そんな俺等の背をお隣さんの荒い鼻息と勢いよく閉められたドアの音が叱咤した。
「ご、ごめんなさいねー」
俺の家の戸を閉めながら、健司は遠慮気味にお隣さんへと詫びを入れた。閉められたドアへ謝っても意味がない。怒りを抑え切れていない俺は「ふん」と鼻息を鳴らし、わずか四か月ではあるが慣れ親しんだ我が家へと腰を落ち着かせた。
どたどたどた…
「なんだ?」
健司が上を見上げる。
「上の人だろ。夜型なんだよ」
「ふーん。昼型だったにしろ、あの叫び声じゃ起きてて当然だよな」
「誰のせいだよ。いいからささっさと着替えろ」
健司はさも楽しそうに笑うと俺のタンスを勝手にあさり始めた。どうやら自分の服は持ってきてないらしい。
ということは、あのかっこのままここまで来たと言うことか。通りすがりの人はさも驚いた事だろう。
はた迷惑な奴。
* * *
次の日、俺は階段を同じくした住民に粗品を持って謝りに回った。引っ越しの挨拶を兼ねてもあるが、初のちゃんとした顔合わせがこれとは。なんとも情けない。
本当は健司も謝らせたいとこだったが、急用とやらで行方をくらましてしまった。まあ、要するに逃げられたわけだが。仕方ないか。それに、あんなくだらない悪戯に、まんまと騙された俺も悪いのだ。
(これで最後か、)
最後の一つ。本当に粗末な粗品を手に、俺はインターホンを鳴らす。
空の室内にベルの高い音が反響するのが聞こえた。
どうやら上の人は留守らしい。
「あら、」
後ろからの呼び掛けに振り向くと、さっき挨拶したばかりの5階のおばさんがそこにいた。気さくな人らしく、昨夜の絶叫の理由を話した俺を「若い若い」と笑って許してくれた人だ。
「高崎君、そこに何か用事?」
「いや。昨夜の事で挨拶を。さっき来た時も居なかったんでまた来てみたんですが」
これを聞くと5階のおばさんは口を開けて笑い出した。健司といいこの人といい、なぜ皆して俺を笑うのか不明だ。俺にはそう言った才能でもあるのだろうか。人に笑われる才能。きっと世の芸人達は喉から手が出るほど欲しがっていることだろうな。
「高崎君、ここは空き家よ」
「は?」
ぽかんとした俺の顔がそんなに面白かったのだろうか。おばさんは豪快に笑うと、タイムサービスとやらのため速やかに去っていった。
1人残された俺は残された1人分の粗品を見つめた。
なら、毎晩聞こえるあの物音は一体―――
どたどたどた…
今夜も上から物音が響く。
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