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真夏の蜃気楼
作者:久浄要
この小説は有志企画『夏ホラー2007』に投稿された作品です。キーワード検索で『夏ホラー2007』で検索すると他の作者の方々の様々な作品もご覧頂けます。
※※※

あいつは誰だ?

ジワジワと油蝉のうるさい鳴き声がする。
陽炎のように揺らぐ周囲の景色。狂おしいほどに暑い真夏の白昼…ぼんやりと霞む景色の中でこんなにも鮮やかに。
どういう事だ?
自分そっくりの人間をこの目で見ているなど。向こうもこちらを見ている。
…カンカンカン…。
列車が来る。
遮断機が降りる。
線路を隔てた向こうに、あいつはいる。合わせ鏡のようにあいつはあちら側にいる。
顔を伏せようとしても、目を離す事ができない。
痺れたように頭がぼんやりする。暑さに息が詰まりそうだ。
あぁ…暑い…!
忌々しい暑さのせいで頭がおかしくなったのか?
だからありもしない幻など見るのだ。
カンカンカンカン…
上下に明滅する赤いシグナル。けたたましい音を立てて電車が目の前を通り過ぎていく。
カンカンカンカン…
電車の過ぎ去った後など誰もいるはずがない。自分の姿を見る…?
馬鹿馬鹿しい…!
真夏の蜃気楼でも見たのだろう。無理もない。
この暑さだ。この暑さのせいで虚像と実像の区別すら曖昧になっているのだ。なにしろ今年の夏は異常な暑さだ。
…きっとそうだ。
カンカンカンカン…
電車が通り過ぎた。
遮断機の向こうに…

…いた。

そいつはじっと顔を伏せている。かと思うといきなりこちらを見て…。


ニタリ、と笑った。


ああ…暑い…熱い…。頭がぼんやりする!
蝉の鳴き声が耳に響く!うるさい!頭が痛い!
周囲の景色が白く歪む。あいつがこちらを見ている。
…なんて事だ!
カンカンカンカン…
警告音が止まる。
遮断機が上がる。


「殺してやる」


…………
………
……


※※※
1

「おっはよー紀子!今日もいい天気だね〜!」
アパートの下からタンクトップにホットパンツ姿の親友、安達美紀のボーイッシュな声がした。チェック柄のエプロン姿をした七瀬紀子はベランダに洗濯物を干す作業を中断する。
「おはよう美紀。今日はやけに早いね?ははぁ…さては美紀、今日も朝ご飯まだなんでしょ?」
紀子もアパートの二階から美紀に話しかけた。
この友人は大学生にもなって未だに料理や家事ができない。
「あははっ!バレた?
お陰様でなんにも食べてな〜い!お腹すいたよ〜!ご主人様〜!」
「もぅ…近所に変な目で見られるから早く上がってきなよ」
「そうこなくっちゃ!
…いや〜暑いね〜!
って…あ〜っ!!紀子!?
アンタ、その下着!?」
と言って美紀は紀子がベランダで物干しにかけようとしていた下着を指差して叫んだ。
紀子の手にしているのは男物のトランクスだ。
「この裏切り者〜!いつの間に彼氏できたのよ!?…ってか同棲中?」
「あ…いや、これはぁ…その…」
紀子は自分の長い髪に人差し指をからめてモジモジしている。
「もぅ!まぁいいわ。
とりあえず中に入れて!暑くて死んじゃう!」
よほど暑いのか、美紀は階段を一つ飛ばしで駆け上がってきた。
………
「な〜んだぁ。じゃあストーカー対策の為の下着だった訳ね」
美紀はそう言って形のよい唇を窄めた。登校前の穏やかな一時…食後のコーヒーを飲みながら二人は一息ついていた。
「心配して損したわ」
呆れ顔の美紀に、紀子は悪戯っぽく舌を出した。
「19年間ただの一度も彼氏いないのに、いきなり同棲なんて、ある訳ないよ」
「アンタ大人しくて真面目過ぎだもんね〜。
まぁ、アタシも彼氏いないから一緒かぁ…。
…で、やっぱアレのせいなの?例の事件の…」
「うん…この間あんな事が起こったばかりでしょ?用心の為に…」
一週間前の事だ。江東区で一人暮らしの女子大生がマンションの一室で何者かに刺殺された。被害者は刃物で腹部を滅多刺しにされた上に、首なし死体というとんでもない姿で発見された。
犯人は未だに捕まっていない。そして遺体の首も未だに発見されてはいないらしい。
世間では、逃走した犯人は殺人鬼だ、精神病院を脱走した患者だ、はたまた快楽殺人者の仕業だと既に様々な噂が飛び交っており、新聞やテレビのワイドショーは連日のように夏休みに起きた、この狂った猟奇事件の詳細を伝えていた。
「まぁね…。この辺りも物騒だし、ウチの学生も多いもんね。女の一人暮らしにはいいアイディアかもね。下着泥棒よけにも効果ありそう」
「そうなのよ。
けど一番の理由は、やっぱり『新宿の貴婦人』のタロットのお陰かな」
紀子はまるで夢見る少女のようなうっとりとした表情になる。
美紀は再び呆れて眉をひそめた。
「あぁ…この前、アルタの帰りに寄ったあの綺麗な外人占い師の事?
アンタさ…いくらよく中ると評判の占い師がよ?
この夏の間に必ず恋人ができるなんて言ったからって、さすがにあれはやり過ぎじゃない?」
美紀は壁にかけてある男物の黒いスーツを呆れ顔で見つめた。割と高そうなブランド物だ。紀子が着るとも思えない。となると…
「やっぱ変かな…?こういうのってさ…」
紀子はモジモジと煮え切らない。もう完全に恋愛感情が一人歩きしているような状態らしい。
紀子のこうした一途で純情な性格は、好意的に見れば可愛くて女らしいといえるのだが、美紀には彼女の思い込みの激しい感覚にはいまいちついていけない時がある。
美紀は溜め息をつく。
「はぁ…これだから恋に恋するお嬢様は困るわ。まさか、夜にスーツに話しかけてたりとかしてんじゃないの〜?
子供がぬいぐるみ抱いて話しかけるみたいにさぁ…。『ダーリン、ご飯できたよぉ。それとも先にお風呂に入る?』とかなんとか言ってさぁ…」
「…………」
半分は冗談のつもりだったが、紀子は顔を真っ赤に、耳まで染めて俯いてしまった。
「マジ…で…?」
紀子はコクリと頷く。
ここまでくるとさすがに笑えない。
「アンタ可愛い顔してんだからさ…。いくら病気がちで、今まで女子高通いでチャンスもなかったからって、男と話さない人生なんて面白くもなんともないよ?」
「でも…」
紀子はまた俯いた。
美人なのに未だに浮いた話の一つもないのは、この大人し過ぎる性格のせいだろう。
「今夜さ、実は医大生と合コンがあるんだけど…アンタもどう?」
「え…?でも、私…」
「いいからいいから」
美沙はウインクを一つすると、ポンと紀子の肩を叩いた。
「アンタくらい可愛いなら男共は絶対ほっとかない!ひょっとしたら…そのスーツを着る意中の相手…。現れたりするかもよ?」

※※※

都会というゴミ溜めのような場所には、どうしてこう下らない人間が多いのだろう?
狭い場所に人という人、物という物が雑多に密集していて気が狂いそうになる。
街は雑音だらけだ。
様々な主張をする街の看板や文字など、どれもこれも自分の所が一番だと言わんばかりに。
服装も容姿も異なる様々な人、人、人…。
人の波に潰れそうだ。
苛々する。
こんなに暑いのに手を繋いでいる男女など、見るだけで吐き気がする。
額の汗をしきりに拭うサラリーマン。
所構わずはしゃぎ回るうるさい子供。
汗で化粧のはげた女達が素顔や肌を晒している姿。
どれもこれも醜悪で気持ちが悪い。
暑い…じりじりと頭の芯まで焼けそうだ。


2

「えー…ドッペルゲンガーという怪奇現象を諸君は知っているかね?」
東洋大学の心理学の講義は生徒達には人気があるのか、普段は怠惰な学生達も熱心に授業を聞きにくるから不思議だ。
紀子もこの時間は好きだ。四年になったらゼミの選択はこの若くて聡明な三橋教授の犯罪心理学の研究室に入ろうと今から決めているくらいだ。
知的でイケメンな風貌に似合わない、年寄り臭いしゃべり方が面白いのだ。
「君達も映画やホラー小説などで、一度は耳にした事はないかね?
ドッペルゲンガーはドイツ語では『生きている人間の霊的な生き写し』を意味する。ドッペルケンガーとも呼ばれ、単純に和訳すれば『二重の歩く者』となる」
教授はオホンと咳払いをすると、マイクを握りながら教壇の周囲をゆっくりと歩きだした。
教授は板書をしない。
ノートは自主的にとらなければならないが、話し方に独特の魅力があって退屈しない。
「ドイツ語で『doppel』は英語の『double』に該当し、自分と瓜二つだが邪悪なもの、という意味を含んでいる。
…さて、これは第三者が違う場所で自分そっくりの人間を見る…。あるいは自分自身が自分そっくりの全く違う人間を目撃する事なのだが…。
自ら自分のドッペルゲンガー現象を体験した場合、体験した者は『寿命が尽きる寸前の証』や、『自分そっくりの誰かを見た者は死ぬ』とされ、民間伝承では古くから怪現象として怖れられてきた。海外では実際に『自分に刺された』と証言した者もいる。
…君達も興味深いとは思わんかね?
単純に多重人格の症例と考えるにしても、肉体の実体を伴った乖離現象というのはまずありえない訳だから…」
「ちょっとぉ…それマジなの?」
「マジだって。今日の夜は俺の部屋に来いよ。
最高の気分を味わわしてやるぜ」
「やだぁ…アタシ今日は部屋で見たいテレビあるんだからぁ」
「んなコト言わねーで来いって」
後ろの席にいる茶髪の男と黒いビスチェを着たギャル系カップル達の話声が聞こえる。香水の香りがやたらとキツい。
授業などおかまいなしにイチャつく姿をあちこちで見かけるこのカップルが紀子は苦手だ。
うるさいな…。
紀子は顔をしかめて聞こえないフリをした。
「ねぇ?紀子…」
隣の席にいた美紀が紀子を指で突いてきた。
「なぁに?授業中に。
教授に怒られるよ」
「大丈夫だって、後ろの二人も話してんじゃん。合コンの件だけど、今日の7時に駅前の白木屋で決まりだかんね」
「うん…でも…」
「だからさ、アレがありゃ、そんな気持ちもぶっ飛ぶんだって!
お前、めちゃめちゃにしてほしいって言ってたじゃねーかよ、なぁ?」
「やぁだ!この変態!こんな時に何言ってくれちゃってんのよぉ!」
「そこの君達!」
突然、教授がこちらを見て怒声を浴びせた。
教場中の視線が紀子達に集中した。
「後ろの4人、少し静かにしたまえ。そんなにおしゃべりがしたきゃ、教場から出て行ってくれても構わないぞ」
俯く紀子と美紀。
チッという舌打ちが後ろから聞こえた。
「さ、授業を続けようか。つまりドッペルゲンガーとは…」


3

「夢遊病?へぇ…紀子さんにも、そんな悩みがあったのか?」
「ええ…小さい時から体調が悪いと気が付いたら記憶がすっぽり抜けてたりするんです。
…あ!ごめんなさい…初対面の人に」
紀子は俯き、頬を赤らめて合コンで知り合った東南大学の医学生…三上俊之に答えた。颯爽と愛車のハンドルを握る、俊之の方を紀子はチラリと盗み見る。
素敵な人…。
黒縁の眼鏡越しに光る、怜悧で知的な眼差し。
肩まで伸ばした真っ直ぐな黒髪。シックなスーツ姿に、すらっと伸びた脚と痩せ形の長身…。
合コンの時から紀子を見る眼差しは優しげで、真っ直ぐに語りかけるような話し方も好感が持てた。
…美紀に感謝しなきゃ。
恋愛沙汰にはまるで奥手だった紀子にとって、男の人と夜のドライブなんてまるで夢のような時間だった。
家まで送ってもらうだけなのに、このまま帰るのは勿体ないと思い始めている自分に気付き、紀子の心臓はバクバクと高鳴った。
都会の夜景が、まるで散りばめられた宝石のように車の窓外を流れていく。
お互いにアルコールが一切飲めないのも紀子の警戒心を和らげていた。
始めての合コンで最初から最後まで一緒にいれた男の人だなんて…。
やっぱり運命の人…?
「紀子さん…今日はありがとう。凄く楽しかったよ。普段は合コンなんて苦手なんだけどね…」
困ったような照れたような表情で俊之は頭を掻いた。
紀子は思わずクスッと笑った。普段は落ち着いた雰囲気なのに照れたような表情がかわいい。
「私こそ…。俊之さん優しい人です。男の人に慣れてない私に最後までいてくれて凄く嬉しかった…」
「そうなのかい?」
俊之の表情はあくまで優しげだ。
「なんか守ってもらってたみたい…。…あ!
や、やだ…私ったら何言ってんだろ…」
あたふたする紀子。
俊之は真っ直ぐに、真剣な表情で紀子を見つめてきた。
「紀子さん。よかったら今夜は僕の部屋に来ない?」
………
……

紀子は夢の中で自分の姿を見ていた。
まるで鏡を覗いているようだ。
フワフワと舞い上がるような不思議な心地…あれはきっと昔の自分。
ウジウジして気の弱い、昨日までの私。目が覚めれば素敵な男性が目の前にいて紀子をそっと抱きしめてくれるのだ。
目が覚めれば…
………
……

目が覚めた時には紀子の手は真っ赤だった。
「え…な、何これ?」
血だ。赤黒い真っ赤な血がシーツに…しかも紀子は裸だ。
「何よ…これ?」
シーツをひっぺがす。
隣には…


俊之が血だらけで死んでいた。

「い、いやぁああ!」

紀子の意識はそこで再び途切れた。



4

「おい!いい加減にさっさと吐いたらどうだ!
お前が三上俊之を殺したんだろう!」
バン!と刑事は机を叩く。
「ひっ!し、知りません!私、なんにも…」
原田という45才くらいの叩き上げの刑事はフンと鼻を鳴らして紀子を腐ったモノでも見るように見下した。訳もわからず紀子はうろたえる。
…最悪だった。
朝に俊之の部屋のベッドで裸で目覚めた時にはシーツは血だらけ…。車から降りて夢のような行為に期待を膨らませながら、部屋に導かれて…。それから…
記憶は途切れている。
隣にはいきなり裸で冷たくなった俊之の死体があったのだ…。
「いい加減にしろ!
お前の部屋から血のついた包丁も見つかっているんだぞ!」
「知りません!私…本当に何も知らないんです!信じて下さい!」
「そんなの信じられると思ってるのか!」
「まぁまぁ原田さん…。まだ血のついた凶器が彼女の物と決まった訳じゃないんですから」
「そうです。誰か他の人が、彼女を罠に嵌めた可能性だってあります」
傍らにいた柔道選手のような大柄な体格の男と小柄な女刑事が原田を諫めた。2人並ぶとやたらと凸凹していて妙な、若い2人組だ。
「わかってるよ!しかしだな花屋敷、石原。
タクさんによれば、この女は夢遊病の気質もあるって話じゃないか?この間の首切り事件だってこいつの仕業に…」
「あれは別の事件ですよ、原田さん。
しかし…夏場にはどうしてこうイカレた事件ばかり起こるんだぁ?
去年の学園の事件も確か今の時期で…」
「花屋敷先輩、それは今は関係ないです。
とにかく…」
石原と呼ばれた女刑事は泣きべそをかいた紀子を優しげに見つめた。
「今日の所は帰っていいわよ。まだアパートのあなたの部屋は警察が調べるから、友達の所にでも泊まって、ゆっくり休むといいわ」


5

「じゃあ、紀子。アンタが起きた時には隣にその俊之って男が死んでたっていうの?」
「うん…。本当に私…何も覚えてないの…」
紀子の声は沈み、段々と涙声になっていった。
紀子は美紀の腕にすがりついた。
「ねぇ!?私…俊之さんの事…殺したりしてないよね!?美紀なら信じてくれるでしょ!?」
紀子は必死だ。
「残念だけど…今の所アタシには誰が殺したかなんて、わかんないよ。
もちろん紀子の事は信じてるけどさ…」
「そんな…」
再びうなだれる紀子。
「とにかくアンタもゆっくり休みなさい。疲れてるのよ」
「…………」
美紀は立ち上がってキッチンへと消えた。

1人になった。

…これからどうなるんだろう?
紀子は膝を抱え込む。
幼い頃から、紀子には確かに夢遊病の気質がある。夜中に目覚め、違う場所に寝ていた事も確かにあった。
しかし病気がちといえばそれくらいで、神経科の医師も心配はいらないと、両親に太鼓判を押したほどなのだ。
シャワーでも浴びて頭をスッキリさせよう。
紀子は立ち上がり、バスルームを借りる事にした。下着も暑さと冷や汗でベトベトで気持ちが悪かった。
衣服に手をかけた…

その時だった。

「な、何…この臭い…」
鉄臭いような金臭いような、独特の有機的な臭気…。そう、これは今朝も嗅いだ臭い…。
紀子は恐る恐るバスルームの戸を開いた。


2人の裸の男女が、まるで折り重なるようにして死んでいた。


「あ…あぁ…!」
腰が抜けた。

「見たわね」

突然後ろからシュッという音と共に、鋭い痛みが紀子の右腕に走った。
「うっ!」
紀子はその人影に体当たりすると、一目散にバスルームからリビングに駆け込んだ。
信じられなかった!
「あ…あなたの…仕業だったのね?全て…」
紀子は斬りつけられた己の熱い右腕を押さえながら、包丁を手にした黒い下着姿のその人物…
安達美紀を見た。
「ええ、そうよ…。
私以外に誰が俊之やそこに転がってる豚共を殺せるって訳?」
「どうして…こんな事…私が何をしたっていうの!?」
「可哀想な紀子…
何も知らずに俊之の部屋なんかに行くから、こうなるのよ」
「俊之さんが…美紀と…嘘よ!嘘っ!嘘嘘!」
「黙って夢遊病のままでいてくれたら、そこの豚共のやってたクスリで、気持ちいいまま天国に行けたのにねぇ…」
「授業中に後ろにいた2人まで…何でよ!?」
「この私にみんなの前で恥をかかせたのよ?
私そっくりの『あいつ』共々、生かしておける訳ないじゃない」
「何なのよ!意味わかんないよ!?美紀ぃっ!」
「うぅっ!暑い!
身体が…頭が…!
…くっ…!」
美紀はいきなり頭を押さえて苦しみ出した。
かと思うといきなりこちらを見て…

ニタリと微笑んだ。

「さぁ!おしゃべりはここまでよ!夢遊病者はヤクに溺れて、全部の罪をひっかぶって自殺してもらうわ!最高のシナリオでしょ?」
「いやああぁぁ!」
その時だった。
バン!と音がして入口から躍り出てきた影があった。
黒い俊敏なその塊は、美紀の包丁を持った右腕に素早く手刀を見舞うと、彼女をバスルームまで思い切りドンと押しやった。
「きょ、教授!?」
駆けつけてきた男は、東洋大学の若き教授、三橋だった。
「こんなセンスのない最低なシナリオで、私の有能な助手の候補に…死なれてもらっては困るのだよ」
颯爽と現れた教授の口調はやはりどこかおかしい。
「ど、どうして?」
「安心したまえ。
…もう大丈夫だよ。
花屋敷から君の事で相談を受けてね。気になって来てみればやはりな…
あいにくだったな安達君。もうすぐここに知り合いの刑事も来る。
…君の負けだ」
「くっ…体が熱いっ!熱い熱い!熱いぃっ!」
美紀は落ちた包丁に手をかけた。教授も手を伸ばす!

ガシッ!

真っ赤な包丁を手にしたのは…

美紀だった。

美紀はうっすらと微笑むと、まったく躊躇いもなく…


自らの首を斬った。


ブシュッ!という音と共に鮮血の赤が天井を、壁を、床をしとどに濡らす。
パトカーのサイレンの音が血の雨の音と重なった、その時…

紀子は気を失った。


6

「右腕の方はもう大丈夫なのかね?」
お見舞いのフルーツの籠を窓辺に置くと、相変わらず若い風貌に似合わぬ年寄り臭い口調で、三橋教授は紀子に尋ねた。
「ええ…平気です」
紀子は薄く微笑む。
「そうか…よかった」
病室のベッドにもたれた紀子に向け、教授は優しく、いたわるような微笑みを投げかける。
「今日も暑いなぁ…。頭脳労働者には酷だ。カーテンを開けよう」
「ええ、すみません」
真夏の日差しは今日も都会をジリジリと焦がすように暑い。けれど、やはり夏は暑いものと決まっている。
爽やかな風が病室に吹き込み、紀子の頬をサラリと撫でていく。
遠くの方から蝉や虫の鳴き声がする。
空は高く、抜けるように青く…そして夏はまだまだ暑くなる。
あれから3日…。
事件は美紀の死と共に終わりを告げた。
バスルームにあった2体の死体は、同級生のあのカップルに間違いなく、凶器からは三上俊之の血痕も発見されたという。殺された2人は軽度の薬物中毒者だったのだ。
午前中にお見舞いに訪れた花屋敷と石原という、あの凸凹した2人の刑事によれば、彼女はあらかじめ2本の包丁を用意してあの部屋に忍び込んで俊之を殺害し、もう片方の包丁で犯行後、寝ていた紀子の指紋を付着させた上、罪を着せようとしたのだという。
三上はかなり女にだらしがなかったらしく、美紀が犯行に及んだ動機も、やはり怨恨によるものだろうというのが警察の見解だった。
しかし…紀子にはいささか引っかかる点があった。
「教授…」
「何かね?紀子君」
教授は彼女をそう呼ぶ。
茫洋としたホッとする笑顔に向けて紀子は思いきって尋ねてみた。
「彼女…美紀は一体、何を見てしまったんでしょう?美紀があの時、言ってたんです…。
私とそっくりの『あいつ』共々生かしてはおかないって…。最初は私の事かと思ったんですが…」
「さて…あれだけの錯乱ぶり…確かに尋常な理由ではないだろうね。
…ドッペルゲンガーでも現れたかな」
「あ!それってこの間の授業で…」
「うむ…警察のあのデカい男は私の友人でね。
奴に聞いた所では司法解剖の結果、彼女の頭部から、かなり大きな脳内浮腫が発見されたそうだ」
「美紀の…頭から?けどそれがどうして…」
「うむ…ここからは仮説の域を出ないのだがね…。
ドッペルゲンガーという現象は実は脳内浮腫と無関係ではないんだ。
脳腫瘍など、脳に機能障害を患った患者は、時に自己の認識の感覚を喪失してしまう事があるのだよ。つまり実際には存在しえない、『もう1人の自分』を脳が再構成して目撃したり、まったく別の人間を自分の姿として認識してしまう事もありうる訳だ。
体感温度も常人とは違ったものになったり、それこそ二重人格のような症例も現れたりする」
「そういえば…美紀。
あの時も下着姿でやたらと『暑い!身体が熱い!』って…」
「すべては真夏の蜃気楼が生んだ幻だったのかもしれないな…。彼女の頭の中には夥しい量の水が詰まっていたそうだ…。
まぁ紀子君。事件は終わったんだ。オカルトは私も専門外だから、あまり無責任な議論はなしにしようじゃないか」
「そう…ですね…」
教授は後ろで手を組み、背中を向けた。
紀子は逡巡する。
言うべきか。
それともやめるべきか…。
伝えたい言葉…。
魔法の言葉だ…。
言え!言ってしまえ!
教授に言うなら今しかない…!もう1人の自分にさよならするの…。
勇気を出せ、紀子!

「教授…退院したらお祝いに私と…デートしてくれませんか?」

紀子は慌ててシーツを頭から被った。
教授は僅かに驚いた表情をすると、ニコリと優しげに微笑み、お見舞いの籠から一枚の封筒を取り出すのだった。
「そいつは奇遇だな。
実はアンソニー・ホプキンス主演の映画のチケットを2枚、手にいれたのだよ。
…よかったら一緒に食事がてらどうかね?」
紀子の顔は真夏の朝日のように輝き、気がつけば教授に抱きついていた。

そう…
夏はまだまだ終わらない。
暑い熱い、紀子の夏は…
 拙作を最後まで読んで頂き、誠にありがとうございます。
 真夏の夜を様々な悪夢で彩る『夏ホラー2007』の為に書き下ろした本作ですが、まだまだ作品としても、内容としても未完成だと作者自身感じております。
 夏ホラーの各賞の選考が終わり次第、加筆修正を加え、大幅に改稿したい所存ですので、機会があればもう一度、改めてご一読下されば感謝の念に耐えません。
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