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創作三国志

琴奏

作者: KEITA

 夕闇が、辺りを漂おうとしている時刻であった。


 琴の音が響く。


 軽やかな弾奏。流るるごとき旋律が七弦琴を爪弾く指先から生み出され、空気を震わせる。

 琴を弾いているのは一人の若い男だった。軽く目を閉じた白い顔。その周囲から零れ出た髪が緩く肩を流れ、あるいは僅かに俯いた男の頬に沿うように流れ落ちている。表情が読めぬその雰囲気が瀞涼たるは、彼のその容貌ゆえか。

 弦を爪弾くそのしなやかな指が、戦場においては刃を握り鮮血に爪先を染めることを誰が想像し得るだろうか。琴を奏する動作に合わせ、絹糸を垂らしたかのような髪がさらさらと揺れる。敷物の上に静かに坐し琴を奏でるその姿は、遥けき桃源の地よりやってきたこの世の者ならぬ麗々しい楽士といっても差し支えない。惜しむらくは、彼の居る室内には他に生けるものはおらず、音と観、双方の美を拝出来る者はいないということだろうか。

 流麗なる旋律はやがて佳境に差し掛かる。断続的にではあるが、これまでの流れを断ち切るがごとき激しい調子の空奏(音を出さずに弦を爪弾く技法)、そして苛烈に曲調を変えて。そして琴曲は、粛然とした終奏を迎える。

「………」

 男は指を降ろし、ゆっくりと目を開いた。色素の薄い、憂いを含んだ瞳。切れ長で長い睫毛に囲まれたそれは、優しげながら毅い光を湛えている。

 ただ―――白皙の美貌が形造るは、どこか陰鬱とした無表情。

 男はまた、指を琴弦の上に乗せた。

先ほどと同じ旋律が紡ぎだされていく。静かな序奏から連なる柔らかな音。流麗さから一転する空奏、そして粛然ながら永遠にたゆたうかのように終わり……

二度目の曲が終わりを迎えても、男は更に同じ曲を弾いた。それが終わればもう一度。更に終わればまた一度。幾度も幾度も、男は同じ曲、同様の旋律を生み出し続ける。

 いつしか夜は更けていた。

 周囲は宵が色濃く包む。灯りをつけることすら及びもしないのか、男の座す部屋は闇に溶け入りそうなほどに暗いままだった。その中で、絶えず響くのは琴の音。それは魂の成せる行為か、狂気の沙汰か。ただ不乱に掻き鳴らされる。止まぬ琴奏。

 幾度も。幾度でも。

 一体幾度同じ音、同じ弦を爪弾き続けただろうか。あまりに執拗で、それでいて乱れることの無い彼の演奏に琴の方が文字通り音を上げたのかもしれない。


べぃんっ、


 不協和音が不意に空気に混じった。

 男は手を止める。見ると、何本かの弦が岳山(弦を掛ける場所)から緩み、そのうちの一本が中ほどで切れていた。こうも暗がりでは解り難いはずではあるが、闇に慣れた目と手に馴染む感触の違いに、すぐに事態を把握する。

 彼は低く呟く。

「……然程古い弦ではなかったはずだが」

 口内で零された独り言、しかも何の感情も読み取れぬにも関わらず、清涼な響きと息を呑む淫蕩さ、双方をそなえた美声。この青年は発する声音までも妙なる調べのようであった。

 不意に、彼は怪訝な表情で己の指先を持ち上げた。厚く張っていたはずの指の皮、そこにぬるりとした感触があった。皮の剥けた指先を軽く擦り合わせ、男はさも不思議そうに瞬きをする。

 ようやしてはたと気付き、どこか自嘲気味に口角を上げた。己を嗤う皮肉気な笑みすらぴたりと様にしてしまうその麗貌は、誰にもその刹那の美景を覗わせることなくまたも表情を淡雪のように消した。

 そして。

 無造作に手を伸ばし岳山から弦を取り外しながら、声を上げる。

「――小喬、いつまでも戸口に立っていないで、部屋の中に入ってきていいのだよ」


 ことりという僅かな物音ののち。明かりを点ける音と橙色の僅かな光が差す。そして扉がゆっくりと開いた。

 おずおずと、気まずそうに部屋の中へ入ってきたのは一人の女。手にした灯火がゆらゆらと彼を、そして彼女をも照らした。滑らかな髪をひと括りに高い位置で纏め、細く流している。細密に織り込まれた帯は美しい衣を緩く締め、たおやかな身体つきを浮かび上がらせる。しらじらと暗闇に像を結ぶ細面は、さながら宵闇に浮かぶ白光の化身か。否、彼女のおもてを拝むなや、月さえも恥じらいその身を隠すだろう。

 美しい女であった。彼の傍らにあっても遜色ない、傍らには彼女しかあり得ないと思われるほどの。

「――公瑾さま」

 女は部屋の中に入ると、やや決まり悪げに唇を開く。男の声が音楽的な調べだとしたら、彼女の声は小鳥のように愛らしいさえずり。

「公瑾さま。気付いてらしたのですか」

「ああ」

「いつから、でしょう?」

 男は琴の弦を外す作業はそのままに、穏やかに返す。

「七曲を過ぎた第二節の辺りで、微かに扉から物音がした。私の妻は、」

 また彼は口角を上げた。先ほどの嘲笑とは違う微笑みが美しい顔を彩る。

「物陰でじっとはしていられない子だからな」

 見通されていた恥ずかしさで、半分は闇で隠された小喬の白い頬が紅くなった。清雅な美貌が少女のような雰囲気を帯び、恥らっていた月はようやく姿をみせる。穏やかにほどけた場の空気、男は笑みを深めて続けた。

「それに、君の夫は耳が佳い男だと知っているだろう?」

 優しさと愛しさを湛えるそれは、先ほど琴を弾いていた時分の陰鬱さなどおくびも出さない。しかしそれはまた、彼の常日頃の感情の出し方を知らぬ者なれば気付かぬほどの、微々たる憂いが残されているものであり。

 そのことに気付く数少ない者の一人であるがゆえに、そして気付いてしまったからこそ、女は胸につきんと刺さるような痛みを感じ、思わず彼を呼びかけた。

「公瑾さま」

「ん?」

 男は手を止め目を上げる。いつもと変わらぬ白皙の麗貌。優しげな視線。他人の目から見れば彼はいつもどおりだ。

 そう、他人の目から見るのならば。

「差し出がましい真似とは思いますが、茶を淹れました。ゆえに……、」

 そのまま何といっていいか解らず、俯く。腿辺りの衣をぎゅうと掴んだまま、小喬は自分を責めた。どうして自分は言葉が出ないのか。どうしてここに自分は居るのか。

 ……なぜ、彼を一人にさせてあげられなかったのだろう。


「……小喬」


 男は妻の名を呼んだ。いつもの穏やかで優しい声。宵闇で染まる静かな室内にじわりと響く。

「丁度一服したいと思っていた。それに」

 ほら、と琴を示してみせる。

「しつこい、と琴にも叱られてね。つむじを曲げられてしまった。しばし休むことにする」

 茶を頼む、そう言って目を細める彼に笑みを返し、「はい」と頷いた。鼻の奥がつんと熱くなったのには我慢する。どんなときでも変わらない彼の優しさが嬉しくもあり、今は哀しかった。

(わたくしの粗忽もの。公瑾さまに気を遣わせるなんて)

 ああどうして、自分はいつまで経っても子供なのだろう。

燭台を傍らの卓に置き、彼の手を取る。

「小喬?」

「公瑾さま、その前に」

 故意に明るく言いながら、小喬は夫の指を優しく広げた。

 そして取り出した絹巾で、そっとそれを包む。硬く皮が張っているはずの指先に血が滲んでいる。ごく軽傷ではあるが、顔に似合わずこういうことに無頓着な彼は、何も言わなければそのままに放ってしまうだろう。隠し事の上手い男で、普段はそれに騙されることの方が多くもあったが、なぜかこういったことを見破るのは今は自分だけの得意技だろう。

 今は。

(もう、わたくししかいないから)

「手当てをなさってください。悪い風が入りますゆえに」

 しなやかだが紛れもない男性のそれである硬い肌膚に、それより幾分も柔らかな質感がそっと重なる。絹巾ごと、自分のそれより長くて大きな指を握りながら、小喬は微笑んだ。

(これだけしか出来ないけれど)

「どうか」

 だからこそ、と思うのだ。



 伝わる温もり。笑顔。

 大切なひと。

(ああ)

 馬鹿なことかも知れないが、男はふとその感触が絹巾越しであることを惜しく思った。

「――ありがとう、小喬」


 傷に触れて欲しい、などと言ったら彼女はなんと返すだろう。

 きみに触れてもらえば、どんな傷でも治る気がするなんて。





恐らくは、孫策死亡後。

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