職場から我が家まで、徒歩20分。坂も無く、交通量も少ない、穏やかな道。その途中に少しだけ、気になる家があった。でも、その家の住人と、そんなに関わりがあったわけではない。奥さんと話したことはあったが、世間話を抜けたこともない。この家に関わっていたのは、ただ鶏がいたから。
旦那さんがどんな人かも知らなかったし、奥さんの顔だって、もう碌に思い出せないのだ。
夏も盛りの、昨年8月中頃。帰宅時のことだった。
俺は身長が高かった。そして、その家の石垣は低かった。だから、見えてしまったのだ。全てが。身長190cmの自分に対し、石垣は高く見積もっても150cm程度。約40cmの差は、実質的な視線以上に角度で窺い知れる範囲が増えてしまう。
その家は、路上に面したところに控えめな大きさの小屋を置き、その中で鶏を飼っていたが、その日に限って鶏はピクリとも動かず、コケッ、と一言かけるのが行き帰りの日課になってしまっていた俺が不審に思ってしまったのも良くなかった。
プライバシーを重視する介護職に5年間も就きながら、俺は非常に甘かったのだ、その辺の認識が。線を引いておけば良かったと思い、現在でも後悔している。
今でも、その場の光景が鮮明に甦る。甦ってクルのだ。甦って狂うのだ。
そこかしこに亀裂の入った、コンクリート製の石垣には紫陽花が巻き付いていた。緑と石の掛け合わせから目をその奥に押しやると、猫の額ほどの、しかし手入れの行き届いた庭がある。雑草の無い、鉢植えやプランターを一列並べただけでもう満杯になる庭。この時期にはトマトや西瓜が繁茂している筈だった。毎年、おすそ分けが来るのだ。
「夫婦二人には多過ぎるんですよ」と、柔和な笑みを浮かべながら奥さんが持ってきてくれる。しかし、今年は作物が実っていないようだった。ただ土だけのプランターが三つばかり横並びになっているだけ。そこから一歩先はもう、この家の居間。青い網戸越しに、いつもなら卓袱台を囲んで楽しそうな顔が二つ飛び込んでくるのだ。軒下の風鈴が、涼しそうな音を立てて。
その日は、網戸が開放されていて、旦那さんの笑顔だけしか見ることが出来なかった。これまでで一番の笑み。
旦那さんは、白い薄地の作務衣や頬を紅く染め、ゴルフクラブを高く振り上げているところだった。
クラブの軌道を、半ば硬直しながら眺める。
硬いものと柔らかいものが混ぜ合わさる音が聞こえた。更に振り上げられたクラブは、さっきよりも紅く光る。蛍光灯が何も感じずに彼らを照らす。
何度も何度も振り下ろし、やっと旦那さんは人心地がついたように手を休める。
おそらく奥さんだったと思われる物に、俺に向けられていたような表情は、もう伴っていない。
そもそも顔が無かった。U字を描くように頭蓋が残り、他は床と同化しているようだ。あとは、筋肉や骨はミキサーにかけた様になっていて、血や脳漿、髄など半液体の人体を構成する物質は、旦那さんと同じ白色のシャツに染み込んでいる。白髪交じりの髪は残った骨に必死にしがみ付いている。ほかには…背骨が少し見えていた。骨は他の色に染まることが無くて、綺麗だな、とそう感じていた。
彼女は正座をした体勢のまま、両手のひらをひざの上で組み、大人しく物事を受け入れていた。
旦那さんは卓袱台に乗せてあった缶ビールを一気に飲み干し、満足そうにゲップを一つ吐き出した。そして網戸の無い窓越しに、お互いの人生で初めて視線を交わす。彼は首だけでお辞儀をし、俺は申し訳無いように笑みを浮かべて深々とお辞儀をした。これは一種の職業病である。
「クリーニング屋がどこにあるか知っていますか?」
缶を握りつぶしながら、旦那さんが話しかけてきた。テレビではショートコントが流れており、俺は少し笑ってしまった。画面に紅が散って、所々が見辛い。
「妻がいなくなってしまったので、家事をしなくちゃいけなくなったのですが、そもそも家事なんてさせてもらったことが無くて。ここに住んでもう20年になるのにクリーニング屋の一つも知らないんです、お恥ずかしながら」
そしてもう一つビールのプルタブを開ける。プシッ、と聞いていて喉の乾く音がする。先程から無性に水分が欲しくて仕様が無かった。
「クリーニング屋は神社隣の坂を登ったらすぐですよ。私は一人暮らしですので良くお世話になっています。まぁ奥さんがいれば、確かに知らないかもしれませんよね、使いませんし」
「そういうものなんですね。意識していなかったから。当然あるとは思うけれど存在が分からない。いざ使おうと思ったときに困ってしまう。今日なんて何年振りかにゴルフクラブを使おうと思ったから、これまた探しましたよ。五十肩を患ってからゴルフとは縁が遠くなってしまっていたから」
手元のクラブを上下してみせる。血が一筋、また一筋と手元に伝ってきている。
「肩が上げられる様になったのは何よりですね。あ、ちょっと失礼」と俺は懐から煙草を取り出し火を点けようとする。
「あぁ、お吸いになられるんですか」
懐かしい物を見るように、旦那さんは俺の指先を見つめている。
「はい。あ、何か拙かったでしょうかね」
「いえいえ、禁煙して長かったもので。一本、頂けませんかね。もう口うるさいのもいませんし。かわりにビールを提供いたしますよ」
プルタブを開けたばかりのビールを見せる。俺は喉が本当に渇いていた。
「頂けますか?」
「どうぞどうぞ。そうですね、そっちの鶏小屋を踏み台にして構いませんから、上がってください。つまみの一つも出せないのは恐縮ですが」
笑みを絶やさずに、勧めてくる。俺は言われた通りにして、縁側に腰を下ろした。
煙草を一本差出し、もう片方の手でビールを受け取る。一口あおると、なるほど、上機嫌に笑みを浮かべたくなるほどに美味い。
互いに煙草を銜えると、最初に旦那さん、そして自分と火を点ける。煙が肺に落ち、細胞の壊れる音がする。
「いや、何年ぶりですかね。煙草は。・・・実に、落ち着きます」
旦那さんは、奥さんに凭れ掛かる。作務衣は更に紅を吸う。灰皿が無いことに気付いた俺は旦那さんがさっき空けていた缶を引き寄せた。手を突く度に生暖かく伝わる血の温度が、夏には似つかわしくなかった。
それから、互いに黙っていた。灰だけが時間の経過を示す。
「服が、汚れてしまいましたね」
旦那さんが心配そうに俺の服を見回す。ジーンズもシャツも、どうせ安物だ。
「構いませんよ、全然。どうせ家も近いですし」
この辺りは人通りが少なく、車も通らない。水田からは蛙の大きな声。音なんて、それとテレビくらいのものだ。そもそも最近、誰だったかが行方不明になる事件が非常に騒がれてしまうくらい、何も無い所なのだ。街頭の灯りが目に付く。
「やっぱり、物足りないですね。何かつまみになる物が無いか台所を探ってきますよ」
そう言った旦那さんは、むしろ意気揚々といった様子で奥に消えていった。
振り返ると、やっぱり奥さんが在る。黒い血が、湧き水のように控えめに流れていて、その辺りが実にこの人らしい。
ひとつ溜め息を吐いて夜空を見る。下弦の月が、星の邪魔をしないようにと雲に半身を隠している。手を突き、伸びをする。柔らかい物を潰した。ちょっと硬いプリンのような感覚。何だろう。まぁ彼女の中の何かだろう。
足音が聞こえた。
「駄目ですね、こんな物しか無かった」
困ったように目を伏せて、家主は二つばかり皿を持ってきた。片方には浅漬け、もう一方にはウインナーが乗っている。
「いや、十分じゃないですか。我が家なんかつまみになるような物が無いんですし」と、眉を上げてみる。
爪楊枝が用意されている。浅漬けは、少し酸っぱかった。旦那さんは手持ち無沙汰な様子でゴルフクラブを玩んでいる。如何ですか、と煙草を差出すと、子どもの様に無邪気な笑みを浮かべた。
安物のライターを向けながら、改めて彼を見る。こちらの視線に気付いた旦那さんは何か付いていると思ったのか、頬や髭を撫でている。おかげで顔全体が紅く隈取された様になった。
しかし、この部屋も独特の匂いになってきた。鉄臭さと少しの生臭さ、畳の香りと煙草が混ざって、僅かに吐き気がした。ビールを強引に飲み干して、外に目をやる。
「プランター、今年は何も芽が出ていないんですね」
「・・・・・・」
何気なく振った話題だったが、旦那さんは急に押し黙ってしまった。
「何か、お埋めになったんですか?」
「子どもが・・・」
どうしたのだというのだろう。
「子どもが欲しくてですね」
「子ども、ですか」
「女房は、子どもが産めない身体でして。それを随分と気に病んでいたのですがね」
旦那さんは、背中越しに奥さんを見る。奥さんは、正座したままで旦那さんに向かい合っている。
「あいつをいつまでも苦しめるのもどうかと思いまして」
「それと、プランターにどういうご関係が?」
足元の土は湿り気を帯びている。水は欠かさなかった様だけれど、実際、芽も葉も出てはいない。
「・・・物は試しと、子どもを埋めてみたんです。私もそろそろ、いい加減に自分の子が欲しかったもので」
子どもが、ねえ・・・・・・。
「でも、生憎と、芽が出ませんで。今年は不作でした。初めてというのもあるのでしょうが、何が良くなかったんでしょうかね。栄養が、足りなかったのでしょうか」
浅漬けをかじると、ポリッ、と小気味良い音がした。丁度さっき聞いた、頭蓋骨が簡単に割れるような優しい音。
芽と、眼。葉と、歯。産めない、埋める、産める、埋めない。
「来年も、お埋めになるつもりですか?」
「そのつもりです」
即答が返ってきた。
「奥さん無しでの育児は大変でしょうけれど、上手くいく様に願っていますよ」
この辺りで保育所帰りの幼児が三人か四人、その付き添いの祖母と共に姿を消したというニュースがあった。今年の春先のことだ。プランターは三つだから、三人だったようだ。
「ところで、おばあさんはどうしました?」
「折角だと思い、砕いて養分にとプランターに分配しました」
想像通り。
「俺も昔、花を育ててましたが栄養や水の遣り過ぎで、枯れてしまいました。多過ぎても駄目なんですよ」
「・・・・・・」
「人間ひとりは、栄養には大きすぎる。ああ、その表情だと、やはり埋めたかったんですね、私を。・・・お役に立てなくて、申し訳ありません」
旦那さんは、黙ったまま。奥さんも、黙ったまま。俺も、これ以上言うことは無い。
「咲いたら、ご報告します」
また、泣き腫らした顔で我が家のドアを叩く人物を見る事になるようだ。ビラを配って、僅かな目撃情報に一喜一憂して、警察や民間の機関に頼って、縋って。
報われない話だ。それに、きっと、何も伝えない。
「もう一本、ビール、頂けますか?」
「いや、とっておきの焼酎が在りますよ。良く寝かせたのが。取って来ましょう」
「いえ、ビールが頂きたいですね」
旦那さんは、寂しそうな表情で奥さんを眺めた。
「こいつと乾杯しちゃいましてね、今夜。お酒が駄目だというのに無理に飲ませて。結婚生活し始めて、初めてだったんです。・・・だから、余計な事まで口にさせて」
蛙が絶え間無く、鳴く。
「今日が、結婚30周年で。不満を、聞いてやりたかった」
滔々と、訥々と。
「抱え込んでいたのは、やっぱり子どものことで。だから埋めた物のことを話して、期待させてやりたかったのに。・・・子どもの夢を見させたかったのに。混乱させてしまって。何て言うんですか、生みの苦しみ、ですか? まぁ生涯苦しむくらいなら・・・ねえ、忘れさせてやるのも、考えなくて済むようにするのも、悪くないかと」
空になったグラスに、灯りに群がる虫が当たる。水滴に捕らわれ、俺の指で擦り潰された。相槌なんて、打てなかった。
「だから、さっきので、我が家のビールは、打ち止めです」
「残念ですね」
俺は、ゆっくりと立ち上がる。月は完全に雲の中に隠れ、もう星も見えない。煙草を一本取り出すと箱ごと縁側に置いた。
「良いですか、火」
その煙草を手に取って、一本、彼は口にした。無言で、火を差出す。しばらくの沈黙の後に、今回はこちらから話を切り出した。
「だから、奥さんを安眠させた。起きないかもしれないですが」
「あぁ、起きないでしょう。しかし、それだけじゃなく、もう一つだけ理由があって。貴方とお話しする機会が作りたかったからですよ」
「それは、それは。大変恐縮です」
俺は鶏小屋を跨ぎ越し、また最初の位置に戻る。石垣を挟んで、お互いの最も無難な位置に。
「しかし、それでは奥さんに少々悪いことをしてしまいましたね」
手に持ったままの缶を道路に投げ捨て、しばらくそれを眺めていた。
「そう、ですかね。・・・構わないでしょう。煙に乗せて、それは流すとしましょう」
旦那さんは、やっと笑みを消して煙を深々と吸い込んだ。その様子を、何を見るでも無く眺めていた。煙には、奥さんの死も、自分を養分として埋めようとしていたことも、全て乗せてしまおう。
吐き出された煙は、軒先の風鈴に触れた。涼しげな音が、実に心地良かった。
俺は今でも、その光景が鮮明に甦る。匂いや、表情、色、感触に至るまでが。
甦ってクルのだ。そして、自問自答を繰り返すときがある。
甦って狂うのだ。旦那さんと、平然と酒を飲んでいた自分の精神と直面する度に。死は、死で在ってそれ以上の意味が無いと考えている意識に。彼の行為に嫌悪感を持たなかった自分にも、あの場で違和感を抱かずに過ごせてしまった自分にも。
むしろ自然と感じてしまった、その感情にも。
例えば、また泣き腫らした顔の人物が我が家のインターフォンを鳴らす度に。今年も駄目でした、と石垣越しに声をかけられる度に。
また、次があるでしょう、と励ましの声をかけてしまう度に。
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