No.07 骸の雨に花が咲く
澱んだ大気が唸りをあげて、暗雲から雨を呼んでいる。
呼ばれるのは禍々しき恵みの骸雨。
透明シールドに覆われた哭点観測室で独り、椅子に座りながら無精髭を撫でる僕の前を、人傘達に打ち砕かれた不気味な雨の死骸が、ボトボトと落ちていた。
それは黒い外骨格であり、湾曲した細い脚であり、重油じみた体液と内臓であり、紅い複眼であり、頭部から生えた巨大な角であった。
骸雨に汚され、見る間に黒く染まるシールドと、都市を覆う外殻。
見慣れた光景だ。
だが、受け入れたくない光景でもある。
ため息が喉から溢れた。
「鴻上換装技師長」
僕を肩書き付きで呼ぶ抑揚に乏しい声が、背中越しに耳に飛び込んできた。
瞬間、痛みをともなって胸に湧く複数の感情。しかし、それを消し去ることに僕は慣れている。
僕は髪を撫でながら作り笑いを浮かべ、ゆっくりとした動作で振り向いた。
僕の笑みの先に、少女が立っていた。
全身を科学と鋼鉄に侵食された少女。彼女本来の肉体など、如何程あろうか。
微かに幼さの残る顔に走る、無数の手術痕と装甲板。複合センサーに換装された左目ではなく、彼女本来の黒い右の瞳が僕を射抜いている。
「雨月、メンテナンスは終わったのかい?」
僕の問いに彼女――雨月特殊換装機動兵は頷いた。
「そうか……前回の攻雨は凄まじかったからな。撃墜王の君でも無傷じゃすまなかったから心配してたけど、大丈夫そうだね」
「はい」
無駄のない、それ故に味気ない返事だった。彼女ら人傘に人間味を求めるのは間違いだと分かっていても、僕はいつも期待してしまう。
特に、雨月には。
僕は椅子から立ち上がると、シールドに歩み寄り、静かに右手を添えた。
手の平の向こうで、骸雨がシールド表面を滑り落ちていく。
虫の死骸……に見える。人ほどもある点を除けば。
昼も夜もなく薄暗い空が広がるようになったこの世界で、やつらを『雨』と形容したのは誰が最初なのだろうか。
世界各地の空に開いた無数の黒い孔、哭点。そこから無限に湧き出す暗雲。雲から産み出される異形。
重力に任せて降り注ぎ、硬き角にてあらゆる物を貫き破壊する者達。土に触れると液化して、そこをヘドロ化させるメカニズムは、解明の糸口さえ見つからない。
『雨』を滅ぼす術は、発生から数十年が過ぎた今も見つからず、人類は金属の屋根の下で怯えながら、やつらの猛威を耐え忍ぶより他になかった。
甲殻類に近いやつらの死骸は、積層装甲都市ノアの雨どいを滑り、集積場にて山となって蓄えられ、貴重な資源として利用される。雨どもにより地上のほぼ全てが破壊しつくされた今、食料やエネルギーなどは奴ら自身の死骸を利用する他はなく、人類の殲滅者によって命を繋ぐ現状を皮肉る者は少なくない。
僕は視線を上げ、不気味に蠢く暗雲を見つめた。
雲から黒い点が幾千、幾万も現れ、ノアに降り注ごうとしている。
それが四散する。
ノアと雨の間を飛び交う無数の存在が雨を砕いているのだ。
あれこそ特殊換装機動兵、通称『人傘』だ。人体をベースに構成されており、多数目標への精密な同時攻撃能力と立体的な機動性能に特化した、人類の守護。毒と化した大気に耐性を持ち、脊髄と結合した十六本のマニュピレーターによって強力な重火器を扱う戦闘兵器。
「今日は、どこの隊が出てたかな」
僕の独り言に雨月が答えた。質問されたと捉えたらしい。
「レイニーの部隊です」
僕の歯が強く噛み締められる。
レイニー達は耐用年数超過……そうか。今日は征天作戦なのか。
シールドに添えていた手を握り締め、透明な隔壁を拳で軽く打つ。 空に閃光の花が咲いたのは、それとほぼ同時だった。
黒い雨を砕き、暗雲すら吹き飛ばす光。
目が眩む。だが、目を逸らすわけにはいかない。あれは自分が生み出した者の徒花なのだ。
涙が溢れる。閃光のせいに違いない。
雨月が僕の隣に立ち、同じように同僚の最後を見つめている。
しかし、彼女の唇は別れの言葉を紡ぐことはなく、淀みも感情もない瞳は、涙すら浮かべてはいない。
哀悼の言葉も惜別の涙も、鋼鉄の傘には不要なのだ。
無駄な期待を涙とともに拭い去り、僕は雨月の頬を撫でる。
閃光の華が消え去るまで、僕ら二人は空を見上げていた。
征天作戦により暗雲が一時的に減少したことを受け、忌象機関から、三日間は攻雨の恐れはないと言う通達が全戸に配布された。人々は束の間の平和を享受できる喜びに顔を綻ばせている。
短い平和を得るために払った犠牲など、彼らは考えもしないだろう。
人傘がどのようなものであるかを考えれば、仕方がないことだった。まして、それを非難する権利は僕にはない。人傘を造り出している者は僕なのだ。加えて征天の期間は人傘達を一斉メンテできる絶好の機会でもある。むしろ、都市を護る最大の兵器を常に万端に保つため、耐用年数の過ぎた機体から自爆させて征天という猶予を作り出しているのが現状だ。
生きると言うことは、常に犠牲の上に成り立っている。不変の真理だ。
骸雨から作られた不味い食事を終え、ドックにて人傘達のメンテナンスに取り掛かる。
今日は、先に臨時メンテナンスが終わった雨月と、今日の護衛当番である十五体の人傘を除き、二百三十体全ての人傘にオーバーホールを実行する。人傘の耐用年数を延長するためには欠かせない作業だ。
レイニーが作ったこの時間を無駄には出来ない。僕は部下たちに指示を出し、迅速と正確さを旨に作業を開始した。
各機体の分解が終了し、フレームアライメントにとりかかり始めた頃だ。
忌象庁予報員の女性が僕の下を訪れた。顔色が青く見えるのは、ドックの明かりのせいだろうか。
作業の手を止め、僕は彼女と相対した。
「どうした?」
ドックを見渡し、苦虫を噛み潰す予報員。オーバーホールの光景が気に障るのだろうか。
「……鴻上さん、ちょっと来ていただけますか」
言い終わるより早く、彼女は踵を返した。
声に只ならぬものを感じ、僕は黙って彼女の後を追った。
向かう先が管理局長室だと分かった瞬間、僕は最悪の事態を想定しなければならなくなった。
「来たか」
ノアの最高責任者たる管理局長ウトナピシュティムは、円卓に座り、沈痛な面持ちで僕を迎えてくれた。
他にも防衛司令官、技術局最高顧問、医局医術長、忌象機関長官……各機関トップが席を共にしている。
確信した。
事態は予断を許さない状況に陥っている。
それがどんな状況か解らなくても、事の重大さだけは、部屋に漂う絶望感のおかげで愚鈍な僕にも分かる。
直接の上司たる初老の男性――技術局最高顧問が僕に問い掛けてきた。
「鴻上君。単刀直入に聞く。人傘を半数出動させるのにどれくらいかかる?」
「はっ。オーバーホールを終わらせ、全装備を再装着することも含めまして、半数出動にはおよそ一日かかるかと」
「一日か……」
局長が唸る。他も同様に。
技術局最高顧問は質問を変え、再度問い掛けてきた。
「では、今すぐ出動可能な機体は?」
「当直の第十二部隊と、臨時メンテナンスによってオーバーホール済みの雨月特殊換装機動兵、合わせて十六体です」
僕の返答に全員が顔をしかめる。
「十六体……」
「まずいな。足りない」
「では、当初の予定通り……」
「それしかないな……」
お偉いさん方が緊迫した内容の話を繰り広げる。それがまとまるまで、僕はただ黙して待っていた。
「鴻上君」
背筋が伸びる。局長に名前を呼ばれたのは初めてだった。
「はっ」
「十六体全機にHTEを装着し、出動させたまえ。大規模征天作戦を開始する」
局長の言葉は雷撃となり、僕の意識を感電させた。
レイニー隊の自爆による征天は、予想に反して一日も持たなかった。あと数時間のうちに豪雨が降ると、忌象庁が確定予報をはじき出したのだ。
今までにないことだった。例外と言っていい。
その例外が致命的だった。忌圧変化から導き出された予想攻雨量は、三百ミリ前後。攻雨量は都市外殻に対する雨の貫通力を意味する。防ぎきれなければ外殻に穴が開くのは必至だ。
それでどうなるか。
数千万という雨の侵入、猛毒と化した大気の流入。都市が滅ぶのは確実だ。
最悪の事態を避ける為に僕に命令が下された。
暗雲を払う高性能サーモバリック爆弾――HTEを装着した十六体の人傘による自爆。
攻雨量から計算すれば、通常の殲滅作戦を行うには十六体では全く足りない。最低でも、その五倍は欲しい。そうすればせめて雨月は待機に回せる。他の機体の生存確率も跳ね上がる。
だが、現実は残酷だった。
十六体で三百ミリの雨に対抗するには、全機による征天作戦しか道がない。
レイニー隊と同じ道を、僕は彼ら全員に歩ませなければならなかった。
何を悩む。数十万の住民と十六体の人傘。天秤にかけるまでもない。
僕は自分にそう言い聞かせながら、作業を進めていった。
「調子はどうだい、雨月」
ドックには、僕と雨月しかいなかった。他の人傘は射出カタパルトで待機している。
雨月は、僕自らの手でHTEを装着した。誰にもやらせたくはなかった。
背中から生えた傘の骨のようなマニュピレーターを駆動させ、雨月が各部の自己点検を開始する。
「問題ありません」
「そうか」
僕は微笑みかけた。
雨月の表情は変わらない。
僕はもう十数年、この変わらない表情を見ている。
雨月が……姉が両親を殺した、あの日から。
人傘の素体に選ばれるのは罪人達。この街で死罪を犯した者はみな、死した後も人傘となって罪を償う。
「罪か……」
姉が罪を犯したのは、僕のせいだというのに。
その姉を換装し、人傘に仕立てあげた僕は人間と呼べるのか。人傘達に感じる哀れみは、罪という雨から心を守る傘でしかない。
僕は、雨に濡れることを恐れていた。
「鴻上換装技師長。準備が完了しました。出動致します」
意識が現実に戻される。
雨月は僕を見詰めていた。
「……分かった」
僕の了承を受け、雨月がカタパルト室へ向かう。
遠くなる。
幾度も見送ってきた彼女の姿。これで、二度と見ることは叶わない。
そうだ……二度と……
気付けば、僕の頬を雨が濡らしていた。卑怯者の雨だった。
長きにわたり、僕の思いを閉じこめてきた堤防が決壊する。
「……姉さん!」
十数年ぶりに、雨月を姉と呼んだ。
雨月は反応しない。
当たり前だ。そう造ったのは僕じゃないか。
どこまで僕は自分勝手なんだ。
自己嫌悪に陥る僕をよそに、カタパルト室の扉が開く。
そこで雨月は脚を止めた。
何が起きたのか、僕には分からなかった。
ゆっくりと振り向いた雨月は笑っていた。
がさつで、乱暴で、優しかった姉の笑顔。
そして一言だけ僕に残し、姉は扉の向こうへ消えていった。
今、思い知った。
自分の罪の重さを。
失おうとしている者の大切さを。
僕は嗚咽すら漏らせずにいた。
甲高いカタパルトの射出音が、ドックの中に響き渡る。
その数……十六回。命の数そのもの。
人傘のために鳴り響く鎮魂の鐘音が、僕の涙を振るわせていた。
華が咲いていた。
闇を払う十六の光の華が、骸の雨の中心で。
哭点観測所に独りきりの僕。
傍らには誰もいない。傍らにいてくれた人は華となって空にいる。
大切なものを失った。
それでも僕の手は、これからも雨を凌ぐ傘を作り出すだろう。
誰かを護るために。
何かを犠牲にしながら。
それでいい。姉が最後に僕にくれたあの言葉がある限り、僕はもう迷うこともない。
僕は消え行く閃光の花を見つめながら、姉の名を呟いた。
そして華が消えると同時に、出口に足を向けた。
不意に雨月の言葉が耳の奥で蘇る。
僕の声が、その言葉をなぞった。
「生きて……か」
姉の最後の願いを胸に、僕は人傘達の下へ向かっていった。
雨月達がくれた晴天のしじまを、決して無駄にしないように。