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【企画】覆面小説家になろう〜雨〜 作者:覆面作者
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No.15 彼と彼女と夏の雨

 彼女が新しい仕事場や向かうのにこの古びた借家からは三十分ほどかかる。異動する前の仕事場と比べれば街の大きさも、交通の便も悪い訳だが、彼女は今の環境に満足していた。それもただ、愛する彼が一緒だからだ。住み慣れたビルのアパートを出て行く寂しさもあったのだが、彼と一緒の事を考えればそれでも苦ではなかった。家に帰れば朝も夜も一人の生活では味わえない誰かがいる温かみが嬉しかったのだ、それ以上にあの彼が共に住んでくれることが嬉しかったのだ。
「行ってくるから」
彼女は玄関から静まり返る室内に声を掛けると半年前、ここに引っ越してくるときに新しい仕事場だからだと買ったハイヒールを履き、外へ出た。夏の朝八時ともなるとまだ早い時間とはいえあの日差しを浴びると夏特有の暑さを感じる。一面蒼々しいこの美しい空も、この暑さがなければと彼女は常々に思う。都会と比べればこの空は澄み切っている。毎日、曇り掛かった空を見るよりはこの暑さがあった方がましなのだがとも思っているのだが。

彼女が住んでいる借家ではあるがこの家には二台ほどの駐車スペースがあり、そこに一台彼女の車が停まっている。彼も免許は持っていたが車を買う金も、その金を稼ぐ労力も彼は持ち合わせてはいなかった。そもそも免許でさえ、彼が大学在学中に親の薦めと財力で自動車学校に通い、会得したものだった。決して彼本人がほしかった訳ではなく、やや過保護気味な彼の親が取らせたものなのだ。
彼女は駐車してある車へと向かうとオシャレ気のないセカンドバックを漁り、小さなマスコットのついたキーを取り出し、愛車のドアを開ける。温められた車内の重い空気を身体に浴びながら彼女は乗り込んだ車にエンジンをかけ、車内に冷房を掛ける。このなんともいえないどんよりとした空気に浸かっているよりは身体が冷えたとしてもクーラーをつけた方がいいとそのまま冷房の調整するつまみを最大まで上げてそのまま会社へと行く為に家の目の前の道路へと向かった。

会社までの三十分はなかなか貴重なものである。車のラジオから流れる洋楽に耳を傾けながら彼女は思った。自分の気持ちの整理が出来るからであるからだ。都会と違って朝のラッシュとなるものも少ないのだが、都会にいるころ、彼と同棲する前は彼のことばかり考えていたが今は彼以外のことを、要は自分のことを考える時間が出来たのだ。
例えば、今日のお昼は何にしよう、今日の仕事の内容、これからのこと。
しかし決まって会社が見えてくることには彼との夕食のメニューの事に頭が行ってしまう。彼女は料理が上手くなかった。
一週間ほど前までは密かに練習していたのだが、それも今では三日坊主と化してしまった。
「今日は……ハンバーグがいいかしら」
職場の友人から教えてもらい彼女は一度は食べてみたいと思っていたお店があった。そこならば彼も喜んでくれるだろう、と彼女は少し微笑んだ。最近の彼は外出してないせいかあまり顔色が良くないから栄養が必要だろうという気持ちもあったのだ。もちろん自分が食べたいからというのもあったのだが。
あと一つ、信号機を過ぎれば彼女の会社が見える。今日も長い一日が始まるだろう。しかし、彼女から嬉しそうな微笑みは当分消えることはなかった。
彼女にとってこのラッシュの三十分ですら、幸せの時間なのである。

「ねえ、どこか食べに行こうよ」
時計の針はようやく十二時を回り、ようやく肩の力を緩めた彼女の同僚であり友人であるミカは機嫌良く彼女の肩を叩いた。ええ、と彼女は財布やらなんやらが入ったバックをひょい、と持ち上げるとそそくさと不機嫌そうな上司になど目もくれずにミカと共に仕事場から出て行った。外に出れば面倒な打ち込みや、コピー、そしてあの上司のいやらしい視線から逃れられる。たった一時間だったが、彼女たちにとってその一時間はストレスから解放される大切なものなのである。
カフェテリアや、美味しいと噂の洋食屋へ赴き、昨日あったこと、取引先の格好の良い男のこと、そして彼のこと。そんな風に目的もなく、だらだらと話すのだ。
昼飯を食べ終え、コーヒーを飲みながらミカの話を適当に聞き流し、適度に相打ちを入れる。そんな事が彼女の毎日の日課になってきている。
彼女とミカは、新しい仕事場にやってきてから知り合いになった。彼女より一つ上だが、年上のような感じがしなく、いつも子供っぽいミカに彼女は好意を抱き、信頼していた。彼女とはまた違う人間だからかもしれない。
「そういえば」
ミカはダージリンの入った白く薄いティーカップを手前に置くと珍しく深刻そうな目で彼女を見た。
「この前、マサル達と飲みに行った時に、あー、なんて言ったかな彼氏、ほら、この前連れていたあの人、その彼氏さん私見たのよ。なんか感じ悪い女の人と一緒に。ねえ、もしかしから浮気され」
「大丈夫よ」
彼女はコーヒーを口に運びながらミカの話を遮った。
「もう彼、二度と浮気しないから」
「そんな証拠にもない事言えるわね。そこまで信じられるもん? 」
ミカは目に笑みを浮かべながら悪戯っぽい目をした。彼女は少し表情を歪めたが、すぐに表情を戻した。
「私達は愛し合ってるから」
「それはそれは。私なんかすぐに心配になっちゃうんだけどなぁ」
「ミカの彼も同じような心配しているから大丈夫よ。やっている事もミカと一緒」
「それどういう意味よ。私は浮気じゃなくて遊んでるだけよ」
「それならいいわ。彼もそう思ってしてるはずだから」
彼女は、空になったコーヒーカップを置き、ごちそうさまとセカンドバックを持ち立ち上がるとそのまま不敵な笑みを浮かべながら店の出入り口の肩へと歩いてゆく。
「あっ、お会計」
伝票を片手にその後をミカが追う。結局は代金はミカ持ちになるのだが。
夏の十二時過ぎともなれば朝とは比べ物にならないものくらい日差しが増し、太陽が天を支配する時間が来る。もわもわしたコンクリートの道路の先には蜃気楼のような景色すら見える。クーラーの効いたカフェテリアとはまるで別世界に、じわりと湿る背中の汗を感じながら彼女らは仕事場へ向かう。
「空……」
ふと顔を上げるとそこには、青い空の一角にはやがて空を覆うのか、今は山の傍に隠れている雲、入道雲が遠くの空へ見えた。
「夕方には雨かもね」
彼女は、ぼそりと呟いた。

彼女は夏が嫌いだった。彼とのあの思い出があるまでは。
彼と知り合った大学時代、駅までの道での突然の大雨に折畳みの傘もその時は運悪く置いてきてしまったし、知人も近くにはいなかった。駅までは十分近く、歩いたとしてもずぶ濡れになることは免れないだろうと彼女が諦め掛けた時、そっと、傘を差し出したのが彼だった。えっ、と振り向く彼女に彼は、
「駅まででしょ? 」
と照れながら笑った。彼にとっては作り笑いだったのかもしれないがその笑顔が彼女の人生を変えた。あんな気持ちは彼女にとって初めての事だった。駅までの十分間、そして電車でのあの会話の内容は無我夢中だった彼女はほとんど覚えてないのだが、彼のあの笑顔だけはいつまでも彼女の心に残っていた。
今から考えれば彼女と彼が付き合い始めたのは四年も前になる。彼女してはあの笑顔からの片思いがいあったのが当時、彼はそんな彼女の気持ちなどまったく分かっておらず、もしかしから分かっていたのかもしれないが、彼は他の女性と付き合ったり、一晩、遊びだけの付き合いがあったりした。大学二年の頃から彼女と付き合い始めてからでもあまりその遊び癖は抜けず、彼女の目を盗んでは遊びまわっていた。まあ、彼女と目を盗んでいたとはいえ少なからず彼女もその癖は知っていた。大学在学中は彼と別れるのがいやで何も言っていなかった彼女であったが、二人で大学を卒業し彼女が彼と同じ、地元の企業へ就職してからは彼と会う時間も必然的に減り、彼女の心配も増してきた。
彼の携帯をチェックしたり、彼の部屋の臭い、床に落ちている髪の毛や郵便ポストなどを彼の居ぬ間に調べるようになった。女性からのメールは削除し、そのメモリーは消した。彼女のこの行動に彼は少し恐怖すら抱いたのだが、遊びだけの安い女たちと比べれば未来がある彼女のほうが彼にとっては魅力的だった。彼は我慢できたのだ。
「……彼、私がいない間にまた遊んでないかしら。この前の女だってしつこそうな顔していたし。まったく困るわ」
ミカと共に定時六時に会社を出て、これから遊びに行くというミカと別れた彼女は今日の夕飯であるハンバーグを買い終え、帰路に着こうとしていた。昼、見えたあの雲はやはり頭上を覆い、今にも降り出してきそうだった。
「雨が降る前に帰れるかしら」
曇りとは言えともまだまだ蒸し暑く、クーラー無しでは生きられない彼女なのだが雨となるとまた事情が違ってくる。
「……あっ」
ぽつり、ぽつりとフロントガラスに水滴が当たる。街中を歩く人々は突然の雨に屋根のあるアーケードの方へと急ぎ足で向かっていったり、鞄の中から携帯で出来る折畳み傘を開き始めた。
「早く帰らなきゃ」
信号が青へ変わり、彼女はアクセルを踏む。
雨は徐々に強くなり始めた。

「ただいま」
彼女は玄関の鍵を開け、朝と同じように静まり返る室内へと声を掛ける。
「雨、降られちゃった」
駐車場から家までの間、雨に打たれた身体を不愉快に思いながらセカンドバックと買ってきたハンバーグの袋を下駄箱の上へ置き、暗い廊下の先へにあるバスルームへと彼女は向かう。
「シャワー浴びちゃうからそれから夕飯にしましょう」
ストッキングを脱ぎながらバスルームへと向かう彼女に返る言葉は無い。ベタベタと湿気で纏わりつく服をすべて脱ぎ捨て、バスルームのシャワーの蛇口を捻った。
シャワーの落ちる音だけが家へ響く。
そのまま五分以上は経っただろうか。彼女は静かに蛇口を閉じ、バスタオルを被る。この家には彼女と彼しかいない。すべてを晒し出している彼女に恥ずかしがる理由は無かった。
「ごめんね、待たせちゃって」
リビングのテーブルに座る彼に彼女は笑いかける。
「今日は誰もこなかった? 」
暗いリビングの電気を付け、閉め切ったカーテンの先を探り、窓を開ける。むわりとした湿気が入ってくる。
「もう、あの女ことは忘れてよね」
くるりと、彼女は彼の方を向く。
「貴方は私だけを待っていてくれればいいんだから」
夏のコンクリートに打ちつけられた雨の臭いと、崩れかけた彼から発するむせ返るような薫りが混ざり合った部屋で彼女は彼を見つめながら、ただ、笑みを浮かべるだけなのだ。
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