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ぱぱ
作:アオキチヒロ


 暑い暑い夏の日。今年の最高気温を記録した、真夏日のこと。病院中に響き渡るのではないかと思うほど元気な産声を聞いた。
 僕の、三人目の子供だった。
「夏に生まれたから、夏樹にしよう」
 そう言うと、妻の腕に抱かれた赤ん坊は元気よく泣いた。その泣き声は、夏の蝉にも負けないくらい元気な泣き声だった。





「夏樹がね、まだ一度も喋らないのよ」
 妻が不安そうに僕へと話し掛けてきた。腕に抱かれた夏樹は眠っているのか、妻の服を握りしめるようにその小さな掌をぎゅっと握りしめていた。
「まだ、って……遅い方なのか?」
「だってもうすぐで一歳じゃない? 遅いわよ。春樹や雪絵は一歳になる前に喋ってたはずだもの」
 ままって呼んでごらん、そう言いながら妻は眠っている夏樹を優しそうな目で見ていた。
「そのうち喋るようになるよ」
 子供が育つのには個人差という物が目立ってくる。焦っても仕方のないことを僕は二人の子供を持った時点で思い知っていたので、特に不安にも思わなかった。

 実際、夏樹はすぐに喋ったのだ。たった一言だったが、妻の待ち望んだ一言を夏樹は喋ったのだった。
 忘れもしない、夏樹の一歳の誕生日。そして、妻の死んでしまう前日に。
「まま」と、一言そう言ったのだった。
 




 階段から足を踏み外して死んでしまった妻の命日から、あっという間に一年が過ぎた。
 三人の子供を抱えながらの、仕事と家事の両立は困難を極めたが、自分でもよくやってきたほうだと思う。だが、そうやってこれたのも子供達のお陰だと言える。子供達が居てくれたお陰で僕は頑張って来られたし、子供達の協力のお陰でここまでやってこれた。 
 三人の子供達はすくすくと育ち、長男の春樹は今年で中学校へ入学し、雪絵は小学校を半分を過ぎ、夏樹は明日で二歳になろうとしていた。
「夏樹は何が欲しい?」
 春樹がミニカーで遊ぶ夏樹を見ながら、楽しそうに話し掛けていた。だが夏樹は答えない。
「夏樹ー。お兄ちゃんって言ってみなよー」
 それでも夏樹は答えない。ただ、きょとんとした表情を見せるだけだ。
 夏樹は、あれ以来一度も喋らなかった。さすがに不安になってきた僕は何度か病院へと足を運んだが、どの医者も特に異常は無いというだけだった。
「そのうち喋るようになるよ」
 この光景に既視感を覚えつつも、僕は溜まった洗濯物を畳みながら明日の献立を考えていた。

 誕生日の当日。大きなワンホールのケーキを目の前にして、夏樹はきゃっきゃっとはしゃぐ。
 春樹はそんな夏樹に小さなプレゼントを渡した。
「ほら、夏樹。新しい車はパトカーだよ」
 オモチャにしてはよく出来たパトカーに興味津々になった夏樹は、嬉しそうに声をあげた。
「ありがとう、おにいちゃん」と。

 次の日、長男の春樹は死んだ。
 同じ日に死んだ妻と同じように、階段から足を踏み外して。
 僕は大人げなく泣いた。雪絵も泣いていた。夏樹はただパトカーを握りしめていた。握りしめたまま、何も言わなかった。





「この悪魔、死んじゃえ!」
「こら、雪絵! 夏樹に謝りなさい!」
 このころから、雪絵は夏樹のことを毛嫌いするようになり、近寄ろうとしなくなっていた。
 偶然にも同じ日に同じように死んでしまった二人のことを雪絵は悲しむと同時に、夏樹に向かって酷く怯えるようになっていた。
「だってパパ、こいつがママとお兄ちゃんを殺したんだよ! 夏樹に名前を呼ばれると死んじゃうんだよ!」
 偶然にすぎない。
 滅多に喋らない夏樹の呼んだ名前が、たまたま死んでしまった二人の名前だっただけだ。
 そう思うと同時に、雪絵の言うとおりかも知れないと思う自分がいた。自分の息子に対して一体なんてことを考えているのだろうと馬鹿らしくなったが、それでもこの偶然が怖かった。
 もしも夏樹に名前を呼ばれてしまえば、自分は死んでしまうのかも知れない。
「……夏樹?」
 ふと振り返ると、夏樹が僕の袖口を引っ張っていた。悲しそうな顔をして、春樹にもらったパトカーを握りしめていた。
 自分は一体何を考えていたのだろう。夏樹は、ただの子供なのだ。ただ、人より口数が少ないだけだ。それだけなのだ。
 そして夏樹はまた口を噤んだ。雪絵の言葉に傷付いてしまったのだろうか。まるで自分は喋ってはいけない人間だとでもいうように、夏樹は何も言わないようになってしまった。

 三歳の誕生日までは。





「なんで、雪絵まで……」
 同じ日、同じ場所から、雪絵は足を踏み外して死んでしまった。
 ちょうどその前日の夏樹の誕生日に、夏樹に「おねえちゃん」と呼ばれて。 

 父親失格だと思われても良い。馬鹿馬鹿しいと言われても良い。僕は夏樹が怖くて仕方なかった。
 来年の夏樹の四歳の誕生日に、僕はきっと夏樹から「ぱぱ」と呼ばれるだろう。そして、その次の日に僕は階段から足を踏み外して死ぬのだろう。
 最早疑いようはなかった。
 あまりにも偶然が重なり合いすぎた。
 何より、夏樹がまた口を閉ざしてしまったことが僕には恐ろしくてたまらなかった。
「夏樹……お前は一体なんなんだ……?」
 夏樹はただ、パトカーで楽しそうに遊んでいた。その姿は、まるで普通の子供だった。

 夏樹は雪絵の言っていたとおり、悪魔の子供だったのだろうか。
 夏樹の話す言葉には、何か得体の知らない魔力でも含まれているのだろうか。

 そして。
 僕が死んでしまった後、この子は一体どうするのだろうか。

 そんなことを毎日考えながら、月日は過ぎていった。
 




「夏樹、誕生日おめでとう」
 毎年変わらない大きなワンホールのケーキ。
 四本の蝋燭がささったそれを見つめて、夏樹は嬉しそうに机を叩く。
 この子が何であろうと、やはり僕はこの子の父親であり、家族なのだ。僕は精一杯夏樹が生まれたことをお祝いした。たとえ明日死ぬ運命だと決まっていようとも、夏樹の誕生日を祝ってやろうと思った。
「ぱぱ、ありがとう」
 満面の笑みを向けて、夏樹はそう言った。とうとう、僕のことを呼んだ。
「……ああ。夏樹、お別れだな」
 今年の夏は暑い。
 まるで夏樹が生まれた年のように、暑い日が続いている。
 妻や春樹、雪絵に続いて、僕も明日死ぬのだろう。だけど、不思議と怖くはない。向こうで待っていてくれる家族がいるのだ。
 心残りは、夏樹のことだ。この子は明日からどうやって生きていくのだろうか。
 それだけが、僕は心配だった。










 蝉が、忙しなく鳴いている。まるで今日という日を悲しむかのように。
「可哀想に……まだ小さなお子さまも居たんでしょう?」
「ええ……本当、不幸だとしか言いようが無いわ……階段から落ちてしまったんですって」
「まあ……打ち所が悪かったのね……本当可哀想に」
 何人かの黒服の人間が集まって、ひそひそと噂話をしている。
 僕はその横を通り過ぎて、葬儀の参列者の椅子へと腰を掛けた。
「夏樹、葬式の間は静かにしているんだぞ」
「うん、ぱぱ」
 夏樹はしっかりと返事をした。
 


 あの日、僕は死ななかった。
 夏樹に「ぱぱ」と呼ばれながら、僕は死ななかった。
 だけどその日。僕が死ぬだろうと思っていたその日に、隣の家の主人が、階段から誤って足を踏み外して死んでしまったそうだ。
 これが何を示すかは、僕と夏樹にしか分からない。
 ただ一つ言えるのは、一番前に飾られている写真に写った人物の目元が、酷く夏樹と似ていたということ。
「ねえ、ぱぱ。今日はオムライスが食べたいな」
 無邪気に笑うこの他人の子供と、僕は家族ごっこをする。



 夏樹。
 来年の誕生日、君は僕のことを何と呼ぶのだろうか。
 それとも。


















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