「メモリーエディター」
SFものの短編です。
「博士、ジョーンズ博士!」
廊下を歩いていたジョーンズは後方からの声に振り向いた。
息も絶え絶えに彼に駆け寄ったのは赤毛の男で、同じセクションのロベルトだった。
「博士、お忘れ物です」
彼が差し出したのはジョーンズのPDAだった。
ジョーンズは髪の薄い額を叩き、おどけた調子でそれを受け取った。
「さっきの食事のときか。ありがとう。いかんね、どうも最近うっかりしてて」
「脳科学の権威ともあろう方が物忘れですか」
「医者の不養生というやつだよ」
苦笑しながらジョーンズはPDAを起動した。ロック画面には笑顔の女性と、彼女に抱かれた赤ん坊の写真が映っている。ロベルトはそれを覗きこみ、笑顔でジョーンズに言った。
「奥様ですか?」
「ああ」
「お若いですね、おいくつですか?」
「28だった」
「だった、ですか?」
「ずいぶん前に事故で他界したよ」
するとロベルトは体をこわばらせる。
「それは……その、すいませんでした」
頭を下げるロベルトに、ジョーンズは笑って言う。
「気にしないでくれ。もう昔の話だ……ところで」
ジョーンズはロベルトに向き直った。
「メモリーエディターの臨床試験の結果は?」
ロベルトはその言葉に、手元のファイルに目をおとす。
「良好です。被験者200名のうち、症状の緩和が152名、完全な解消が48名。副作用としての健忘症が現れたのが1名ですが、軽微なものですし、ふたたびメモリーエディターによる治療を行ったら改善しました」
「ふむ。審査会も認めてくれそうだな」
するとロベルトは肩をすくめる。
「認めないわけがありませんよ! メモリーエディターさえあればPTSDやトラウマの治療がずっと楽になるんですから!」
ジョーンズはうなずいた。
「そうだな、もし認めてくれないならば、きっとそれは闇の組織の陰謀だ」
ふたりはどっと笑った。それからジョーンズはロベルトと別れ、研究所の長い廊下をつっきり、第一実験室に入った。
第一実験室にはジョーンズ以外の人間はいなかった。
この研究所は施設としてはそれなりの規模を持っているが、世界中に散らばった研究者たちとネットワークを介して共同研究をしているので、生きた人間の数はとても少ないのだった。
実験室の真ん中にはMRIに似た大きな機材がどんと置かれていて、ジョーンズはそのわきのデスクに腰かけた。
彼は息をつき、ぼんやりと機材を眺めた。機材の側面にはさっきのロベルトとの会話にも出てきた名前があった。
『MEMORY EDITOR Test type』。
脳科学者であるジョーンズが開発した機械だった。この機械は患者の大脳新皮質に微弱な電気を流し、記憶野に干渉する。それにより忘れたい記憶を消去したり、逆に覚えたいことをすぐ覚えることができるのだ。
医学的には戦争、交通事故などによるトラウマの解消や、認知症の改善などが期待され、また電流のパターンから記憶自体を読みとることができるために、犯罪捜査などの面でも活躍が期待されている。
ジョーンズは自身のこの発明に誇りを持っていた。人の記憶を自由に操作するということへの倫理的な葛藤はあったが、妻と娘の事故死が、彼にこの機械を完成させる決心をさせたのだった。
ジョーンズは妻子の死を忘れたかった。
「あぁ……」
ジョーンズは深く息を吐いた。
疲労からくる倦怠感に彼はしばらく天井を仰いでいたが、研究結果のファイルを確認しなければならないことを思い出して、PDAを起動した。
それから数時間、ジョーンズは仕事を続けていた。日が暮れて、研究所の照明が点き、守衛が施設を見回りはじめたころ、ようやくジョーンズの仕事もひと区切りした。彼は背伸びをしてデスクから立ち上がり、自分以外誰もいない実験室を見わたした。
「さて、疲れたな……」
そんなひとりごとを言いながら部屋を出ようとしたとき、ドアをノックするものがあった。
「はい、どうぞ」
入ってきたのはロベルトだった。
「いらっしゃいましたか」
彼はジョーンズに言った。ジョーンズは肩をすくめた。
「この歳になると仕事が遅くてね」
ふたりは笑った。
「何かご用でしょうか?」
ロベルトは言った。彼をこの部屋に呼びつけたのはジョーンズだったのだ。
「その前に訊きたいのだが、君はもう今日の仕事は終わったのかね?」
ロベルトはうなずいた。
ジョーンズは微笑んだ。
「それは良かった。少し話をしないか? 適当に座りなさい。コーヒーでもどうだ?」
ジョーンズは言いながら部屋の片隅のコーヒーメーカーに近づいていった。
ロベルトは彼の様子に少し不自然な印象を受けつつも、近くの椅子を引き寄せてそこに座った。
「砂糖はいくつだったかね?」
「私はふたつです」
ジョーンズはマグカップをふたつ持って戻ってきた。ロベルトは自分の分を受けとり、ひとくち啜った。
ジョーンズも自分のカップに口をつけながら、椅子に座った。
「さて、ロベルトくん」
ジョーンズはカップをデスクに置いた。
ロベルトはやや緊張した様子で彼を見た。
「頼みがあるんだ」
真剣な表情に、ロベルトは居住まいを正した。
「私の記憶を消してくれ」
ジョーンズはそう言った。ロベルトは驚いた。
「いったいどういうことですか」
ジョーンズは両手を開いて、寂しげに笑った。
「私がこの『メモリーエディター』を開発した理由はね、私のトラウマを消すためなのだよ」
「トラウマ……?」
「妻と娘だ」
ジョーンズは額に手をやり、目もとを隠した。ロベルトはその仕草に、彼の耐え難い苦痛を感じとった。
「今でもときどき夢に見るんだ……あの事故現場。私が運転していた車の右半分がペシャンコになって、クレアとメアリが、天井と座席のあいだに、平べったくなって……!」
彼の言葉には嗚咽が混ざっていた。涙こそこらえているようだったが、力のこもった口もとは、それもかなり精いっぱいのことなのだということを示していた。
ロベルトは数分のあいだ葛藤し、とうとう言った。
「わかりました」
背中を丸めていたジョーンズは顔をあげ、ますます泣き出しそうな顔をした。
「博士、協力いたします。ですが……」
「なんだね」
「後悔なさいませんね」
ジョーンズはロベルトの眼を見て言った。
「もちろんだ」
「では早速とりかかりましょう」
ロベルトは立ち上がり、カップを置いて、メモリーエディターへと向かった。
「確認しますが、メモリーエディターにより消去された記憶のデータはプライバシー保護のため自動で削除されますが、それでもいいんですね?」
「ああ」
ジョーンズも立ち上がり、白衣を脱いで準備をはじめた。
「復元は不可能です。本当にそれでもいいんですね?」
「理解しているよ」
「わかりました。消去する記憶の範囲は?」
「事故の記憶だけでいい」
「代替記憶の書き込みは?」
「必要ない。確固たる嘘よりもおぼろげな真実で私は満たされるよ」
「わかりました……メモリーエディター、起動しました」
直後、メモリーエディターが低い唸り声をあげはじめた。ジョーンズはツバを飲み込んで、台の上に仰向けに寝ころんだ。
ロベルトが無数の電極のついた帽子をジョーンズの頭に取りつけて、パソコンを使って微調整を終えた。もう一度各部のステータスをチェックし、ロベルトは最後にまたジョーンズに訊いた。
「やめるなら今が最後ですよ」
ジョーンズは深く深呼吸をした。
「頼む」
ロベルトは頭を下げ、ジョーンズを機械の中に送り込んだ。
機械の中にジョーンズの全身が入ると、入り口の穴が閉まり、中に特殊な催眠ガスが充満した。これにより余計な思考をシャットダウンし、脳波と脳内の電流の流れを正確に計測するのだった。
帽子の電極はジョーンズの脳内マップをものの数分で作成し、記憶に関係する部分の走査をはじめた。その作業もやはり数分で完了すると、目的の記憶に関係する信号パターンを特定し、その電気信号を断つための刺激をどこに与えるべきかの特定をはじめた。
そしてとうとう目的の記憶データを割り出したロベルトは、震える指で『削除』のコマンドを入力した。
メモリーエディターから発信された微弱な電流は脳内マップを書き換え、目的の記憶が思い出されないようにした。ロベルトはもう一度ジョーンズ博士の脳内マップをチェックし、不具合が起きていないことを確認すると、白衣のポケットから記録メディアを取り出して、その中のデータを『書き込み』のコマンドで打ち込んだ。
メモリーエディターから発信された電気信号がジョーンズの頭に新たな記憶を植えつけた。
『完了』のコマンドが打ちこまれた。
目を覚まして上体を起こし、辺りを見渡すと、デスクに突っ伏したまま眠っているジョーンズ博士が目についた。
ロベルトは実験室のソファから立ち上がり、大きなノビとあくびをする。するとその声に反応して、ジョーンズ博士が目を覚ました。
「やぁ、おはよう、ロベルトくん」
「おはようございます、ジョーンズ博士。昨夜は私たち何をしていたんでしたっけ」
「忘れたのか?」
ジョーンズは訝しげな顔をした。
「私の記憶を消してくれたんじゃないか」
「……ああ、そうでした。いけませんね、物忘れして」
「脳科学者が物忘れか」
ジョーンズは笑った。ロベルトも笑った。
「今何時ですかね?」
「朝の7時くらいだな」
「私は朝食を食べにいきますが、ご一緒にどうですか?」
「もちろんだ」
「では行きましょう」
「ああ、だが少し待ってくれ。私は少しだけ事務処理をしなければ。20分で済むよ」
「では、私はその間に顔でも洗ってきますね」
ロベルトはにっこり笑って実験室を出ていった。
ジョーンズはPDAを起動し、その中にメモを書き込んだ。
『実験成功。経過を観察する』
ジョーンズはPDAを閉じ、赤い前髪をかきあげると、愛する妻と娘へ電話をかけた。
おわり
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