身元のわからない浮浪者が死んだ朝だった。
その男の死に顔は安らかで、死後の平穏を祈る身としてはやりやすい。
身元不明というのは正しい言い方ではないだろう。この死者を運んできた者の何人かは彼が何者であるか知っているはずだ。
と言ったところで、私とこの男の間に何の繋がりがあるわけでもなく、仮にこの男が生前は裕福であったとか聖人であったとかいうところで私に何らかの感慨を起こすことはない。何であれ私の役目は変わらない。
夜明け前に運び込まれた死体についての記録を台帳につけると、呼び寄せた人夫二人が到着した。二人がかりで死体に麻布を巻き付ける。
有志よりいくらかの献金が納められたたため、彼は共同の墓穴に放り込まれる。
さもなくば市のワゴン車に積まれて解剖の実験台だとか標本の材料にされるだとかいったあまり嬉しくない用途に活かされる。かといってあの墓穴もいかがなものか。
何らかの理由で毎日人が死ぬ。この過密都市では致し方なくつまるつまらないに関わらずあらゆる理由で人が死ぬ。
今回の死者のように棺に収められないことが大半。棺代わりの粗末な布を巻かれ十数体まとめて埋められる。これらの死者に墓標はない。
そればかりか墓は定期的に掘り起こされ新たな死体を埋める穴を何度も開く。
死者は増えるが墓地の土地は限られている。つまるところ共同墓地とは死者を悼むための墓ではないのだ。
二人がかりで死体を抱えあげ、私を先頭に郊外の墓地へ。教会の扉を開くと何人かの参列者が加わった。
空はくもり模様。雪が降り積もり街は雪景色。天も地も白く境界の曖昧なこと。
吐き出される息も一様に白い。
この死者はゆうべの寒さにやられたのだろう。寒さの死は、生物に穏やかな最期を与えるらしい。気付かないうちに逝けるとか。真偽は当事者にしかわからぬけれど。
午前中、空気がゆるやかに昇りつめていく時間帯。道行く人々が我々の行列を振り返り、目を伏せる。
途中、担ぎ手が交代した。参列者が申し出たのだ。
墓地に辿り着き、門を開く。既にいくつか死体が放り込まれた穴が一つある。
墓穴に放り込む前に私がお祈りの言葉を唱える。俯き神妙に聞き入る参列者達。ひどく茶番めいている気がしてたまらない。
葬儀が済めば参列者達は思い思いの方向へ散っていった。あとには私と二人の人夫、そして死者が残っていた。
「ご苦労だがこの穴を埋めて新しい穴を掘っておくれ。」
毎日人が死ぬので、穴に雪が積もるより先に死体でいっぱいになる。
人夫達は穴に土をかけると、死体の分だけ余った土を隅の方に運んでいった。
寒さが身を刺すような中、作業のために身体を動かす彼らの頬は紅く暑そうに汗を拭う。
することのない私は手持ち無沙汰に墓地を歩いて回った。
墓の一角には栄えた頃の荘厳な墓。指先のかけた天使の彫像が見上げる者に何かを語りかけるよう。
不意に柵の外に赤いものの像が表れた。それは赤いマフラーだった。そしてマフラーを巻いた人物が手を振ったので私は柵に近寄った。墓地は周囲より高くなっているので自然、彼を見下ろす形になった。
「お早ようございます。牧師さん。」
「今日は早起きなのだな。」
「まあ色々ありまして。」
軽口を叩くモスグリーンのコートに身を包んだ若者、ルーク氏が私の背後を覗き込む。
「人死にですか。昨夜の寒波で逝ってしまったのは一人や二人ではないでしょうに。」
「私のところにやって来たのは一人だけだよ。」
「しかし市の衛生係の車を二台見ました。」
ルーク氏は街の裏側に携わっているおかげが街の様子にかなり通じていた。世間話に今朝のことを話していった。
「おや、牧師さん呼ばれていますよ。」
振り向くと人夫のうち一人が呼んでいた。
「では失礼するよ。」
「あとで教会にうかがいます。」
ご招待ですよ、と彼は付け加えると頭を下げて通り過ぎていった。
そしてルーク氏が教会を訪ねて来たときはまだ午前中だった。
「雪が降ってきました。」
挨拶のあとルーク氏が言った。私は傘を差し、ルーク氏にいざなわれて住み処をあとにした。
十分ほど歩いた。でこぼこの石畳の上に雪の粒が落ちて溶けた。
「この辺も再来年には開発が始まることでしょう。区画整理の過程で住まいを追われるものがないよう上の方でも尽力しているようです。」
崩壊した建物を眺めながら相槌を打つ。
やはりこの先に何があっても私の日常は変わらないだろう。人がやってくれば受け入れるだけ。
雑然とした街路を抜ける。ルーク氏のあとについてこの道を歩くのは何度目だろう。数えたこともない。道の先にあるのは小綺麗な集合住宅である。その一室に住む婦人に私は招かれたのだった。
ルーク氏が呼び鈴を鳴らすと家政婦の娘が出て来た。彼女に外套と傘を預けると、応接間に通された。妙齢の婦人が笑顔で私達を歓迎する。ノイマン嬢である。
「よく来て下さいました。お忙しいところわがままを言いました。」
「おはようございます。今日のご加減はいかがでしょう?」
彼女はルーク氏の目上に当たる人物の令嬢である。脚を悪くして家政婦の娘と二人で暮らしていた。
「昼食にはまだ早いですわね。」
「いえ、気になされることではありません。」
出されたものは紅茶と焼き菓子だった。ルーク氏も相伴にあずかる。
長いこと歓談し、昼過ぎに一人退出した。午後に教会を訪ねて来る人がいるかもしれないから。
連なる青く塗られた扉の郵便受けから一様に広告が押し込まれ、雑多に飛び出している。
廊下にこぼれ落ちた一枚を拾い上げた。黄色の紙に印刷された文字は手書きで過激な言葉が綴られていた。主義主張から縁遠いところに身を置く私には到底理解できない事柄だった。
「プロパガンダですね。まあこれだったら安売りの過剰広告のがずっと有り難いです。」
いつの間にやら後ろに立っていたルーク氏が私の手からその広告を取った。
「俺の兄なんかもやってますがね、俺には全く性に合わないです。現状に何の不満もないですし。」
「不満か。」
「まあ歩きながら話しましょう。そうですね、俺が見る限り日常の不満を大きなものにぶつけているようなもんですよ。壁に小石をぶつけても何にもならないのにほかに思い付かないんです。」
灰色になったコンクリートの階段に足をかけた。
「はあ、なるほどね。一理あることだろう。」
「これは愚痴ですけどね、兄というのが俺が手前と同じ用に感じないのを愚鈍であるように言うのが頭に来るんですね。」
私が知る限りでもルーク氏にそんな印象はないのだが。
「俺を阿呆にしなきゃ手前が阿呆ってことになるからいいんです。」
そこで語調を変えた。
「アアすみませんね。身内の話なんかしちゃって。申し訳ついでにもう一つ付き合ってください。」
再びルーク氏に誘われていった場所は市街の中央を抜ける川の岸部だった。
「お嬢さんの処で連絡貰ったんですけどね。どうも心中であるらしいのです。ナニをまったくこんな日にって訳ですが。すみません。生き残った方から事情を聞き出してくださいな。」
傘を傾けて空を見やる。降る雪の量がどんどん増していっていた。
岸部に近寄った。毛布を被せられた女は震え、惨めに縮こまり鳴咽を漏らしていた。
心中の片割れは川の底から引き揚げられ、船底で横たわった死に顔をルーク氏が検分していた。
何とか女をなだめ話を聞くところ、行きずりの関係であり男の方が無理矢理死のうとしたそうである。それは遅い朝のことでそれきり彼の女は岸辺で震えていたのだそうだ。
「ああそれは怖かったでしょうに。」
心にも無いことを口走る自分を悪人だと思う。それでもこのみすぼらしい女の恐怖など想像出来ない。
大体の事情を聞き出すと女をその友人に委ね、ルーク氏にそれを説明する。彼はそんなところだろうと無感動に言った。
「顔見知りなのか。」
「まあちょっとした。」
川の対岸を眺めながら言う。
「もうじき死体を引き取りに役人が来ますよ。一応死因を調べるそうです。」
そして前に垂れ下がったマフラーを跳ね上げて踵を返した。
その日から一週間ばかり経ったあと、ルーク氏は老いた母親とともに姿を消した。
人づてに聞いたところ、あの日川で死んでいたのはルーク氏の兄であったらしい。そう言われると納得できる点がいくつもあったけれど私は気付かなかった。私の仕事は詮索することではないのでそれで構わない。
あれから月日が経ち膨大な日々が記憶の中で曖昧に溶け合っている。取り立てて特別な日ではないというのにあの日だけはっきり思い出せる。
あの日を思い出す目印は、まず朝から身元不明のわからない死体が運び込まれ…。 |