清々しい檜の香りに包まれた、真新しい我が家。
ゆったりと漂って来るのは、挽き立ての珈琲豆の香ばしい香り。
俺は真新しいカーテンを大きく開き、出窓を全開にして外の空気を取り込む。
強い夏の陽射し。
蝉の声。
素晴らしい開放感に深呼吸し、幸せに満ちた笑みを浮かべる。
この幸福は永遠に続く不変のものだと、一片の曇りも無く信じられた。
「ケイちゃーん、これは要る物〜?」
段ボール箱の山に囲まれ、新妻の香奈子が呼んでいる。
俺は妻用の珈琲カップを片手に、引越しの荷物に埋もれたリビングに入った。
「ほら、これぇ」
カップを受け取り、首筋にくすぐったそうに俺のキスを受けながら、香奈子が掲げて見せたのは古臭い小さな箱。
「うちのお袋が勝手に詰めたやつだろ?」
妻の肩をやんわりと抱きながら、俺はその箱を改めて見直す。
「……てんしさま?」
それはフェルトペンで書かれた、稚拙な平仮名。
記憶が揺らめき、すぐに焦点を結んだ。
「……ああ。これ、結衣のだ」
香奈子が、少しだけ目を上向けて俺を見る。
「ユイちゃん……、妹さんの?」
少し遠慮がちなのは、結衣が既に他界しているからだろう。
俺は香奈子の後ろから手を伸ばし、ヒョイと箱の蓋を持ち上げた。
途端に、香奈子があっと声を上げて目を輝かせる。
「綺麗……!」
箱の中に丁寧に寝かされていたもの。
天使様と名付けられたそれは、浴衣を着た小さな少女の人形だった。
「夜祭りで買ったんだよ」
夜祭り? と聞き返しながら、香奈子はそろそろと人形に手を伸ばしている。
「そう、結衣がすげー気に入っちゃってさ。買ってやったら喜んだのなんの」
懐かしい故郷に久々に戻ったせいだろう。
俺の記憶は鮮やかに過去のフィルムを巻き戻し、幼少期の自分と妹の姿を再現して見せた。
結衣。
色白で小さくて、リスみたいに真ん丸な目が可愛いかった、二つ下の妹。
記憶の中の結衣は、いつも大切そうにこの人形を抱えていた。
当時の俺はやたらに体が弱く、しょっちゅう吐いた倒れたと騒ぎを起こしては親を心配させていた。
それでいて恩知らずなことに、元気な時はとんでもない悪戯者。
母親の化粧箱に蛙を仕込んだり、トイレの扉を開かなくしたり、仲間と万引きのような真似までした。
そんな悪ガキだった俺だが、不思議にあまり怒られた記憶は無い。
叱責を受けるのは、いつも妹の方だった。
「何て言うのかな。要領が悪いって言うか、タイミングが悪いって言うか」
俺の仕掛けた悪戯を覗こうとして見つかり犯人にされてしまった、なんてのは日常茶飯事。
30分帰りが遅れただけで来客と鉢合わせ出来ず、妹だけ小遣いを貰えなかったり、高価な菓子を食べそこねたり。
本当に些細なことばかりだが、 いつもいい思いをするのは俺。貧乏クジは常に妹ばかりが引いていたように思う。
「いつもお兄ちゃんばっかりズルいって、よく泣いてたよなあ」
それでも気弱で引っ込み思案な妹は、俺の後をチョコチョコと着いて回っていた。
そんな妹を、俺も幼いながらに可愛く思っていたりもした。
「俺が七才で、結衣が五つの時だったかな」
近くの神社で行われる、盛大な夏祭りの夜。
忙しい両親に代わって、俺は妹を連れて宵の宴に混じっていた。
……と言っても、もちろん二人ではしゃいでいただけなのだが。
赤々と輝く提灯の列。
普段とはまるで違う、活気に溢れた境内。
親から貰った僅かばかりの小遣いを使いながら、俺と妹は嬉々として祭の賑わいの中を走り回っていた。
……見ておいで、さあ見ておいで。
その奇妙にザラついた声が聞こえてきたのは、社の裏手に回った頃だったろうか。
(あれ何?)
先に興味を示したのは、妹の方だった。
それはみすぼらしい露店で、いい場所が取れなかったのだろう、提灯の明かりから少しだけ離れた、薄暗い一角にひっそりと佇んでいた。
近寄ってみると、掠れた文字で『みつがんき』とある。
(ねえ、これ何?)
無邪気に走り寄った妹は、古臭いガラスケースを覗くなり、愛らしい嬌声を上げた。
(可愛い!!)
ケースの中には、ズラリと浴衣姿の人形が並べられていた。
それも、当時の子供達が誰でも持っているような有り触れた物ではなく。
もっとずっと、恐ろしいほどに瑞々しい、艶めいた存在感を持った……。
(これはねえ、お嬢ちゃん)
錆ついたパイプ椅子を軋ませ、その軋みより更にざらついた声で、店主がねっとりと説明した。
(みつがんき、秘密を願う姫、と書いて密願姫と言うものだよ)
頭上にぶら下げられた裸電球の一つがチカチカと明滅し、店主の老いた顔に奇妙な陰を作る。
(誰にも内緒にしている秘密をこいつにこっそり教えてやるんだ。そうすると、不思議なことに少しずつ命が宿ってくる)
食い入るように店主の話を聞いている妹を横目に、俺はそっと値札を見た。
ゲッ、千円。予算オーバーもいいとこだ。
(けれども、詰まらない秘密や、秘密の数があんまりに少ないようじゃ、人形は目を覚まさない)
俺は店主に見えないように、妹のスカートの裾を引っ張った。
(たくさん頑張って秘密を与えてやった暁には、目を覚ました人形が、お嬢ちゃんの願いをきっと叶えてくれるだろうよ)
全く、子供騙しの商売にこの高値とは。
(ほら、もういいだろ結衣。行くぞ)
腕を引いて歩き出そうとすると、妹は哀願するような顔で俺を見上げた。
(こんなの買わないよ。ほら、千円もするんだ)
値札を顎で指して言う。妹は嫌々と頭を振るだけで、その場から動こうとしない。
(駄目だって言ってるだろ!)
怒鳴りつけると、妹はビクッと体を震わせて涙を浮かべた。
唇を噛み締め、泣き出しそうなのを必死で我慢しながら、それでも足を踏ん張って嫌々を続ける。
気の弱い妹が俺に逆らうなど有り得ないことだったが、その夜ばかりは、結衣は最後まで折れることはなかった。
「結局は俺も根負けしちゃってさ。一月分の小遣い全部はたいて、買ってやっちゃったわけ」
熱い珈琲を啜りながら、俺は遠い思い出に目を細めた。
今にして思えば、あの時、無理をしてでも買ってやって本当に良かったと思う。
結衣は、その五年後に事故で死んだ。
登校途中、居眠り運転のトラックに突っ込まれ、ほぼ即死だったという。
いつもは一緒に並んで登校していた俺は、その日に限って、卒業式の準備の為に一足早く家を出ていた。
そう、貧乏クジは、結局最後まで妹が引き続けてしまったのだ。
「ケイちゃんが昔病弱だったなんて、意外だわ」
香奈子が人形を掲げたまま振り返った。
「ん〜? 病弱って言うか……、すぐにケロっと回復はしちゃうんだけどさ。やたらに怪我も多かったしなあ。親は心配しっ放しだったと思うよ」
香奈子がフフ、と笑う。
「私も子供が生まれたら、そういう苦労をさせられるのかしら?」
「どうかな」
俺は珈琲カップを床に置き、香奈子の背中を抱いて髪に鼻を寄せた。
「早く子供が欲しいな」
妹の愛らしい姿がチラつくせいなのかもしれない、俺は昔から、早く我が子を得ることを望んでいた。
香奈子が半分だけ振り返り、囁くように答える。
「……うん、私もよ」
その瞬間。
ひどく涼やかで透明な音が、静かなリビングに響き渡った。
チリィ、ン
「え?」
音があまりに近くから聞こえた為、俺と香奈子は揃って顔を上げた。
チリン
チリィン
「これ、……風鈴?」
そう、これは風鈴の音だ。どこか懐かしい、昔ながらの風鈴の音。
でも、どこから?
「……」
香奈子が黙って視線を動かし、俺も誘われるようにその後を追う。
チリン
チリン
チリィン
真昼の明るい陽差しに照らされ、香奈子の手の中で、美しい少女人形が目を閉じていた。
濡れたような艶を持つ黒髪を優雅に垂らし、薄いピンク色の唇を少しだけ開くようにして、滑らかな肌を陽に煌めかせ。
少女の着る艶やかな浴衣は、確かに繊細な刺繍によって描かれた、風鈴の柄だ。
けれど。
まさか、と口を開きかけた俺は、言葉を喉の奥に詰まらせた。
チリン
震えている。
少女の漆黒の長い睫毛が。
ピンク色の唇が。
香奈子の手が震えているのか?
チリィン
……いや、違う。
震えているのではない。そうじゃなくて、これは。
チリィィ……ン
俺と香奈子は、声も無くただそれを見詰めた。
美しい少女人形がふるふると睫毛を揺らし、陽の光を反射させて夢のように輝くのを。
幼い唇をしっとりと湿らせてゆっくり開き、真珠のような前歯をチラリと覗かせるその愛らしい仕草を。
……を、……ました。
やがて少女の唇から流れ出すか細い囁き。
風鈴の奏でる響きと人形のあまりに妖艶なオーラに飲まれ、俺も香奈子もぼんやりと耳を傾けるしか出来ない。
……日、……は、テス……だったので裏のか……てまし……
(何だ?何を言ってる?)
少女の言葉が少しずつ鮮明になるにつれ、辺りの雑音がテレビのボリュームを搾るようにして引いていく。
うるさいほどだった蝉の声も。窓の向こうから聞こえていた子供達の嬌声も。下の道を走る車のエンジン音も。
……ラスで飼っ……た金魚を、ぶつかって水槽ごと落としちゃいました。床を苦しそうにビチビチ跳ねてて、誰もいなかったから怖くなって逃げました。
(この声……?)
パパの大事なお酒を割りました。怒られるのが嫌だったから、ミーコのせいにしました。
(……結衣?)
それは確かに、記憶の中に残る結衣の声そのものだった。
間違えるはずなどない。懐かしく愛しい妹の声に、頭よりも先に感情が反応していた。
(じゃあ、これは)
ママの口紅を勝手に使いました。力を入れたら折れちゃって、仕方ないから裏庭にこっそり埋めて隠しました。
クラスのカズ君と喧嘩しました。
牛乳を、飲んだフリだけして流しに捨てました。
いつまでも続く、他愛のない秘密の告白。 これはかつて、妹が人形に話し続けた隠し事の告白なのだろうか。願いを込め、祈りを込めて訴え続けた、秘密の暴露なのだろうか?
結衣。
幼くして天に召された、俺の可愛い……
今日、ミーコのご飯に、おじいちゃんが畑で使うお薬を混ぜる実験をしました。
(え?)
ほとんど匂いを嗅いだだけで食べなかったけど、白い入れ物のお薬を入れたやつだけ、気付かないで食べました。
(……何だって?)
今日は、お兄ちゃんの飲むココアに、こないだミーコのご飯に入れた白い入れ物のお薬を混ぜました。すごく苦しそうに吐いてて、ママが急いで来ました。でも、ミーコみたいに死ななくてガッカリしました。
(何を……)
突然のことに、頭の回転がついて行かない。いきなり何を言い出したのか。やはりこれは非現実か?まやかしの単なる夢か?
固まったまま動けない香奈子の震えだけが、俺に現実を意識させる。
今日は、おじいちゃんのケツアツのお薬と、お兄ちゃんの風邪のお薬を入れ替えておきました。夕方に、お兄ちゃんは急に真っ白な顔になって倒れました。ママとパパは、ヒンケツって言って慌ててました。
今日の夜、おじいちゃんがすごく真っ赤な顔になって救急車が来ました。でもすぐ死んじゃったみたいです。おじいちゃんはいつもお兄ちゃんばっかりヒイキするから、嫌いだから別に悲しくありませんでした。
今日は、お兄ちゃんの部屋のベランダに氷をまいておきました。映画で見たみたいに派手に転んでて面白かったけど、柵にぶつかっただけで、下に落っこちなくて残念でした。でも、おでこから一杯血が出てて、いい気味と思いました。
今日は……
延々と、いつまでも続く狂った告白。
あどけない口調からは考えられないような悪意の濃密さに、俺は吐き気を覚えた。
「こんなの、結衣の言葉なわけ……」
悪質な白昼夢を打ち破ろうと頭を振った時、ふいに香奈子がビクリと肩を震わせた。
「香奈子!?」
思わず彼女の肩を抱き止めた俺は、金縛りの状態で動けないその手の中で、美しい人形がゆっくりと瞼を持ち上げるのを見た。
本当は、お兄ちゃんなんて嫌い。大嫌い。いつもチヤホヤされて好き勝手なことして、怒られるのはいつも結衣。ズルい。お兄ちゃんはズルい。ズルいズルいズルいズルいズルいズルいズルいズル……
長く艶めいた上下の睫毛を少しずつ放し、その奥から現れた瞳の何と美しく、邪悪なことだろう。
微かに開いていただけだった唇が微笑みの形に歪み、青白かった頬に薔薇色の光が輝き。
ああ。お願い、てんしさま。
切なくなるような願い請う響きに胸を締められた時、突然辺りの風景がグニャリと歪んだ。
(香奈子!!)
思わず叫ぶが、声にならない。
風景は瞬く間に溶けて混じり合い、色の渦となってうねり、俺を飲み込む。
(香奈子……)
全ての感覚を失う間際、俺は妹の切なる祈りの声を、微かに聞いたような気がした。
お願いてんしさま。
お兄ちゃんが一生で一番、すごくすごく幸せだと思ったその時に。
私の運命と、お兄ちゃんの運命を、
―――丸ごと、そっくり取り替えて下さい――
清々しい檜の香りに包まれた、真新しい我が家。
ゆったりと漂って来るのは、挽き立ての珈琲豆の香ばしい香り。
結衣は真新しいカーテンを大きく開き、出窓を全開にして外の空気を取り込む。
強い夏の陽射し。
蝉の声。
素晴らしい開放感に深呼吸し、幸せに満ちた新妻の笑みを浮かべる。
さあ、今日はこれからが大忙しだ。
引越しの荷物を片付けて、近所に挨拶周りをして、その他にもやることはたくさんある。
結衣は鼻歌混じりに軽やかにスカートを翻して、軽やかにキッチンを立ち去った。 |